新・名力士データ
新パラメータ版
1昭和の大横綱 2平成の大横綱 3強豪横綱(昭和前半) 4強豪横綱(昭和後半〜平成)
平成時代も三十余年の歴史に幕を閉じた。
期間にすると昭和の半分弱だが、強豪横綱が登場した。
令和にもまたがって君臨する白鵬まで、
優勝20回を超える3横綱の全盛期を分析する。
基本データ |
四股名(最盛期のもの)、横綱代数、出身地、所属、参考年号(最盛期) 取り口:相撲の取り方を独自の分類で表記(⇒相撲解体新書のページ参照) 型 :得意とする形(一例) 得意技:公式のものに近い表記で 体格 :身長は1cm刻み、体重は5kg刻みで掲載前後の平均的なもの、体格分類は解体新書参照 |
パラメータ
持ち技リスト 特性 |
体格:スケール、重量など体格面の総合値 |
解説 | 略歴・後世の評価・実績・引退後/取り口解説・パラメータの評価とスキルの解説・現代との比較 /四股名・締め込みについて |
貴乃花 65代 東京出身 二子山部屋 平成8年 | |||||||||
取り口:本格型 | 型:右差し左上手 | 得意手:寄り,投げ | 185cm/155kg 中型中肉 | ||||||
体 格 |
B11.5 | 懐 | 12.0 |
<決め技>右四つ寄り7a 左上手投げ5a 前褌寄り 5c 左四つ寄り5c 突っ張り 4c モロ差寄り3d 上手出投げ3d 掬い投げ 3d 突き落とし3d 呼び戻し 1e |
<崩し技>腕返し 5b 巻き替え 3c 引きつけ 5a まわし切り5b おっつけ 5b 浴びせ倒し2d はたき 3d ひねり 2d 外掛け 1d 吊り 1e
|
<立合> 前褌 4b 右差し 3b 左差し 3c カチ上げ3b モロ手突き3d ぶちかまし3d 左上手 2d いなし 2d 頭d肩b胸b 手d変化d |
<心> 安定感 スロ-スタ-タ 尻上がり 横綱相撲 土俵際 同部屋× 東京場所〇 チャンス× 顔から 早熟型 |
<技> 上手相撲 逆四つ○ 前捌き 膝送り 被さり |
<体> 足腰柔軟 摺り足○ スタミナ〇 肝機能 腰痛 |
重 | 11.0 | ||||||||
力 | B12.0 | 馬力 | 12.0 | ||||||
怪力 | 12.0 | ||||||||
足 腰 |
A13.5 | 安定 | 13.5 | ||||||
粘り | 13.0 | ||||||||
速 | C10.5 | 出足 | 11.0 | ||||||
敏捷 | 10.5 | ||||||||
技 | B12.5 | 技巧 | 12.5 | ||||||
キレ | 12.0 | ||||||||
離 | C10.5 | 突 | 10.5 | ||||||
押 | 11.0 | ||||||||
引 | 9.5 | ||||||||
組 | A14.0 | 寄 | 15.0 | ||||||
投 | 13.0 | ||||||||
捻 | 9.0 |
★略歴 父は超人気大関貴ノ花の次男。若貴兄弟として入門当初からマスコミに注目され続けた。曙、魁皇など錚々たる面々が集まった同期は、花の63春組と呼ばれる。中卒での入門ながら、強力なライバルたちを抑えて、かつて父も更新して話題になった最年少出世記録を次々更新。18歳だった平成3年春は11連勝でトップに躍り出て初の三賞。そして翌場所初日、千代の富士との世紀の一番で初金星。翌年初場所は史上唯一の10代での優勝を飾った。秋には早くも2度目の優勝を記録、5年初場所後に最年少大関に。そこから横綱へは険しい道のりだった。大関3場所目は優勝に続いて優勝同点だったが見送られ、北の湖の年少昇進記録は抜けなかった。さらに優勝を重ねるが綱取り場所で躓き、6年秋は初の全勝でV6を果たすが、横審で異例の否決。翌場所は意地の連続全勝で文句なしの昇進を果たした。 平成7年から8年にかけて抜群の安定感を発揮、毎場所最後まで優勝争いを演じ、先に横綱として君臨していた曙から完全に覇権を奪った。8年は4連覇を果たし、年間勝利数更新の期待もかかったが、九州場所は初土俵以来初の休場。以降稽古量が減り、徐々に安定感が失われていく。9年は3度制覇したが、10年には途中休場が続くなど昇進以来初めて乱調。兄若乃花や師匠との関係がマスコミで取り沙汰されると、国民的ヒーローの人気は失墜した。20回目の優勝は果たしたが、11、12年は怪我も重なり賜杯から見放された。13年は1,5月と圧されがちだった横綱武蔵丸との決定戦を制し、特に5月は膝に重傷を負いながらも奇跡の優勝で感動を呼び、名実共に復権を果たしたが、手術に踏み切り長期離脱。横綱として最長の7場所連続休場に至って遂に横審から出場勧告、14年9月は復活し相星決戦まで戦うが、怪我の回復は思わしくなく、翌年1月負傷休場から再出場の末、玉砕的な引退劇だった。 ★評価 平成前半の相撲界の話題を独占した超人気力士にして大横綱。求道的な姿勢、横綱相撲は双葉山を思わせた。ハワイ勢ら大きな相手にも真向勝負、相手に攻めさせながらも最後は相手が諦めるように寄り切ってしまう相撲ぶりへの評価は高かった。ピークは案外短かったが、平成6〜8年にかけて12勝以上が13場所連続。安定感、初土俵以来の連続出場の強靭ぶりも魅力だったが、後年は故障休場が続いて悲壮な引退劇となった。横綱若乃花、大関貴ノ浪、関脇安芸乃島、貴闘力ら藤島軍団と恐れられた難敵との対戦がなかった点は、特に曙との比較でかなり有利という指摘は当時からあり、個人別総当たり論も巻き起こった。 ★実績 目立つのは最年少記録。17歳での十両昇進から、大関昇進まで悉く塗り替え、横綱も優勝後の優勝同点で見送られなければ更新していた。優勝は歴代6位(当時4位)の22回。26歳で20回を記録したが急減速したこと、案外取りこぼしが多く連勝記録が大関時代の30を超えなかったことは惜しまれるが、このあたりは優勝24回の最年少横綱・北の湖とよく似ている。 ★引退後 一代年寄を贈られ、引退翌年には二子山部屋を継承。貴乃花部屋と改称した。兄弟弟子たちが引退していく中、先代の死去に当たって兄の元若乃花との絶縁騒動が再燃、大卒や外国人力士も取らず、一時新弟子が途絶え急速に縮小した。そんな中で平成22年に一門を割って理事選に強硬出馬し、一門外からの協力を得て当選。その後造反者らを受け入れて貴乃花グループを形成。改選を続け、貴乃花一門として認定された。要職を歴任し、北の湖理事長急逝後は理事長選を戦うまでに存在感を高めた。弟子の育成面も上向き、モンゴル出身の貴ノ岩が幕内に、有望株も続々。ところがその貴ノ岩が29年に横綱日馬富士から宴席で暴行を受けたことに憤慨、執行部との対決姿勢を露わにして、暴走とも思える強硬手段に出て、やがて孤立した。翌年の理事選は強硬出馬したが落選、一門は解散、降格処分も下って、無所属でやり直すことを宣言したが、一門への所属を義務付けられ遂に退職。皮肉にも直後の場所で、千賀ノ浦部屋に引き取られた貴景勝が初優勝した。 |
★取り口 上手を引き付けて寄る本格派の四つ相撲。突っ張りを受けても下半身は崩れず、徐々に追い詰め、捕まえれば左右に揺さぶって棒立ちにさせて盤石の寄り切り。後年は右四つに固まったが、全盛期までは左四つに組む相撲も目立ち、遜色なかった。特に武蔵丸や琴の若など右四つの力士には、左四つに組み止めて圧倒している。横綱昇進後には減ったが、元々はまず突っ張りで先制して、前に出ながら良い形に組む流れだった。 ★パラメータ・スキル 総合値12.1。4連覇を達成し、九州場所全休でも年間最多勝をマークした平成8年は、体格的にも充実しまさに絶頂だった。決まり手の半数以上を占めた寄り切りが貴乃花の真骨頂。基本通りすり足で進み、絶妙な膝の送りで寄り詰めるので、相手が土俵を割る前に諦めるのが特徴的だった。時折強引に深い上手のまま出て行って逆転を食うのが玉に瑕。9年以降は上半身がさらに大きくなってその傾向が増えた。標準クラスの体でもスピードに頼らず、技に溺れず、あくまで基本通りを貫くが、いざという時の変わり身も実はできる。 ★現代との比較 当時は圧倒していた印象だが、自分より大きな相手に真向の四つ相撲で対抗するため、苦心して形を作っている。現代の四つ相撲の力士たたちは、もっと懐が深い力士でも前褌や両差しを狙い、頭をつけたり速攻相撲を取るので、体の大きさこそ違えども平均体重との差で言えば、叔父若乃花ばりの異能力士に見える。こうしたタイプの上位力士はもう出てこないだろうか。 |
★四股名 叔父横綱若乃花と父の大関貴ノ花兄弟にちなみ、若花田、貴花田でデビュー。それぞれ大関昇進時に偉大なしこ名を受け継ぎ、在位中に「乃」の字に改めたが、貴ノ花は横審で否決されて昇進を逃した6年九州に改名。これでもかと連続全勝優勝を果たして文句なしの昇進を果たしたのは、意地の表れか。父も一時貴乃花としたが、すぐにカタカナのノに戻している。元々「貴」はほぼ藤島・二子山部屋の専売特許。貴乃花部屋になってからはほとんどの力士が冠した。「花」は影響からか各部屋に1人はいる印象だったが、栃乃花あたりを最後に幕内では見られなくなった。 ★締め込み 横綱昇進直前の6年途中からはずっと茄子紺で通した。新十両から紫で番付を駆け上がり、初優勝時にはもう紺色だったが、その後紅色、抹茶色と大関時代にかけて移り変わった末に再び行き着いて定着した。その後、紺色は栃東が長く使い、白鵬や鶴竜も締め、稀勢の里もこの色に変えて貴乃花以来14年途絶えていた日本出身横綱となった。落ち着いた色合いで王者に相応しい。 ★その他 王道を行く横綱らしく、雲竜型の土俵入りも年々重厚さを増していったが、朝青龍と逆でタメが長すぎる気があった。マスメディアの寵児ゆえに功罪共に大きく報じられ、もはや力士像がわからなくなっている面がある。土俵態度に苦言を呈されたことも事実だし、横綱たる真摯な態度を守っていたことも事実。少なくとも乱暴な取り口で物議を醸すようなことはなかった。平成後半は一代年寄として、稀代のカリスマ性で彼方此方にシンパがおり、一門制度を葬り去らんばかりの嵐を巻き起こした。 |
朝青龍 68代 モンゴル出身 高砂部屋 平成17年 | |||||||||
取り口:スピード型 | 型:左差し右前褌/突張り | 得意手:寄り,投げ,突き | 184cm/145kg 均整筋肉 | ||||||
体 格 |
D 9.0 | 懐 | 9.5 |
<決め技> 右下手投げ6b 右上手投げ5b 左掬い投げ5b 右前褌寄り4b 左前褌寄り5c モロ差寄り5b モロ手突き5c 突っ張り 5b 吊り落とし4e 切り返し 5d |
<崩し技> おっつけ4b 小手投げ4c 張り手 5c 内無双 3c 下手出投げ3c 外掛け 4c 櫓投げ 2e 掛け投げ 3d たぐり 4b 巻き替え 4b |
<立合> 左差し 4b 張差し 5b 右前褌 3d 張り上手 4c カチ上げ 4c のどわ 5d けたぐり 2e 頭d肩b胸c 手b変化e |
<心> 威圧感 勝負強い 安定感 速攻 短気 初顔◎ 多彩 逆境〇 荒技 早熟型 |
<技> 相撲勘 差し身 まわりこみ もぐり 回転〇 逆四つ○ 足癖 チョン立ち 打ち合い○ |
<体> 前傾○ 体質柔軟 首筋 左肘 |
重 | 9.0 | ||||||||
力 | B12.0 | 馬力 | 12.0 | ||||||
怪力 | 12.5 | ||||||||
足 腰 |
S14.5 | 安定 | 14.5 | ||||||
粘り | 15.0 | ||||||||
速 | S14.5 | 出足 | 14.0 | ||||||
敏捷 | 15.0 | ||||||||
技 | A14.0 | 技巧 | 12.5 | ||||||
キレ | 15.0 | ||||||||
離 | B12.0 | 突 | 13.0 | ||||||
押 | 11.0 | ||||||||
引 | 12.0 | ||||||||
組 | A13.5 | 寄 | 12.5 | ||||||
投 | 15.0 | ||||||||
掛 | 11.0 |
★略歴 父はモンゴル相撲の元関脇。留学して高校相撲を経て、若松部屋に入門。瞬く間に番付を上げて13年初場所新入幕、すぐに三役に定着し、軽量ながらスピーディーかつ気迫溢れる相撲で上位陣を苦しめた。14年には優勝争いにも絡み、秋場所新大関。九州場所では独走し初優勝を果たすと、続く15年初場所も制し大関在位3場所にして横綱昇進を決めた。同場所中に貴乃花が引退。バトンを受け継ぐように最高位に上り詰めたが、横審では品格を問題視されて紛糾した。 同郷の旭鷲山戦で反則負けを喫するなど、早速懸念されたトラブルが表面化。取りこぼしもあったが、休場が続いていた武蔵丸の引退で名実ともに1人横綱となった16年初場所での全勝優勝から平成新記録の35連勝。黄金時代の幕が開けた。16年秋こそ5連覇を逃したが、続く九州場所で奪還するとそこから敵なし。17年九州場所14日目、大関魁皇を圧倒した一番で、7連覇、年6場所完全制覇、年間最多勝更新と3つの新記録を達成した。18年は連覇が止まり、途中休場もあったが3連覇で絞めて4度優勝。19年は春・夏と初めて2場所連続で優勝を逃し、白鵬の横綱昇進を許した。名古屋場所は賜杯を奪い返したが、場所後巡業休場中のサッカー事件で前代未聞の2場所出場停止。復帰後は白鵬と2場所連続相星決戦を戦ったが、5歳若いモンゴルの後輩に押されがちで20年後半は不振に陥り進退問題も囁かれた。ところが、持ち前の不敵さ勝負強さは健在、21年は決定戦で2度白鵬を破り3年ぶりに年間皆勤して72勝と持ち直した。22年初場所では逃げ切りに成功し、北の湖超えの25回目の優勝を果たしたが、場所中の暴力沙汰と隠ぺいが明らかになり、これまでの度重なる不祥事もあって情状酌量ならず、詰め腹を切らされる形で引退した。 ★評価 22歳で横綱となり、驚異的なペースで優勝を重ねて一時は大鵬の優勝回数を塗り替えるのも確実と思われた。16、17年は1度しか優勝を逃さず、取りこぼしもわずか。荒っぽすぎるとの批判はあったが、重量化し大味になった前時代の閉塞感をうち破り、縦横無尽の速さと多彩な技で翻弄する軽量力士が天下を取ったことは鮮烈な印象を残した。増加の一途だった幕内平均体重もやや横ばいになるなど影響力を発揮した。成績には文句のつけようがないが、当時は横綱不在、大関陣も下り坂で対抗馬不在、独走の展開が目立ったこともあり、相手に恵まれているからと実績を割り引いて評価する声も少なくなかった。稽古不足や、土俵内外での言動の品格不足と再三批判を浴びながらも、奔放な言動は改まるどころかむしろ悪化。最晩年には派手なガッツポーズまで飛び出した。一方で、横審委員に人たらしと評された憎めないキャラクターと従来にない破天荒な横綱像は、ダークヒーローとも言える特異な人気だった。 ★実績 入門年齢は高かったが、昇進の所要場所数では上位に名を残し、25場所で横綱は最短。年6場所完全制覇は史上唯一。7連覇は大鵬を超えて1位。年間勝利84は2位。優勝回数25は第4位。連勝35は、個人別では平成2位、昭和以降5位。29歳で引退しており、力士寿命まで務めていれば通算記録もさらに上位を記録していただろう。大鵬の優勝回数の更新を恐れて引退させたという批判も母国ではあったようだが、白鵬の台頭から30回まで迫れたかは微妙なところだ。 ★引退後 日本国籍を取得しておらず、引退後は角界を離れることとなった。当然一代年寄を与えるという話も挙がらなかったが、もし帰化していてまともな引退であれば、北の湖を上回る優勝回数を記録しただけに、一代年寄の話が出てもおかしくはなかった。後輩のモンゴル人力士との交流はあり、時折来日。完全に縛られない立場で、相撲界の出来事に対してもツイッターなどで自由に発言。引退後10年を経てもマスコミを騒がす影響力を持つ。甥の豊昇龍が立浪部屋に入門、令和の時代のショーリューはどこまで活躍するか、楽しみである。 |
★取り口 左四つで右浅い上手を引けば万全。公式の得意手は右四つとされていたように右差し左前褌の型も良く、むしろ投げは右下手からが一番切れ味があった。激しい突き押しも武器で、張り手も交えて圧倒することもある万能型。前褌を引き付けて鋭く寄るのが一番安定感があったが、左右、上手、下手からの投げあり、出し投げ、ひねり、内無双、足技まで業師顔負けの多芸ぶりを発揮。外掛け気味の切り返し、さらにそれを応用して相手の横に食いつけば膝を使って相手を浮かせ、豪快に背中から落とす「吊り落とし」を披露して恐怖心を与えた。櫓投げを決めるなど派手な荒技も積極的に狙う。突き押しに圧倒されることもなく、下から入って両差しになるか、下がっても網打ち、伝え反りを決めたり、時には背中を見せて回り込む驚異的な敏捷性、粘りを見せた。怪力相手にがっちり組み止められるくらいしか負けパターンはなかった。 ★パラメータ・スキル 総合値12.8。年間84勝で完全制覇した25歳の年。抜群の反射神経で相手の先を行き、切れ味鋭く多彩な技で翻弄。不利な体勢でもあっという間に逆転した。大一番ほど力を発揮した闘争心も武器。入幕当初は気負いすぎてか2場所連続で勝てば三賞のチャンスを逃したが、大関になる頃には激しすぎる気性も土俵上では弱点にならなかった。栃東など低くしぶとい相手には苛立って張りまくって墓穴を掘ることもあったが、大抵は相手のほうが根負けして戦意を喪失した。後年は序盤取りこぼしたり息切れしたりもしたが、全盛期は無類の安定感を誇り、ストレートの勝越回数、初顔相手の連勝記録を更新した。 ★現代との比較 このスピード感とパワフルさは歴代でも際立つ。白鵬との二強時代には本割7連敗で終わっており、横綱相撲を取られると体格的な不利を露呈したかもしれないが、全盛期にそういうタイプは少なく、怪力力士もスピードで翻弄できた。10年前より平均体重は増え、気鋭の若手も増えた現代でも苦戦するイメージはない。白鵬戦7連敗中にも2度決定戦では破っており、勝負強さ、草原の狼のような眼光で圧倒する威圧感では、「ウルフ」千代の富士と双璧か。 |
★四股名 師匠の朝潮から「朝」、留学先の高校近くの寺院から「青龍」を取った。同じ経歴で入門した弟弟子は朝赤龍。揃って初日から12連勝したときは話題になった。甥の豊昇龍がしこ名の音を引き継いでいる。専売特許ではないが、モンゴル勢を中心に「龍」をつける力士が多くなった。
★締め込み 関脇の頃に締め始めた黒廻し。同じく筋肉質の体で君臨した千代の富士をリスペクトしたものと思われるが、自分のものにした。新十両から三役昇進ごろまでは空色。17年春は黄金の廻しで臨み、前場所からの連勝を27まで伸ばしたが、1つ負けると翌日から元の黒に戻して優勝。その後は黒一色で通した。 ★その他 土俵入りは高砂一門の歴代同様雲竜型。東関部屋付きの曙から指導されたが、初めての外国出身力士からの伝授だった。良く言えば流れるような、悪くいえば反動を使いすぎでタメ、メリハリに欠ける印象。所作には逐一批判が付いて回ったが、時間いっぱいで塩に別れる際、大きく腕を振り上げて左、右、左と腰を三度叩いて気合を高めるルーティンは、観客も乗せられた。勝ち名乗りで正面土俵方面に睨みを効かせるのもお約束で、ある意味で興行としての大相撲に最も理解のある横綱だった? |
白 鵬 69代 モンゴル出身 宮城野部屋 平成22年 | |||||||||
取り口:本格型 | 型:右差し左上手 | 得意手:寄り、投げ | 192cm/155kg 長身中肉 | ||||||
体 格 |
A13.5 | 懐 | 14.5 |
<決め技> 左上手投げ6a 左上手出投5c 右四つ寄り6a 小手投げ 5c はたき 5c モロ手突き3c モロ差寄り4c 上突っ張り4b 掬い投げ 4c 掛け投げ 3c |
<崩し技> 右腕返し 4c 引きつけ5b 張り手 4b 巻き替え 5c 内掛け 2e はねあげ 3b 廻し切り 5c とったり 4c 吊り落とし1e 極め 4c |
<立合> 張差し 5b 右カチ上げ5b モロ差し 3d 左前褌 3c 右差し 3d 左上手 2d モロ手突き2d とったり 3e 頭e肩b胸c 手b変化e |
<心> 安定感 じらし 尻上がり まった 投げ多用 威嚇 策士 荒技 早熟型 長寿 |
<技> 前捌き まわりこみ 出足早 膝払い チョン立ち 受身○ 足技 外四つ |
<体> 足腰柔軟 体質柔軟 吸収 粘り腰○ 摺足○ 両ひじ |
重 | 12.5 | ||||||||
力 | B12.5 | 馬力 | 12.5 | ||||||
怪力 | 12.0 | ||||||||
足 腰 |
A13.5 | 安定 | 13.5 | ||||||
粘り | 13.5 | ||||||||
速 | A13.0 | 出足 | 13.0 | ||||||
敏捷 | 12.5 | ||||||||
技 | A13.0 | 技巧 | 12.5 | ||||||
キレ | 13.0 | ||||||||
離 | B11.0 | 突 | 11.0 | ||||||
押 | 10.5 | ||||||||
引 | 11.0 | ||||||||
組 | S14.5 | 寄 | 14.0 | ||||||
投 | 14.5 | ||||||||
極 | 12.0 |
★略歴 来日し、15歳で入門。父はモンゴル初の五輪メダリストにしてモンゴル相撲の強豪横綱だったが、当時は細身で貰い手がなく、旭鷲山の仲介で帰国直前に宮城野部屋に拾われたのは有名な話。大鵬のよう順調に出世するにしたがいみるみる大きくなった。平成16年5月の新入幕からすぐに頭角を現し、三役に上がって少々停滞したが、18年に入ると連続13勝で大関へ。新大関14勝で初優勝、翌場所も13勝したが、最短昇進は時期尚早として見送られた。一時不調、故障休場もあったが、翌年3月決定戦で朝青龍を破ると、翌場所は全勝で連覇を果たして横綱に昇進した。当時は朝青龍の一人天下で、昇進後は2場所続けて賜杯を譲ることなく、史上最長の一人横綱に君臨していたが、難関をこじ開けた。 20年1月、出場停止明けの朝青龍との横綱相星決戦では、今も語り草の熱戦の末に3連覇を果たした。二強時代と言われながら徐々に先輩横綱を凌駕し、20年は年間80勝、21年には史上最多を更新する86勝4敗。決定戦で3連敗する甘さはあったが、今度は白鵬が2場所連続で賜杯を逃さない絶対的存在となる。22年1月に朝青龍が突如引退して一人横綱になると、文字通り無敵となり、3月から4場所連続全勝(15日制初)。双葉山超えは逃したが史上2位の63連勝を果たし、2年連続で86勝を記録した。連続優勝は23年まで続いて7連覇。24年はやや不調で3場所連続で優勝を逃し、一人横綱時代が終わったが、25年からは2度目の6連覇を達成。横綱前期ほど圧倒的ではないが、日馬富士、鶴竜とモンゴル横綱陣を形成した中興期は勝負強さが増して優勝を積み重ね、27年1月には史上最多記録を更新した。同年9月に昇進後初の休場で連続記録が止まった後期は、下半身の怪我が多発したが、皆勤できれば優勝どころか全勝も記録。晩年はあまりに多い休場に批判が集まったが、復帰しては結果で黙らせた。6場所連続で休場が続いた3年名古屋では進退を賭すと名言して出場、横綱昇進確実となった照ノ富士との楽日全勝決戦を制し、これを置き土産に翌場所後突然引退を発表した。 ★評価 年6場所制以後で間違いなく最強と評されて然るべき圧倒的な成績を残し、相撲ぶりも能力面も弱点が見当たらない。しかも他の大横綱のように強い同部屋・同門力士と当たらない有利はなく、常に上位総当たり。それでもライバル不在の時代に恵まれたとか、正当な評価を受けられないのは、外国出身者への差別か、はたまた自身の言動による不徳による処か。前半期は朝青龍との対比で優等生横綱として扱われ、自身も反面教師を教訓に振る舞っていた。野球賭博、八百長事件など不祥事多発の暗黒時代を一人横綱として支える青年横綱として、世評は良好。若くして「土俵王」の称号を与えられるなど横審からも評価されていたが、キャリア終盤は不遜な言動や荒っぽい相撲ぶりが目立ち、関係は悪化。毎度非難の対象となった。 ★実績 史上1位の優勝回数45回、全勝16回は次点を圧倒。もはや更新は不可能に思える。双葉山に迫った63連勝も、大鵬、千代の富士を超え6場所制下では1位。通算記録でも前人未到の幕内1000勝など、悉く1位に。横綱在位も場所数、年数で昭和以降最長となる。入幕が史上4位の19歳1か月、そこからずっと強いまま15年連続で優勝を記録する安定感。記録はすべて塗り替えたのも当然か。 ★引退後 36歳にして引退。日本国籍さえ取れば、前例からして一代年寄が与えられても不思議ではなかったが、自ら一代年寄を欲するような発言や余計な言動が睨まれて、わざわざ未然に一代年寄制度は根拠がないとの答申を取り付けて道を絶たれたばかりか、間垣の襲名時にも誓約書を書かされる有様。間垣株も引退前に偶然空きが出たもので、大横綱にして辛うじて協会に残れたというのはあまりの冷遇だった。将来の独立に向け、浅草に部屋開設予定というが、果たして宮城野部屋を継承する形になるのかどうか。 |
★取り口 右四つ左上手で万全。寄り、上手投げを主武器に、器用に多彩な技も繰り出す。この形で負けたことはほとんどない。自身も「型をもって型にこだわらず」を心がけているようで、多彩な展開に対応。突き押し合戦でも引けを取らないが、張り手交じりの上突っ張りが目立つ。立合いは、低く前褌を取りに行く形を習得してから躍進したが、その後前褌狙いは年々減少し、張差しで出足を止めることが増えた。さらに左で張って右からカチ上げる常套手段に至り、前腕を顔面にクリーンヒットしてKOすることもあり、「エルボー」と批判の的になった。技の研究には熱心で、呼び戻し、櫓投げも披露した。とったりや猫だましの奇襲を繰り出したことも。 ★パラメータ・スキル 総合値12.9。63連勝当時のもの。全ての能力に秀でている。上半身も下半身も柔軟性が高く、190センチを超える長身なのに腰が低い。相手が当たりを吸収されると一様に言う柔らかさは、体質と技術のなせる業。スピードも一級品で、立合いの初速は千代の富士をも上回るというデータもあり、その気になれば一気の出足で圧倒する。左右への変わり身の速さで危機を脱することもしばしば。組めば絶対的な右四つの型、多彩な技術もあって敵なし。離れても強いが、張り、叩きで呼び込むこともあり、形はあまり良くない。一時は「後の先」の立合い習得に挑むも、「先の先」に専念。全く腰を下ろさず待ったを繰り返したり、焦らしておいて急に突っかけたりと策略的な駆け引きも目立ち、最終的に双葉山とはかけ離れた。 ★(現代との比較) 胴長で柔軟な懐の深い190センチ超の体を持ちながら、腰は低く、機敏に動ける理想形。取り口も絶対の右四つの型を持ちながら、自在に対応できる柔軟性と小技も繰り出す器用さ。どの時代でも大力士に求められてきた要素に加えて、小兵力士の如き計略まで、奇跡的なまでに全て持ち合わせる。最強力士との評価には異論が多いが、万能ぶりに関しては誰もが認める最強力士だろう。 |
★四股名 「鵬」の字が示す通り、大鵬を意識。期待通り同様に柔らかく懐の深い体格に成長。もともと「柏鵬」から取っているようだが、さすがに遠慮したのと色白の肌から取って白鵬としたようだ。朝青龍とは青白のカラーでも好対照だった。以降弟弟子が名乗り始めたほか、角界における「鵬」の再ブレイクを促した。
★締め込み 平成20年以降は、焦げ茶色の締め込みを長年愛用。優勝決定後の2日間だけ、優勝回数で並んだ輪島への敬意として黄金廻しを披露した。それまでは紅で上位まで出世し、青緑で大関をつかんだ。貴乃花のような茄子紺にして横綱をつかみ、翌年から茶色に変更して自分の色にした。色白の体によく合い、オリジナルにして安定感のある色合い。 ★その他 メディアが発達した時代の横綱らしく、過去の横綱の研究にも熱心。技や土俵入りなどにも探求の跡が見えるが、ちょっと凝りすぎていらぬ批判を招くことも。猫だましや、徳俵で立つ奇策には、もはや呆れる声が多かった。不吉なジンクスが支配した不知火型のイメージを変えた功は大きい。 |