新・名力士データ

新パラメータ版

1昭和の大横綱 2平成の大横綱 3強豪横綱(昭和前半) 4強豪横綱(昭和後半〜平成)

  5中堅横綱A 6中堅横綱B


参.強豪横綱【昭和前半】編

玉錦 羽黒山 栃錦 若乃花

大横綱とは呼ばれないが、十分な実績を残して一時代を担ったA級横綱たち。
最強力士の座にあった際の力は、大横綱にひけを取らない。

本章では、1年6場所制定着前の昭和時代前半の強豪横綱連を分析する。

基本データ 四股名(最盛期のもの)、横綱代数、出身地、所属、参考年号(最盛期)
取り口:相撲の取り方を独自の分類で表記(⇒相撲解体新書のページ参照)
型   :得意とする形(一例)  得意技:公式のものに近い表記で
体格 :身長は1cm刻み、体重は5kg刻みで掲載前後の平均的なもの、体格分類は解体新書参照
パラメータ

持ち技リスト

特性

体格:スケール、重量など体格面の総合値
力 :馬力、腕力、小力などパワーに関する総合値
足腰:バランス、踏ん張り、柔軟性など総合的な下半身の強さ
速 :スプリント力、アジリティ、レスポンスなどスピードに関する総合値
技 :相撲勘、技の鋭さ、タイミングなど技能に関する総合値
離 :突き、押し、引きなど離れて取った時の技量
組 :四つに組み合った時の技量
SA
BCDEFG(原則15〜1、0.5刻み)でパラメータ表示
それぞれに下位項目を設けているが、それ以外の要素も加味して計上している。
持ち技リスト
は、数字がレベル(低1<7高)、英字が頻度(多a>e少)を表す。
決め技、崩し技は便宜上分けているが、それほど厳密に分類しているわけではない。
(技名の前に左右がついていない場合は、どちらもある、または特に差がない場合。)
特性
は、:精神面・癖、ジンクス、その他の特徴など
       :技量面、技リストで表しづらいテクニックなど
      :体格・体力面、ケガなど

詳細は、<データ解説ver2.1>を参照
S:15.5〜14.5 A:14〜13 B12.5〜11.0 C10.5〜9.5 D9〜8 E7.5〜6.5 F6〜4.5 G 4〜

解説 略歴・後世の評価・実績・引退後/取り口解説・パラメータの評価とスキルの解説・現代との比較
/
四股名・締め込みについて

       常ノ花  32 岡山出身 出羽ノ海部屋   昭和3
取り口:荒技型 型:右差し左上手/突張り 得意手:投げ、突き 178cm/115kg 軽量中肉

D 8.0  8.0
<決め技>
櫓投げ 5b

突っ張り 5b

右差し寄り4b

上手投げ 5a

吊り  3b

首投げ 3d

打っ棄り 4c

出し投げ 4c

吊り寄り 2d

下手投げ 3d

<崩し技>
突き放し4b

外掛け  4c

掛け靠れ3d

はたき 3c

巻き替え3c

<立合>

右差し4a

張差し 3c

もろ手突き3c

上手 

 

cab

手d変化d
<心>

大技

気迫

上手相撲

対速攻×

<技>

前捌き

出足早

回転〇

足技

被さり

<体>

粘り腰

右手首

 7.0
C 9.5 馬力 10.5
怪力  9.0

B12.5 安定 12.5
粘り 12.5
B11.5 出足 11.5
敏捷 11.0
A13.5 技巧 12.0
キレ 14.0
B12.0 12.5
11.5
11.0
A13.0 12.5
14.5
12.0
★略歴  同郷の海山が開いた小部屋の二所ノ関へ幼くして入門。長い下積みを経て、22歳で新十両。翌年、大正14年新入幕。昭和3年から役力士として活躍を続けるが、当時の番付制度の不合理性もあって長く据え置きを食った。5年に大関へ。横綱不在の中で3場所連続優勝相当の成績を残しても昇進の声が掛からなかったが、春秋園事件後、残留組の柱として信用を勝ち得て、ようやく8年に横綱となった。

 横綱となって玉錦の強豪ぶりは本格化。9年春こそ休場したが11年までの出場7場所で、わずか7敗(1分)。全勝1回を含む2度目の3連覇。11年夏は10勝1敗だが、その1敗は連勝を始めた双葉山に敗れたもので、優勝をさらわれた。覇者交代の世紀の一番と呼ばれる。翌年からは年齢による衰えか成績も下降、双葉山に水を開けられる。雪辱に燃えていたが、無理がたたって虫垂炎から腹膜炎を併発し、13年暮れ34歳にして現役死という悲劇。水入り熱戦の末、双葉山に66連勝を許したのが最後の一番となった。玉錦の逝った翌場所双葉山の連勝も止まった。

★評価  実績よりも素行の悪さが先に挙げられる元祖お騒がせ横綱。その伝説は書くことも憚られるほど。そのためあまり評価されていないが、年2場所の時代に圧倒的な強さで君臨した。双葉山に取って代わられた形だが、1差だったのは11年夏だけでちょうど全盛を過ぎていた。関脇、大関時代の成績は横綱としても申し分なく、番付の不運がなければ、双葉山の台頭がもう少し遅ければ、長期間名実ともに第一人者として君臨したはずで、大横綱に数えられていてもおかしくない。

★実績  個人優勝制度の黎明期であり、同点決勝はなく番付上位者が優勝する時代。当時の優勝回数に対する注目度も今より低かったが、優勝は9回。太刀山、栃木山に肩を並べている。横綱として6年間在位。うち4年間は常勝将軍の異名どおりの無敵ぶりで、安定感も抜群だ。

★引退後  二枚鑑札で現役中から二所ノ関部屋を率いていた。その後関脇玉ノ海、大関佐賀ノ花が継承。横綱大鵬、大関大麒麟が出て昭和を代表する名門となった。分家独立を奨励する方針が引き継がれ、独立した部屋からも若乃花、玉の海、輪島、さらに分家した二子山勢などから横綱、大関が続々。対照的に分家を認めない出羽海に肩を並べる勢力にまで一門は繁栄した。プレイングマネージャーとして、伝統の「二所の荒稽古」の礎を打ち立てた功績は大きい。

★取り口   ツバメと呼ばれた鋭い出足、馬力の相撲。寄り身の勢いに相手が耐えられず、通算決まり手は寄り倒しの多さが目立つ。短躯でアンコ型の体は重心の低さとなって生きた。右差し速攻だけでなく、相手が二本差しても極められると怪力と大きな腹のために何もできなくなったという。いかにも威風堂々たる昔ながらの力士。引き付けの強さを生かして捻り落としたり、腹にのせて吊ったりと力強い取り口。粘り腰もあってしばしば打っ棄りも見せた。投げはあまり打たなかった。

★パラメータ・スキル  総合値11.6。寄り身の完成度が目立つ馬力、出足型。技能面が話題になることは少ないが、組んでも離れても強みを発揮した。初物に強く、横綱時代の初顔合わせ28連勝は朝青龍に抜かれるまで長く最多記録。常勝将軍の称号は双葉山に取って変わられたが、当時はほぼ取りこぼさない玉錦の強さ、安定感を表すものだった。やたら異名が多く、気性の激しさ、稽古熱心さを評するものが多い。

★現代との比較   暴れん坊ぶりや最強を誇った期間などは朝青龍に近い。優勝回数も、年6場所なら20回前後は堅いだろう。差して一遍に出る攻め方は現代的でもある。体格的には今なら小兵と呼ばれる数字だが、この取り口なら巨漢相手にも通用するかもしれない。

★四股名   「玉」の由来は、奉公先説と部屋の女将さん説がある。横綱大錦から「錦」。「玉」は玉乃海に引き継がれ、片男波部屋代々の冠となって現代まで伝わる。その中から横綱玉の海が誕生したが、奇しくも同じ虫垂炎をきっかけに現役死している。「錦」を、スタンダードに押し上げることにも貢献しただろう。

★締め込み  残念ながらカラー写真は見当たらず、エピソードも聞かない。

その他   土俵入りは、高々と足を上げる四股の始祖とされる。古来足先は下を向くのが正しいとされており、タブーを破った形だが、観衆には人気が高く動き錦絵と称され、以降これがスタンダードになっている。白鵬などが独特の動きを取り入れることについて、是非があるが、案外何が正しいというのもないのかもしれない。

 


       玉 錦  32 高知出身 二所ノ関部屋   昭和7  
取り口:馬力型 型:右差し左上手 得意手:寄り,吊り 173cm/135kg 短躯肉厚

D 9.0  8.0
<決め技>
右差し寄り6a

がぶり寄り5b

吊り寄り 4b

モロ差寄り3c

上手投げ 3c

巻き落とし3b

首ひねり 3d

打っ棄り 4c

小手投げ  4c

<崩し技>
突き放し4b

巻き替え3c

腕ひねり3c

左腕返し3c

おっつけ3c

外掛け 3c

閂     4c

ひねり 3c

引きつけ3b

<立合>

カチ上げ4a

張差し 3c

もろ手突き3c

前褌  2d

右差し 4c

体当たり4b

抱え込み3c

cab

手d変化d
<心>

勝負強い

番付運×

強行

闘志の権化
ケンカ玉
動く錦絵
常勝将軍
初顔〇
壊し屋
<技>

出足早

引張り込み

右堅い

<体>
ボロ錦

粘り腰

怪我〇

重心低い

太鼓腹

スタミナ〇

10.0
A13.0 馬力 13.0
怪力 13.0

B12.5 安定 12.5
粘り 12.5
B12.5 出足 12.5
敏捷 10.0
C10.5 技巧 10.0
キレ 10.5
B11.5 11.5
11.5
 9.0
A13.0 14.0
10.0
12.5
★略歴  同郷の海山が開いた小部屋の二所ノ関へ幼くして入門。長い下積みを経て、22歳で新十両。翌年、大正14年新入幕。昭和3年から役力士として活躍を続けるが、当時の番付制度の不合理性もあって長く据え置きを食った。5年に大関へ。横綱不在の中で3場所連続優勝相当の成績を残しても昇進の声が掛からなかったが、春秋園事件後、残留組の柱として信用を勝ち得て、ようやく8年に横綱となった。

 横綱となって玉錦の強豪ぶりは本格化。9年春こそ休場したが11年までの出場7場所で、わずか7敗(1分)。全勝1回を含む2度目の3連覇。11年夏は10勝1敗だが、その1敗は連勝を始めた双葉山に敗れたもので、優勝をさらわれた。覇者交代の世紀の一番と呼ばれる。翌年からは年齢による衰えか成績も下降、双葉山に水を開けられる。雪辱に燃えていたが、無理がたたって虫垂炎から腹膜炎を併発し、13年暮れ34歳にして現役死という悲劇。水入り熱戦の末、双葉山に66連勝を許したのが最後の一番となった。玉錦の逝った翌場所双葉山の連勝も止まった。

★評価  実績よりも素行の悪さが先に挙げられる元祖お騒がせ横綱。その伝説は書くことも憚られるほど。そのためあまり評価されていないが、年2場所の時代に圧倒的な強さで君臨した。双葉山に取って代わられた形だが、1差だったのは11年夏だけでちょうど全盛を過ぎていた。関脇、大関時代の成績は横綱としても申し分なく、番付の不運がなければ、双葉山の台頭がもう少し遅ければ、長期間名実ともに第一人者として君臨したはずで、大横綱に数えられていてもおかしくない。

★実績  個人優勝制度の黎明期であり、同点決勝はなく番付上位者が優勝する時代。当時の優勝回数に対する注目度も今より低かったが、優勝は9回。太刀山、栃木山に肩を並べている。横綱として6年間在位。うち4年間は常勝将軍の異名どおりの無敵ぶりで、安定感も抜群だ。

★引退後  二枚鑑札で現役中から二所ノ関部屋を率いていた。その後関脇玉ノ海、大関佐賀ノ花が継承。横綱大鵬、大関大麒麟が出て昭和を代表する名門となった。分家独立を奨励する方針が引き継がれ、独立した部屋からも若乃花、玉の海、輪島、さらに分家した二子山勢などから横綱、大関が続々。対照的に分家を認めない出羽海に肩を並べる勢力にまで一門は繁栄した。プレイングマネージャーとして、伝統の「二所の荒稽古」の礎を打ち立てた功績は大きい。

★取り口   ツバメと呼ばれた鋭い出足、馬力の相撲。寄り身の勢いに相手が耐えられず、通算決まり手は寄り倒しの多さが目立つ。短躯でアンコ型の体は重心の低さとなって生きた。右差し速攻だけでなく、相手が二本差しても極められると怪力と大きな腹のために何もできなくなったという。いかにも威風堂々たる昔ながらの力士。引き付けの強さを生かして捻り落としたり、腹にのせて吊ったりと力強い取り口。粘り腰もあってしばしば打っ棄りも見せた。投げはあまり打たなかった。

★パラメータ・スキル  総合値11.6。寄り身の完成度が目立つ馬力、出足型。技能面が話題になることは少ないが、組んでも離れても強みを発揮した。初物に強く、横綱時代の初顔合わせ28連勝は朝青龍に抜かれるまで長く最多記録。常勝将軍の称号は双葉山に取って変わられたが、当時はほぼ取りこぼさない玉錦の強さ、安定感を表すものだった。やたら異名が多く、気性の激しさ、稽古熱心さを評するものが多い。

★現代との比較   暴れん坊ぶりや最強を誇った期間などは朝青龍に近い。優勝回数も、年6場所なら20回前後は堅いだろう。差して一遍に出る攻め方は現代的でもある。体格的には今なら小兵と呼ばれる数字だが、この取り口なら巨漢相手にも通用するかもしれない。

★四股名   「玉」の由来は、奉公先説と部屋の女将さん説がある。横綱大錦から「錦」。「玉」は玉乃海に引き継がれ、片男波部屋代々の冠となって現代まで伝わる。その中から横綱玉の海が誕生したが、奇しくも同じ虫垂炎をきっかけに現役死している。「錦」を、スタンダードに押し上げることにも貢献しただろう。

★締め込み  残念ながらカラー写真は見当たらず、エピソードも聞かない。

その他   土俵入りは、高々と足を上げる四股の始祖とされる。古来足先は下を向くのが正しいとされており、タブーを破った形だが、観衆には人気が高く動き錦絵と称され、以降これがスタンダードになっている。白鵬などが独特の動きを取り入れることについて、是非があるが、案外何が正しいというのもないのかもしれない。


    羽黒山 36 新潟出身 立浪部屋   昭和21  
取り口:怪力型 型:左差し右上手/両前褌 得意手:寄り,吊り,押し 179cm/130kg 均整筋肉

C10.0 10.0
<決め技>
吊り   5b

右上手投げ4a

左四つ寄り5b

突っ張り 4b

モロ手突き4b

拝み寄り 5c

掬い投げ 3c

うっちゃり 3c

割り出し 3c

<崩し技>
左腕返し 4c

ひねり 4b

素首落とし3c

ハズ押し3c

極め  3c

外掛け 2d

おっつけ3c

泉川  2d

のどわ  3c

 

<立合>

左差し 4b

張差し 2c

モロ手突き3c

右上手 3c

モロ差 2c

カチ上げ3d

前褌  3d

ccb

d変化e
<心>

勝負強い

安定感

逆境〇

スタート〇

息切れ

長寿

<技>
左堅い
差し身
まわりこみ
打ち合い○
向こう付け
<体>

一枚あばら

鉄骨やぐら

体質硬い

かいな力

まわり込み

10.0
A13.0 馬力 11.0
怪力 13.0

C10.5 安定 10.5
粘り 10.0
C10.5 出足 10.5
敏捷 10.0
B11.5 技巧 10.5
キレ 12.0
B11.5 12.0
12.0
10.0
B12.5 13.0
11.5
12.5
★略歴  当時としては遅い19歳での入門。序ノ口から十両まで全て優勝して各段を1場所通過。12年夏新入幕。平幕2場所、三役3場所にして大関に推された。大関在位は4場所。16年は春、夏と14勝。春は同点の双葉山が上位優勝、夏は同じ片屋に双葉山ら3人が1差につけていたが、逃げ切って初優勝。場所後横綱に推挙された。安芸ノ海、照国が続いて昇進して4横綱となり、ハイレベルな優勝争いを展開。双葉山も健在で好成績の割に賜杯に縁がなかった。10日開催となった19年5月は全勝で制したが、戦況が悪化する中。優勝争いどころではなくなっていった。

 戦後初の開催となった20年11月、1年ぶりの開催にこぎつけた21年11月と全勝。22年5月は1敗を喫したが4人が並び、導入されたばかりの決定戦制度初適用。力道山、前田山と破って勝ち抜いた。11月も不振の上位陣を尻目に平幕勢の追撃をかわし、堂々の4連覇達成。国技館を接収されて開催するのがやっとだった存亡の危機に、引退した双葉山に代わって見事土俵を締めた。ところが巡業中に2度もアキレス腱を切って長期離脱。復帰後は怪我に苦しみながらも取りこぼしは少なかったが、上位相手に分が悪くなり、終盤の失速が目立って賜杯から遠ざかった。だが27年1月、37歳にして全勝で復活優勝。千秋楽1敗で追う千代の山を貫禄の寄りで退けた。これを最後にいよいよ休場続きとなり、翌28年9月引退。

★評価  驚異的な横綱在位期間を誇り、全盛期には4連覇も記録しているが、兄弟子双葉山の陰に隠れがちで惜しくも大横綱には挙げられることはない。全盛期に双葉山の存在が大きすぎたこと、ようやく主役に躍り出た時期は戦後の混乱で場所開催が限られて注目されず、さらに最盛期巡業で重傷を負う不運が重なった結果と言える。後年は怪力を生かして横綱相撲を取ったが、横綱初期までの前褌取って頭をつける堅実ぶりが印象に残り、隆々たる体躯の割に相撲が小さく地味という評価を引きずった。また、興行面もあって晩年期が長くなり、復活優勝は見事だったとはいえ、圧倒的な印象のまま引退できなかったことも影響しているか。だが、戦後2年ほど負けなし、3年弱賜杯を独占。最強期間という観点では並居る大横綱にも劣らない。

★実績  前代未聞の出世劇で、わずか6場所で入幕。全階級制覇は、のち大関栃東しか記録していない。特筆すべきは横綱に足掛け13年も在位したこと。年6場所以前の時代とはいえ、ようやく白鵬が並ぶかというくらい、空前の記録だ。4連覇、32連勝も大横綱級だ。休場は少なくないが大崩れは少なく、興行事情による再出場などもありながらの高勝率も評価したい。

★引退後  兄弟子双葉山が現役中から独立しており、羽黒山が本家立浪を継承。自身は双葉山、名寄岩とは三羽烏を形成したが、師匠としては立浪四天王と呼ばれる強豪を育てた。理事下位でも実力者だったが、早逝した。

★取り口  強烈な突き押し、上手を引きつけての寄り、吊り、投げと力強く自在。横綱初期までは向こうづけの体勢で両前褌を引き付けて寄ることが多かったが、次第に横綱らしく胸を出して捕まえ、力でねじ伏せる相撲になり、照国の巨体を高々と吊り上げて4連覇を決めた一番などは強烈。

★パラメータ・スキル  総合値11.4。4連覇中、13戦全勝で制した21年ごろ。双葉山とは好対照の剛の力士として名を残す。胸を出しても「一枚あばら」と恐れられた厚い胸板は非常に硬く、相手もなかなか頭から当たれなかった。反面、体が硬く後年はアキレス腱ほか下半身のケガが多発、柔の双葉山のような粘りはなかった。体質的にもできるだけ前傾を維持したかったようだ。打っ棄りも意外と決めているが、これも双葉とは違い振り飛ばすような決まり方。

★現代との比較   当時としてはまずまずの上背に隆々たる筋肉質の体だが、やはり数字上小さく感じる。千代の富士を少し肉厚にした感じか。元来大きな相撲でもなく、現代の大型時代でも怪力を武器に活躍していてもおかしくないが、スピードの面でどこまで対応できるか。スピードのある安芸ノ海や前田山には当初苦戦していたが、徐々に克服しており、案外対応するかもしれない。横綱の評価に直結する通算優勝が7回は今の場所数に換算してもに留まったことが惜しまれる。

★四股名  山形にある名峰・羽黒山が由来ではなく、出身地の地名である新潟県西蒲原郡羽黒から取ったしこ名。「山」は常陸山以来現代に至るスタンダードであるが、昭和初期は特に多かった。「羽黒」は大関若羽黒ら多くの弟子に引き継がれた。娘婿となった安念山が二代目羽黒山となりのち立浪部屋を継承して、横綱双羽黒を育てた。先代時代からあまり多用はしていなかったが、当代立浪への継承時に先代と揉めたこともあり、もはや羽黒を受け継ぐ力士はいない。若羽黒、双羽黒とトラブルの多い力士が続いたことが影響したか。豊昇龍などはピッタリその系統に当てはまりそうだが…余計につけられないか。

★締め込み  近年、着色技術を駆使してカラー化された取組映像はあるが、正確な色は判然としない。

★その他   不知火型土俵入りの中興の祖とされる。太刀山以来途絶えた不知火型を復活させ、豪快なせり上がりが高く評価された。そして最長在位期間を誇った羽黒山だが、その後不知火型は短命のジンクスが続き、平成後期に至ってようやく強豪長命の白鵬が出たが、羽黒山という「例外」がいなければ愈々継承者が途絶えていたかもしれない。攻撃と防御の雲竜型、攻撃一辺倒の不知火型というのは俗説のようだが、双葉山と羽黒山の好対照ぶりが定着に寄与したのかもしれない。


     栃 錦 44 東京出身 春日野部屋   昭和34
取り口:業師/技能型 型:左差し右前褌/筈 得意手:出投げ、押し 177cm/130kg 小兵中肉

E 6.5  6.5
<決め技>
上手出投げ7a

内掛け  4c

二枚蹴り 3c

掬い投げ 5b

下手投げ 4c

突き落とし4c

拝み寄り  4c

吊り   3b

両差し寄り4c

首投げ   3e

<崩し技>
ハズ押し6a

おっつけ6a

突っ張り3d

裾払い 4d

外無双 3d

襷反り 2e

ひねり 4c

打っ棄り 4c

波離間投げ2e

大逆手 3e

 

<立合>

モロハズ 4b

ぶちかまし4b

左差し  4b

両差し  3d

前褌   3b

かっぱじき4c

上手出投げ3d

けたぐり 2d

bbd

d変化d

<心>

速攻

マムシ

土俵際

人気

番付運〇

尻上がり

手付き×

強行

晩成型

円熟

<技>

技の博覧会

相撲勘

差し身

出足早

まわり込み

足癖

食い下がり

左半身

手取り

連続技

 
<体>

重心低い

粘り腰

怪我〇

絆創膏

 
 7.0
C10.0 馬力 11.0
怪力 10.0

A13.0 安定 13.0
粘り 13.0
A13.5 出足 14.0
敏捷 13.5
S15.0 技巧 15.0
キレ 14.5
B11.5  8.5
13.0
12.0
B11.5 10.5
15.0
13.0
★略歴  双葉山の連勝が止まった14年1月に初土俵を踏み、19年新十両。応召を経て昭和22年新入幕。80キロ程度の小兵ながら、業師ぶりを発揮して上位定着。巨漢揃いの上位ではなかなか三役定着とはいかなかったが、26年1月は7連敗8連勝の珍記録で三役に復帰。続く5月からは5場所連続技能賞の活躍。27年9月には初優勝を飾り、入幕後16場所で9度の技能賞大関昇進を決めた。勢い止まらず、大関2場所目で2度目の優勝(この場所、若ノ花と元結が切れる伝説の水入り大熱戦)。翌場所も13勝を挙げたが、不運にも横綱昇進は見送られた。しばらく不振に陥ったが、29年5月、9月と14勝の連続優勝。ついに横綱昇進を決めた。時に29歳、入門から16年の遅咲き。すでに4横綱がいたが、元祖江戸っ子横綱・東富士が道を譲るように引退した。

 ところが、新横綱場所は体調を崩し途中休場、その後4場所2桁にも届かない有様で、9場所目にしてようやく優勝。安定しているとは言い難く年齢的にも体格的にもよく頂点まで達したという評価だった。ところが、30歳を増えて体重が増え始めて師匠譲りの速攻相撲への変身を果たすと、34年には復調。栃若時代と呼ばれる相撲黄金期を築き、毎場所のようにハイレベルな優勝争いを繰り広げた。ところが35年3月に楽日全勝決戦で若乃花に敗れた翌場所、初日から連敗すると突然引退を発表。35歳とは言え黄金時代の真っ只中、「桜の花が散るが如く」惜しまれながら土俵を去った。

★評価  名人横綱の称号がピッタリあてはまる。大横綱と呼ぶには第一人者として君臨した時期が短かったが、人格や、潔い引き際、稽古熱心さなど成績以外の面で横綱ぶりを高く評されている。近代相撲を完成させたという評価は最上級の称賛だろう。足を止めての力比べが醍醐味とされてきたが、近代相撲の祖とされる師匠栃木山譲りのおっつけ、ハズ押し速攻の有効性、万能性を証明。体格を問わず攻めのスピードを重視する現代においては、その押しは相撲の基本となった。チョン立ちどころか手を付かずに突っ込む立合いは、その後二十年余りに渡る乱れを招いたという指摘もあるが、国技館開館を前にして自ら改革に着手し一気に正常化を図った。

★実績  当時双葉山に次ぐ優勝10回を記録。優勝しだした頃は年4場所、横綱初期の低迷を考えると仮に年6場所定着後の時代でも数回増えるくらいだろう。34年3月からの7場所は、95勝10敗と大横綱級の安定感を発揮した。全勝は1度のみで、記録上目立つものはない。しかし技能賞の受賞率は今後も破られることはないだろう。それまでより本場所数が増えたこともあり、幕内勝利数など多くの通算記録で当時新記録を更新したが、まもなく15日制・年6場所が定着後に入幕した大鵬らに破られている。

★引退後  先代の死後、特例として現役中から二枚鑑札で春日野部屋師匠を兼ねていたが、親方職に専念。早々と横綱栃ノ海、大関栃光を育てるなど隆盛を誇った。理事長としても12年にわたって協会を引っ張り、新国技館という夢を無借金で実現し、念願の両国帰還を果たした。功績は極めて大きい。

★取り口  栃錦は出し投げの名人として知られる。浅い上手から、アゴを使って相手の差し手を極め、体を開いて出す。さらに頭を押さえ付けるから、相手はたまらず土俵下まで転がり落ちた。下手からも出せた。左差しから相手の懐に入れば、多彩な技を披露。生涯40の決まり手を使ったとされ、その多彩さは技の博覧会とも。前捌き、差し身の良さが名人と呼ばれる所以、左を差し負けることはめったになく、大きな相手にも半身から外無双、裾払い、二枚蹴り、次々と技を繰り出して翻弄した。鋭く突っ込んで突っ張って出る速攻もあったが、横綱となって体重が増えると、小技に頼らず押し相撲で一気に決め切る攻めが増加。地位に応じて取り口を変え、円熟期を迎えた。

★パラメータ・スキル  総合値11.6。技のキレ、しぶとさが光る。後年は体重も増えたが、絶対評価としてはやはり軽さは否めない。食いついた時のしつこさ、蛙を睨むが如き気迫はマムシと恐れられた。平幕時代に7連敗8連勝もあったが、大関、横綱に昇進後も相変わらず出だしは悪かった。小兵ながら頑丈で大きな怪我は少なく、どちらかというと膵炎、腎炎、肺炎など病気での休場が多かった。粘り腰はあったが、柔軟に反って残すというより骨盤は立った状態で左右に振って反撃した。伊之助をして涙の抗議をせしめた北の洋戦も然り、俵で踏ん張っての突き落としが多かった。業師時代は差し身は良いが前捌きがもう一つという辛口も貰ったが、後年本格技能派、速攻型になってからはその技能も磨かれた。

★現代との比較   前述のとおり近代の速攻相撲を完成させた功績が評価されるが、大型力士までがスピード、重心の低い押しを基本として身につけるに至り、そのままの相撲でぶつかれば体力的に苦戦が予想される。だが、そこは稀代の業師。現代の小兵力士と比べても、俊敏さ技の流麗さは特上である。千代の山のもう突っ張りを受けて鍛えたしぶとさで対抗しつつ、鮮やかな技を披露することだろう。

★四股名  師匠の栃木山から一字。新十両から名乗っている。その後も春日野部屋の力士のほとんどが「栃」を冠している(一部は「春日」をつけている)。

★締め込み  28年から始まったテレビ放送の普及に大いに貢献したが、まだまだモノクロ時代。数少ないカラー写真では褐色の締め込みに見える。

★その他  相撲ぶり同様、キビキビとした土俵入り。コンパクトな柏手が特徴的。小兵横綱の手本となる。若乃花と人気を二分したと言われるが、どちらかといえば玄人好み。尻の出来物が酷く、絆創膏を揶揄う声もあり、スター性というよりは親しみやすい人気だったようである。


     初代若乃花  45 青森出身 花籠部屋   昭和35
取り口:荒技型 型:左差し右上手 得意手:投げ、吊り 178cm/105kg 小兵筋肉

E 7.0  7.0
<決め技>
右上手投げ6a

右呼び戻し6c

二枚蹴り 5c

出し投げ 4c

外掛け   4b

内掛け  5c

切り返し 5c

櫓投げ 3d

小手投げ3c

打っ棄り 3e

<崩し技>

掛け投げ3d

肩透かし5c

ひねり 3d

掬い投げ3c

右おっつけ4b

吊り寄り 3c

下手投げ3c

巻き替え 3c

廻し切り 3c

<立合>

左差し 3b

張差し 2d

右上手 3d

右差し 2d

右出投げ4c

小手投げ3d

いなし 2d

肩透かし3d

dbb

d変化c

<心>

土俵の鬼

大技

強行

異能力士

バカの花

人気者

行司泣かせ

持久戦

晩成型

 

<技>

相撲勘

上手相撲

変化技〇

右回り込み

 

<体>
踵の目

ヒザ柔軟

引き足〇

スタミナ〇

 6.0
A13.0 馬力 10.0
怪力 13.5

S15.0 安定 15.0
粘り 16.0
B11.5 出足 10.0
敏捷 13.0
A13.0 技巧 11.0
キレ 15.0
D 9.0  8.0
 9.0
11.0
A13.5 11.0
15.5
12.0
★略歴   「栃若」と言われるが、入門は7年遅れて戦後の昭和21年。しかし早い出世で25年に昭和生まれ第1号で新入幕。栃錦よりも小柄ながら、しばらく平幕上位にあって、巨漢横綱相手に奮闘、人気を得る。当時の二所一門は劣勢で上位戦が多く、金星は取れたが、星は伸びず三賞、三役には縁が薄かったのが栃錦と対照的だ。28年は1月の3金星をはじめ5金星あげて全て勝越し、29・30年は関脇に定着。二桁勝利は続かなかったが、ついに大関の声がかかった。大関となった若乃花は期待に応えて本格化し、毎場所優勝争いに絡む。31年夏ついに初優勝、両国から離れた阿佐ヶ谷の小部屋に賜杯が運ばれたことは大きな話題となった。初の綱取りは直前で力尽きたが、安定した成績を残し、33年初場所で2度目の優勝。翌場所も千秋楽まで争って準優勝、場所後横綱に推挙された。

 横綱となった若乃花はさらに強味を増す。初めての名古屋本場所で優勝を飾ると、以降14場所のうち8回を制する強豪に変貌する。復調した栃錦と毎場所ハイレベルな優勝争いを演じ、先輩横綱を駆逐。相撲史に残る黄金時代・「栃若時代」を築いた。実質的には身体的に充実期の若乃花が優勢、35年春の最終決戦を制して初の全勝。栃引退後、連覇を果たして優勝回数を二桁に乗せた若乃花の王座は更に極まるかと思われたが、既に32歳となった軽量横綱の全盛期は長く続かなかった。腰の故障などで衰え、柏鵬の台頭に押されて賜杯奪回はならず、37年夏場所前引退を発表した。

★評価   記録より記憶に残る名横綱。凄まじい人気を博した要因は一つではない。本質的には100キロそこそこの小兵ながら堂々と大兵と渡り合い、豪快に投げ飛ばす相撲ぶり。関脇時代、大関時代、あと一歩で目標に届かずヤキモキさせた末に一級横綱に上り詰めたサクセスストーリー。綱取り場所前に愛児を亡くながら鬼神の如く勝ちっぱなし、成就目前で高熱に倒れた悲劇。スポ根漫画顔負けのドラマチックな相撲人生は、大衆を熱狂させた。そのドラマは弟、甥2人へと引き継がれ、ロイヤルファミリーとして平成に至るまで角界の中心であり続けた。昭和以降の横綱で最軽量にして、スピードに頼らず派手な大技で君臨したという点では不世出の存在。映像を見返すと変化も少なくないが、称賛の声がそれをかき消す。

★実績  優勝10回。年6場所制前夜に優勝争いに絡み始めたので、現在に換算しても栃錦同様上積みはあって2、3回か。3連覇以上はなく、全勝は1回、14勝以上は4回と成績も特段良くはないので、大横綱とまで呼ぶのは難しい。しかし、大関昇進後に皆勤した場所はすべて二桁勝利を挙げ、長期の離脱もなし。最後まで横綱の威厳を保って、柏鵬に綱の重みを十分見せつけて退いた点は素晴らしい。

★引退後  二子山部屋を創設。新たな船出で時間はかかったが、土俵の鬼ぶりをけいこ場でも発揮、実弟の大関貴ノ花が国民的ヒーローに。さらに昭和50年代に入ると横綱二代若乃花、隆の里、大関若嶋津と続々と強豪が育った。栃錦の春日野から引き継いだ理事長職でも鬼っぷりを発揮した。平成4年初場所、理事長として最後に天皇賜杯を手渡ししたのは、甥の貴花田。停年時には貴ノ花の藤島に名跡を引き継がせ、藤島部屋と合併。新生二子山部屋から若貴兄弟横綱らが誕生。その後貴乃花部屋に改称され、30年に直弟子の隆三杉が率いる千賀ノ浦部屋に吸収されて直系の歴史は閉じた。82歳の長寿を全うし、22年に鬼籍に入っている。

★取り口  「異能力士」の称号どおり、100キロそこそこの体ながらも力技を得意とした。もっと細かった頃から食い下がるでもなく、胸を出しての四つ相撲。得意は左四つ、上手を取れば十分で、上手投げが十八番。多少呼び込み気味でも、やぐら気味に振り回したり、吊り気味に強烈な二枚蹴りも放ち、土俵際いっぱいに下がっても決め切った。「仏壇返し」と恐れられた呼び戻しを放つのは右の差し手からで、右四つでも力強かったが、左四つの時ほど技がなく、さすがに上位陣相手には決定打がなく水が入ることもしばしば。相手が動かなければ長期戦も厭わぬスタミナを発揮。立合いはいつも左肩を怒らせて当たる印象があるが、勝負どころでは立合い変わって上手を取り様の出し投げもあり、初優勝を狙った頃の決定戦でも連発。晩年には柏戸らの出足をうまくかわしていた。

★パラメータ・スキル  総合値11.7。当時としても軽量だったので一気に押し込まれることはあったが、「かかとに目がある」と評された抜群の感覚と粘り強さで土俵を割らず、しばしば大熱戦を演じた。どんなに攻められても膝が必ず曲がって余裕があったという。打っ棄りもなくはなかったが、柔軟な反り腰ではなく膝で踏ん張るバネの強さが支えた。当初は「バカの花」と揶揄された格下への取りこぼしや、勝負どころでの敗退が多かったが、後年は優勝が懸かった一番は落とさなくなり、14戦全勝の栃錦に連勝して逆転優勝もした。土俵の鬼らしく、勝負には非情。大関維持に後がない盟友・松登と対戦した際も、立合いで変化、水入りの熱戦の末にねじ伏せ、陥落を決定させた。

★現代との比較   幕内最軽量で綱を張ったのは、後には千代の富士くらい。巨漢でも低く前に攻めることが良しとされている現代に、わざわざ胸を出して取る小兵は出てこないだろう。当時でも大型力士相手には先に上手から投げたり、懐に入り込んだりして有利な姿勢で決着させており、スピードもあるので現代においてもよく対抗することだろう。ただ、超巨漢相手に力相撲だけでは、いくら剛腕でも厳しそうだ。足技なども総動員することになるだろう。

★四股名  師匠の前名を受け継いだもので、本名の花田からではなさそう。若ノ花としていたが、大関時代に「乃」に変えている。弟子の若三杉が横綱に昇進した際、二代目若乃花幹士を襲名させた。さらに甥の若花田が大関昇進と同時に三代目(下の名は本名の勝)に。二子山を率いていた時代、若の字を受け継ぐ弟子はいるが、一律に与えているわけでもない。

★締め込み  雑誌に載るカラー写真には、かなり明るい青色の締め込み姿も映るが、当時これほど鮮やかな色合いの廻しがあったかは疑わしく、印刷に当たっての着色の具合と推測。実際には藍色か紫紺あたりか。

★その他  雲竜型の土俵入り、玉の海から大乃国まで一門の後輩たちにも伝授した。弟子も2人が綱を締めたが、隆の里は不知火型、その弟子の稀勢の里は雲竜型といずれも師匠と違う型を選んだ。理事長としては立合いの正常化を厳命、待ったには制裁金を課し、酷い場合は呼び戻しならぬ(理事長室)呼び出しで一喝した。


inserted by FC2 system