平成名力士 平成期に活躍した大関たち。北天佑、朝潮は昭和に。現役に高安。 |
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大関 小錦 サンパチ組の一人。史上最重量の284キロを記録した巨漢大関。プッシュプッシュの突っ張りで黒船襲来と恐れられた快進撃、膝の怪我に堪えながら勤めた5年間、優勝3回の大関時代。陥落後も奮闘してかつてのヒールは大人気力士となった。 初土俵から2年で早くも入幕。2場所目、多賀竜との平幕同士の優勝争いには敗れたが、当てられた横綱大関陣を次々圧倒し黒船襲来と角界を揺るがした。大関には2度の怪我で少し時間はかかった。特に大関のかかった61年5月の北尾戦ではその後の運命を大いに揺さぶる膝の故障を負った。それでも勢いは衰えず直後から3場所連続殊勲賞など2ケタを続け、62年5月は12勝3敗、ハワイの先輩高見山がついに果たせなかった史上初の外国人大関が誕生した。 昇進直後は好成績を挙げたが、膝に痛みが出たりで失速。63年9月は3勝12敗の屈辱。同部屋の晩年大関朝潮と共々不振を極めた。平成元年も全く奮わず角番で迎えた11月、俄かに悲願は叶った。13日目、並走していた千代の富士を突き押しで下し、そのままリードを保って初優勝。決めた瞬間、大粒の涙を流した。これをきっかけに強豪大関に変貌。毎場所のように優勝争いに絡み、横綱も目前だった。2年1月は10勝止まり。3月13勝し巴戦進出、翌場所から12勝、10勝で白紙。3年5月は14連勝も、楽日旭富士に連敗しV逸、7月は上位が総崩れの大チャンスだったが平幕琴富士と直接対決、3分超の末敗れて12勝3敗、見送り。翌場所も千秋楽まで争うが届かず。11月、ようやく2度目の優勝。1場所挟んで再び3月優勝。このときばかりは綱取り成ったかと思われたが、13,12,13の星が不足とされ見送り。外国人差別発言騒動で騒がせてしまった。以後は若手の台頭に押され。体重の負担で下半身が限界に達し、一気に衰えた。5年11月、ついに39場所守った大関から陥落。負け越しの一番の相手は、ハワイ出身の後輩横綱曙だった。しかし翌日貴ノ花を倒し、意地を見せている。 陥落後はもう下半身が限界で、引かれればどうしようもなく手をついてしまうような状態だったがよく勤め、度々大関貴ノ浪を破った。何とか幕を保つこと4年、9年9月久しぶりの上位は途中休場はさんで全敗だったものの、大横綱となっていた貴乃花を土俵際まで押し込む善戦を見せ、翌場所燃え尽きた。 初期はまわしなど目もくれず張り手交じりの突っ張りで圧倒する激しい相撲。相撲はファイト(ケンカ)と称して物議をかもした荒っぽい取り口で、若島津をKOしたりも。下半身の怪我でスピードが落ちてきてからは、密着してのど輪押し、右四つでどっしり寄る相撲で安定感を増した。晩年は動かれてはついていけないため、何とか上手を取って攻めることに専念。そのため舞の海戦等はお互い動かず立ったままにらみ合う格好にもなった。 平成元年11月場所13日目 対千代の富士 両者1敗での直接対決。ここのところすっかり研究されてかわされていた突き押しが炸裂した。粘る千代に何発ものど輪押しならぬのど輪突きを食らわせ遂に突き出し。さすがの千代もフラフラ、九州場所9連覇を阻んだ小錦は初優勝に大きく前進した。 大関 霧島 平幕に定着していた力士が30過ぎて突如変身し、大関に。アランドロンの異名がついた筋肉質な体から磨き抜かれた技を見せ、好対照のライバル小錦と共に、横綱不在の平成の戦国時代を背負った。平成3年には年間最多勝を記録。 59年7月、9年余りかかっての遅咲き。同時入幕した小錦は初土俵からわずか2年ほどでの昇進だった。その小錦を破るなど11日目の勝ち越しで、8勝ながら敢闘賞を得た。その後すぐに上位定着、大関となった小錦に対して、線の細い霧島は上位に通じず、昭和の間は関脇1場所のみ。しかし63年の後半は進境を見せ、大乃国から初金星、翌場所自身2度目の2ケタで技能賞。ところが平成最初の場所、小結で1勝14敗の屈辱的大敗。これが逆に闘志を掻き立てた。特性ドリンクや筋トレで肉体改造に励んだ。 この平成元年に初めて上位に定着、小錦初優勝の九州には、初めて三役で勝ち越しとなる10勝、続けて初場所も11勝と積み上げて、2年3月は大関取りの場所となった。6日目、通算1000勝の金字塔に王手の千代の富士をはじめて吊り出しに破り、待ったをかける。殊勲の星を挙げた霧島は波に乗り横綱大関総なめ。優勝決定巴戦は1勝1敗で敗退したが、13勝2敗で大関を手中にした。時に30歳11ヶ月。遅咲き大関が誕生した。 怪我などで3場所目は角番だったが、その場所13勝。翌場所は2横綱破るも10勝どまりだったが、続く3年1月。生涯唯一の大賜杯を抱く。3日目に1敗した後勝ちっぱなし。13日目、1差の旭富士を突き放すと、大乃国も下し王手。千秋楽2敗の北勝海との直接対決を制し、初優勝を決めた。綱取り最大のチャンスは調整に失敗して崩れたが、その後横綱が引退休場で不在の中、毎場所小錦らと優勝争いに絡む強さを発揮。4年3月は千秋楽小錦との相星決戦となったが、完敗。以後右肘や腰を痛め、年齢的にもピークを過ぎたか急速に衰え、同11月途中休場して大関を陥落した。 左四つ、腕力と腰の強さを利して廻しを引き付ける相撲。千代の富士とはその筋肉質な体格などから似ているとも言われたが、立合いの出足がなく胸で受ける分、押し相撲には圧倒されることも多々あった。廻しさえ掴めば吊りが強く、小兵ながらがっぷりでも強かった。足腰の強さで打っ棄りも良く決め、63年には水戸泉と4度縺れる(取り直し3度)大熱戦を演じた。出し投げのうまさも有名で、上手下手問わず体を開いて下に打つお手本どおりの妙技だった。大関陥落後も内掛けで貴ノ花を破るなど力強さと器用さを持ち合わせた。 平成3年1月場所 千秋楽 対北勝海 1差でトップの霧島、勝てば優勝、負ければ北勝海と再戦となる一世一代の大一番。モロ差しを許したが、両前褌を引き付けて差し手を殺し、強引に吊り上げてまっすぐ進み、ドッと向正面に運んだ。「力」の霧島を見せ付けて栄冠を掴んだ。 大関 貴ノ浪 早くから大器と期待され、極め技を中心とした史上最大級のスケール相撲で優勝2回、大関として存在感を示した大型力士。惜しくも頂点には届かなかったが、曙貴ら4横綱とともに、長く安定した時代を支えた。 順調に出世したが、一年後に入門した若貴に抜かれてしまった。期待が大きかった分、師匠藤島は1年遅いと不満だった。新入幕場所で7連勝デビュー。結局8勝に終わるが、大器ぶりをアピールした。暫くは緩やかな成長だったが、5年5月新三役で10勝で敢闘賞で関脇に。大関獲りはすんなりと成った。9,10と続けた後、5年11月12勝。そして6年1月、13勝の大活躍。この場所、圧巻は曙戦。右半身に仕切って驚かせ、最後は河津掛けに倒した。優勝は14勝の貴ノ花、最後まで優勝を争った武蔵丸と同時大関昇進となった。 大関としては体調の悪い時を除いては休場も少なく安定した成績を残し、12勝以上の好成績も10回。6年8年は、年69勝した。常に優勝を争う強豪大関だった。長く武蔵丸、若乃花と3大関時代が続いたため、一人だけ横綱になれなかった印象があるが、大関時代の成績を見ると差はない。優勝のチャンスは新大関の6年3月、巴戦になり、貴闘力には勝ったが曙に完敗した。貴乃花に綱取りで先を越され、7年には不振に陥る。しかし8年1月は14勝1敗で全盛期の貴乃花との同部屋決戦。貴乃花が外掛けで崩しながら寄るところ、河津掛けで大逆転。遂に初優勝成った。8年11月、9年3月は決定戦に進出するが及ばず。9年11月、再び14勝1敗同士で貴乃花と決定戦になり、左四つがっぷりから思い切った上手投げ。貴乃花はあっさり膝から崩れた。2度あった綱取りのチャンスはともに10勝5敗。プレッシャーもあったか後半に入って赤信号がともる展開だった。下半身が弱ってきて徐々に成績が落ち込む。11年3月、横綱大関が総崩れとなる中、2人残った武蔵丸との楽日大関相星決戦を演じたのが、大関貴ノ浪の最後の活躍だった。初の休場明けの11年11月に大関陥落。翌場所執念で10勝して復帰したのは見事だったが、連続負け越しで再び陥落。 しかし陥落してもまだまだ見せ場を作った。7月は7勝に終わって2度目の復帰ならず。それでも翌場所9勝して関脇復帰するあたり、運がよければ大関をギリギリ守ってもおかしくない力を示していた。右足首の具合は慢性化して、不調時はさっぱりだったが、力は健在でたびたび三役にも戻る。圧巻は14年11月。横綱となっていた武蔵丸を破って初金星、9年ぶりの敢闘賞も受賞した。しかし15年は年6場所全て負け越し。再び武蔵丸から金星を挙げたが、これが史上最多対戦を記録した名カードの最後の一番となった。11月武蔵丸が引退、これで気持ちが萎えたという。16年1年ぶりの勝ち越しを最後に5月引退。大勢力を誇った旧二子山部屋(引退時貴乃花部屋)の関取が遂にいなくなった。 左四つが十分だが、ワキの甘さ、というよりそれを気にも留めず引っ張り込む立合いの故か、抱える極めるの強引相撲が普通だった。だから二本差されても誰もピンチとは思わない。出てくるところ、後ろに重心がかかっても動ける下半身で回り込み、極め上げて振り回して小手投げに沈める。上がってくる頃は変化して上手を取りにいったりと、消極的と批判されたが、徐々に安定(?)した相撲ぶりになってきた。晩年はその相撲を支えた下半身、特に右足首に慢性的な故障を抱えてしまった。それでも随分左差しもうまくなっていたので、右上手も取れば十分力を出した。外掛け、河津掛けまで繰り出す変則相撲も。組み合えば差し手争いに関わらず強かったが、一気に押してくる相手には的が大きく胸を出すため脆かった。曙には圧倒的に劣勢だった。また剣晃などがモロハズで抱え込みを防ぐ策に出てくると、さすがに苦しかった。小錦にまでもろ差しを許す失態もあったが、懐に入りきらない力士は外国勢ぐらい。史上最大級と言える。 平成8年1月場所千秋楽 優勝決定戦 貴乃花戦 大関 千代大海 番長で鳴らした本物のツッパリから突っ張り大関に出世したサクセスストーリーの主人公。突っ張り一筋で優勝3回、大関在位は10年を超え、貴ノ花の記録を大きく更新する65場所は魁皇と並ぶ最長記録。大関勝利数は1位を記録。 平成4年11月に入門、7年7月には昭和50年代生まれ第1号として十両昇進。十両では3枚目で11勝、筆頭で9勝しても据え置かれるなど番付運にも恵まれず、2年足踏みしたが、地力を蓄えた分入幕後の足取りは早く、入幕4場所目には上位初挑戦で横綱貴乃花から金星を獲得するなど技能賞の活躍で三役昇進を決めた。新関脇から11勝、9勝、10勝と定着、そして11年1月、平幕に2敗して横綱若乃花に2差をつけられたが、三役力士を次々破り14日目貴乃花も下して1差の千秋楽、若乃花を倒して13勝2敗で並び大関当確。決定戦は史上初の同体取り直し、再戦を制して逆転で初優勝を果たした。千代の富士にバトンタッチするように引退した貴ノ花の次男・貴花田が千代の富士に引退を決意させ、その兄若乃花を倒して千代の富士の弟子が大関に昇進するというドラマを生み、5年間も新大関と初優勝力士が出ない閉塞状態を突き破った23歳の快進撃には大きなインパクトがあった。 幕内9場所、一発で大関取りに成功、師匠よろしく一気に横綱を期待されたが、新大関場所は3連敗スタート、鼻骨骨折で途中休場と最悪のスタートとなる。その後も終盤まで優勝争いには残るが最後に地力負けすることが多く、故障による休場も目立った。筋力アップを図った14年1月は単独トップで千秋楽を迎え3年ぶりに優勝が期待されたが、栃東に連敗し逆転優勝を許す。綱取りも翌場所負け越して白紙。しかし、悔しさをバネに7月場所は朝青龍との争いの末14勝1敗で制し久々の優勝。翌場所終盤まで2敗で綱への可能性を残したが、両横綱に敗れてならず。15年3月にも混戦の末3度目の優勝を飾るが、5月は終盤3連敗で10勝どまりで綱取り失敗。7月は千秋楽相星決戦で魁皇に惜敗。16年3月は13連勝するも連敗してV逸、翌場所は前半で3連敗して最後の綱へのチャンスは潰えた。この後17年にかけては故障が慢性化しカド番脱出に窮々とする状態で危ぶまれたが、18年には少し復調。19年11月には久しぶりに最後まで優勝争いを盛り上げ、14日目白鵬との2敗対決となるが、この一番で敗れた上に肘を痛めて千秋楽休場、珍しい形で白鵬の優勝が決まった。このケガを含め、古傷も悪化して以後は勝ち越すのがやっとの苦しい土俵。20年1月場所は初日から8連敗、21年3月は2勝13敗。カド番14場所と合わせて、いずれも大関のワースト記録である。21年5月は5勝7敗まで追い込まれるが執念で脱出、しかし御当所11月のカド番では連勝のあと全く奮わず10日目朝青龍に吊り出されて大関陥落が決まった。翌場所大関復帰が絶たれる6敗目を喫した時点での引退を公言しており、初場所は関脇で土俵に上がったものの3連敗。最後の相撲は史上2位・54回の対戦を重ねた盟友魁皇との一戦、幕内通算勝利新記録達成の相手となって引退した。 突っ張り大関の名の通り、重く回転の速い突っ張りで一方的に攻め立てる圧力が武器。馬力溢れるぶちかましの威力を活かして右の突き放しから突っ張りにつなげるか、相手によってはのどわ、おっつけの組み合わせで押して出て、起こしておいてハズ押しでとどめという相撲も強力。突き放しておいて、さらに頭でぶちかます元気な攻めも見られた。初優勝した場所では叩き込みが多く、自滅の2敗もあって技能賞は見送られたが、この叩きは悪癖と言われながらも、絶妙のタイミングと引き足の速さ、俵の上での身のこなしが活きてもう一つの武器となった。後年は、突っ張りで押し込むより重さはないが回転の速い上突っ張りでアゴを上げさせての叩きというパターンで馬力の衰えをカバー、若手の突き上げにも長く耐えた。かかとを浮かせて突っ張るので、動きは速いがややバランスに欠け、突き手を手繰られたり跳ね上げて中に入られると脆かったが、最後まで突き押し相撲一本で通した。左四つならそれなりに寄り、投げも出来たがポリシーを貫いた。 平成11年1月場所千秋楽・決定戦 若乃花戦 大関 出島 学生相撲出身の大関。先輩武双山に先んじて昇進、色白の体が気合が入ると赤みがかかり、美白大関という異名も。「出る出る出島」で有名な出足が信条の気風の良い相撲で、大関陥落後も度重なるケガに耐えて「力のもののふ」を貫いた。 平成8年に幕下付出で登場。幕下十両を各3場所で突破、9年3月の新入幕場所で11勝して敢闘・技能の両賞を受け、上位にもすぐ定着。9月には金星2つを含む11勝で今後は殊勲・技能。新三役・関脇となった翌場所で中大の先輩玉春日戦で足を痛め、長期休場を余儀なくされたが、連続三賞ですぐに三役復帰。この時点で早くも金星は4つ。 11年5月に初めて三役で二桁勝利となる11勝を挙げる。翌場所は魁皇の方が大関取りを狙い、出島はあまり注目されていなかったが、2敗のまま復活優勝を目指す横綱曙を追いかける展開。すると千秋楽、同部屋の新横綱武蔵丸の援護射撃で優勝決定戦となり、地元石川から近い名古屋場所とあって「デジマ、デジマ」の大合唱。やや変化気味ではあったが、横から曙の巨体を崩して勝ち、まさかまさかの逆転初優勝を飾った。同年の初場所でも関脇の千代大海が横綱若乃花を千秋楽逆転で優勝し、大関昇進を飾ったが、同じような形で出島も大関の使者を迎えることとなった。この時、三賞すべてを受賞しているが、平成では4年1月の貴花田と2人だけの快記録。 大関出島は、爆発はないが安定した成績を残していた。翌12年には武双山、雅山と学生相撲出身の同部屋力士が立て続けに大関となり、武蔵川部屋は1横綱3大関の大勢力に。ところが、13年に入ると足の不調で暗転。7勝、8勝、5勝と来て準ご当所名古屋では蜂窩織炎で途中休場、在位12場所で陥落の憂き目にあった。その後も調子が上がらず6場所連続負け越しでやっと止まったが、名古屋でまた途中休場。その後復調し貴乃花から金星を挙げるなどして関脇に復帰したが、また故障休場。その後足からサポーターは外せず、平幕暮らしが続いた。19年は少し見せ場があり、朝青龍を圧倒して4年ぶりの金星、夏場所では12勝して8年ぶりの三賞を受けた。九州も10勝と健闘し、4年半ぶりに三役に復帰。以降は徐々に衰えが見え始め、徐々に後退。そして21年名古屋、十両陥落濃厚の2勝9敗となって地力の衰えを感じ、初優勝からちょうど10年目に引退を決めた。大関陥落後の最長幕内在位記録がストップしたが、翌々場所から雅山が塗り替え大きく更新した。 何といっても一気の出足が印象的。出島の全盛期は、力士の大型化がピークに達し、馬力相撲全盛の時代。その中で、出島の立合いぶちかましの威力は、武双山、千代大海、土佐ノ海らと共にトップクラスを誇った。そのまま突き押し、または右差し、モロ差しでの速攻が武器。一気の攻めがある一方で身のこなしも良く、いなし、突き落としで組み止められそうになっても動き続ける。たまにいきなりの変化も見せた。大関陥落後は足のケガが慢性化し、バッタリと落ちる場面が多く、なかなか起き上がれない姿が痛々しかったが、意外に長く力を保ち、上位相手にも健闘して35歳まで現役を務めた。 平成11年7月場所9日目 貴乃花戦 大関 武双山 大学相撲から鳴り物入りで角界入り、あっという間に出世して、「平成の怪物」と恐れられた馬力の大関。色黒の肌に銀ネズの廻しがトレードマーク。度重なる故障に堪えて3年半大関を務めた。 平成5年、大学を中退して入門。アマ横綱の実績そのままに、幕下を連続優勝で無傷の新十両。ここもサッサと突破して9月には最速入幕を果たす。6年1月には曙を破って幕内で初の2ケタ、負け越しなしで通算8場所目に関脇となった。9月には貴乃花とデッドヒート、及ばずも13勝を挙げて大関は時間の問題と思われた。7年1月、30連勝中の新横綱貴乃花を初日から投げ飛ばす好スタートを切ったが、場所中左肩脱臼の故障が発生。すぐ復活して連続2ケタ挙げると、平成8年1月からは三役で10,12,10勝と3場所連続の二桁を記録したが、大関の声はかからず。その後腰痛など度重なる故障で不振。勢いが止まった。同い年の魁皇共々三役に留まる停滞期、調子が上がってきては休場というもどかしさ。11年には出島が初優勝で大関昇進。さらに新・平成の怪物雅山が躍進と弟弟子の台頭で火がついた。12年1月ついに苦労が報われる。混戦の優勝争いの中、千秋楽魁皇を出足で圧倒し初優勝。翌場所、腰痛の不安を抱えながら12勝をあげて、悲願の大関獲りを成し遂げた。 ところが無理がたたって腰の状態は限界に来ていた。曙以来の新大関場所全休。続く名古屋場所は強行出場も4勝に終わり最短陥落の屈辱を味わったが、翌場所千秋楽に琴ノ若を下して何とか10勝を挙げ、大関復帰を決めた。陥落場所後10勝の特権を享受できたのは3人目だったが、師匠三重ノ海も同じ道を歩んでいるあたりが面白い。親方同様綱取りも期待されたが、既に全盛を過ぎている感があった。13年3月に千秋楽まで優勝を争って12勝したのが最高で、後は二桁がやっと。14年5月に肩を脱臼してからは、脱臼癖の頻発、膝も痛めて角番の繰り返し。さらに公傷認定の厳格化、廃止の煽りを受けてカド番続きで消耗、16年11月初日から3連敗となって引退を表明した。 本来突き押しの力士。立合いのぶちかましからの出足は馬力抜群。肩を悪くしてからは、左の前褌右おっつけという形で出ることも多くなった。おっつけの威力が強く、密着して押す相撲。また、その馬力は突き落としでも威力を発揮、反対側で巻く合わせ技も効いた。曙を横転させ、貴乃花の致命的な膝の怪我につながったのも、この巻き落としだった。伸びた廻しがその原因とされ、武蔵川部屋のユルフンと批判がなされたが、腰痛のためきつく締められないという事情があったようだ。決して立合いに変化することなく正々堂々を貫いて、渋い人気があった大関だった。 平成12年1月場所千秋楽 魁皇戦 2敗で単独トップ。勝てば優勝の決まる武双は、冴える馬力で頭で当たる。対する魁皇は不調で7勝7敗、迷いが出て中途半端に動いて叩こうとしたが、この場所の武双に小細工は通用しない。乗じて出足一気、あっという間に向正面に押し出し。本割ですんなり初優勝を決め、翌場所の大関昇進へとつながる。対して長く大関を争ってきたライバル魁皇は、不甲斐無さに大いに反省。2場所後同じように初優勝し、大関となるきっかけとなった一番だった。 大関 雅山 幕下付出から4場所連続優勝で入幕した「新・平成の怪物」。入幕1年余りで昇進した大関からはあっけなく陥落したが、その後突っ張りに専念して上位泣かせの強豪として10年以上活躍した。高々と手刀を切る勝ち名乗りが印象的。個性的なキャラクターでコアな人気があった。 平成10年、大学を中退して入門。幕下、十両をそれぞれ連覇して鳴り物入りで入幕。その11年春場所でいきなり優勝争いに加わり敢闘賞。少し上位の壁に当たったものの、新三役から3場所34勝の安定感で大関に推挙された。初場所は14日目敗れるまで兄弟子・武双山と並走し12勝。春は2横綱を破ったが、千秋楽1差の幕尻貴闘力を取り逃がす。そして夏場所、最後に3連勝で11番。印象的には弱かったが、見送られる理由もなかった。幕内8場所目での昇進、順風満帆に見えたが、いきなり新大関で負け越すなど、右肩の悪化もあって二桁にも届かない不成績が続く。そして13年秋には足に重傷を負って大関わずか8場所で陥落。長期離脱により平幕から出直しとなった。 その後ケガもあって三役では勝ち越せず幕内上位で停滞していたが、16年後半から復調。元大関が名関脇としての歩みを始めた。18年夏場所には14勝して白鵬と優勝決定戦を戦うなど奇跡的復活。翌場所三役で3場所34勝をマークしたが、直前の10勝で印象が弱く、二度目の昇進は見送られた。19年からは三役から遠ざかるが、初金星を獲得したり、下位に落ちれば12勝したりと度々存在感を発揮。22年には野球賭博事件で謹慎、元大関としては2人目の十両陥落となるが、1場所で復帰。その後衰えが目立っていたが、24年1月には5年ぶりの三役復帰を果たす。最後は急激に力が落ちて大負けを繰り返したが、十両でも幕下陥落が決まるまで取って引退した。 大関時代までは、突っ張りあり四つもどちらでも取れる万能な馬力型力士。右肩の瘤が特徴的だったことからもわかるように、背中を丸めて肩口で当たっておいて状況によって対応する器用さがあった。反面、強味や迫力に欠ける、型がないという否定的な見方もあり、大関昇進時には満場一致の決議が得られない異例の事態となった。陥落後は突っ張りに活路を見出し、気迫のこもった敢闘力士となる。相手の顎のあたりを集中して狙う上突っ張り型で、あまり出足を伴ったものではなかったので上体で突いているようにも見えたが、なかなかの威力、内から次々繰り出されるので相手は防戦一方となった。これに絶妙のタイミングでの引き技を交える技巧を持ち味に、30歳を過ぎても長持ちした。その他技に関しては、引退場所の貴乃花戦で見せた見事な二丁投げが目に焼き付く。 大関 魁皇 豪快な投げ技を武器に抜群の人気を誇った怪力大関。優勝5回を記録しながら遂に横綱には手が届かなかったが、長きに渡って土俵を務め、大横綱を凌駕する数々の記録を達成した戦後最強大関。 入門は若・貴・曙と同期の昭和63年春。初めて番付に載った序ノ口では負け越すなど、同期の桜とは差が開き、出世は和歌乃山より遅かった。それでも19歳で新十両。新入幕へは1年半かかり、1場所で陥落ともどかしい出世だったが、平成6年年初には評論家が口を揃えて今年期待の力士に挙げた。既に曙は横綱、若貴は大関だった6年春、一躍その名を高める大活躍。初日若ノ花から上位戦初勝利、さらに初顔の大関武蔵丸、横綱曙から初金星も奪って殊勲賞を獲得した。すぐに三役定着。7年1月の新関脇から史上最長の13場所連続在位を記録。その間、殊勲賞の常連となるがなかなか好成績が続かない。8年11月と9年3月には決定戦に進出するが、その間に挟まった1月は2年半ぶりの負け越し。そして関脇に復帰した5月、股関節を痛めてケガとの戦いが始まった。1年半の低迷を経て、11年には大関取りへ最大のチャンスが訪れたが、またも逸し、千代大海、出島に出し抜かれた。さらに12年1月の好機も逃し、千秋楽は中途半端な変化でライバル武双山に吹っ飛ばされて初優勝を献上、自身は負け越し。この一番に発奮し、5月は曙、貴乃花との熾烈な闘いを制して初優勝。翌場所は7勝4敗と追い込まれるも、14日目横綱武蔵丸を渾身の上手出し投げで下すなど11勝して大関へ昇進した。 大関となった魁皇は安定館を増す。13年には3月、7月と賜杯を抱くが、せっかくの綱取り場所をいずれも途中休場。全盛期は腰の爆弾との相談に明け暮れた。既に若貴、曙も引退、30歳を過ぎた故障持ちの体ながら、もうひと踏ん張りした。15年7月は千代大海との大関決戦を制し、16年9月にも朝青龍の5連覇を阻む優勝。綱取りへラストチャンスとなった地元九州では、3敗を喫して連覇を逃すも奮闘し、千秋楽朝青龍を寄り切った際には横綱昇進かと座布団が乱舞したが、13勝優勝―12勝1差準優勝では物足りないと見送られた。翌年からは休場がちでカド番も増え、18年3月は7−7から優勝争いトップの白鵬に勝ち脱出。幾度と無く訪れた引退危機を乗り切った。二桁勝つ力がなくなってもしぶとく、21年は6場所すべて8勝7敗の怪記録。ところが最後の九州場所となった22年11月では突如爆発。2日目から11連勝して白鵬との相星対決を戦うなど、3年半ぶりの二桁、6年ぶりの12勝を挙げた。23年も7連覇の白鵬を破るなど勝ち越しを続けて、一時よりもよほど安定していたが、通算勝利1046勝の歴代新記録を達成した7月場所、3勝7敗となって突然引退した。同場所千秋楽は39歳の誕生日だった。 主な記録を挙げておく。通算勝利、幕内勝利、通算出場、幕内出場、幕内在位、大関在位、最高位大関の優勝回数、ざっと挙げても史上1位を軒並み更新した。特に勝利数は、千代の富士、北の湖ら大横綱が居並ぶ記録の中を長年かけて更新した(のち白鵬が更新)。幕内在位場所数も高見山を抜いてダントツの三桁107場所を記録。ほかに三賞獲得数3位など、大関以下での記録も豊富だ。 左四つ、右上手を取っただけで場内大喝采。誰もが豪快な右上手投げを期待した。左肩をぶつけるようなカチ上げから左差しが入れば重い腰が発揮され、右を絞りながら圧力をかけて右上手。投げを警戒させながら上手を突きつけるような寄りは完成されていた。長い長い晩年はこの型の完成度で持ったようなもの。若い頃の力任せな上手投げ、幾人もの左肘を破壊した振り回すような小手投げは脅威。右を引っ張り込まれまいと腰を引く相手には、当たってすぐの叩きもよく決まった。上体も柔らかく、曙や千代大海の突き押しを受けながら残すしぶとさがあったが、足腰が疲弊した晩年は下がるとあっけなかった。立合いの飛び道具、右とったりも必殺技、琴欧洲や把瑠都を何度も仕留めた。 大関 栃東 父は技能力士関脇栃東。その父が興した玉ノ井部屋で四股名を継承、親子二代優勝など三度賜杯を抱いた平成の名大関。高校の先輩でもある横綱若乃花の最後の相手となり、その技能相撲を受け継いで大型力士を相手に奮戦した。 名門明大中野中・高で鍛えられ、高校横綱の実績を引っ提げて入門。序ノ口、序二段、三段目と連続優勝を記録、26連勝の快進撃でスピード出世。幕下でも優勝して計8場所で十両に。十両もわずか3場所、すべて二桁勝利、3場所目は優勝で幕内昇進。平成8年九州の新入幕場所、いきなり敢闘賞の活躍、上位初挑戦は負け越したが5月から3連続三賞、新関脇で10勝し大関候補に名乗り。10年1月は優勝次点の11勝でいよいよ期待が高まったが、右肩を痛めて休場。その後も横綱大関と互角に取り、三役に定着するもののなかなか勢いに乗れず、同い年の千代大海など次々と新大関が誕生する中、停滞していた。12年には関脇で12勝するも大関挑戦の場所で右肩脱臼。しかし諦めずに翌13年は徐々に調子を上げて7月10勝、9月12勝。そして11月は横綱武蔵丸と優勝争いを演じ、14日目の直接対決には敗れたが、千秋楽ケガを抱えながらも大関武双山を叩き込みに破って12勝、念願の大関昇進を果たした。この一年間はすべて勝ち越したが、勝利にこだわるあまり立合いの変化が目立ち9月は12勝しながら三賞なしと酷評されていた。11月ではその批判を打ち消すべく真っ向勝負で大関をつかんだ。 新大関の14年1月場所、武蔵丸が序盤で休場して横綱不在となったこの場所。同い年の昭和51年生ですでに優勝経験のある千代大海・琴光喜と並んで9連勝。三つ巴の争いとなり、千秋楽1敗・千代大海を本割、決定戦で連破し初優勝を飾る。この優勝には記録上かなりの意味があり、親子二代優勝、羽黒山以来2人目の序ノ口から幕内まで全6階級制覇だった。綱取りはならずも連続二桁と安定していたが、ケガで暗転。途中休場、公傷全休、8勝で脱出を2度繰り返す。15年11月は復調し朝青龍との相星決戦の末2度目の優勝。不振を脱したかに思われたが、翌場所から公傷制度が廃止されると、16年は連続休場で二たび大関から陥落。しかしその都度二桁勝利で大関復活を果たした。地獄の16年を乗り越えて17年は安定、18年1月は7場所連続優勝中の朝青龍を、千秋楽に切れ味鋭い出し投げで下し、1差の白鵬を振り切って3度目の優勝。技の栃東、面目躍如の場所だった。翌場所の綱取りは12勝して持ち越したが、夏場所はまた途中休場。その後は膝が悪化し苦しんだ。7月から9月にかけては10連敗、19年1月は5勝10敗。最終場所となった3月は、カド番を無傷で脱出。それ以上の戦果も期待されたが、朝青龍に敗れて3連敗となったところで頭痛等で突如休場。原因は脳梗塞の跡が見つかったというショッキングなもので、翌場所前に引退を発表した。大関としての大半はケガとの戦いで、カド番の多さは魁皇、千代大海ともども批判の的だったが、大関陥落など逆境、外国勢に立ち向かい、在位中優勝3回は最高位が大関では魁皇に次ぐ単独2位。玄人好みの技能的な相撲ぶりも相まって平成の名大関と讃えられる。栃東が制した18年1月以来、10年も外国勢が優勝が続いた。 大関栃東の技と言えば、やはり「おっつけ」だろう。相手が大きいだけに突き離されても組まれても分が悪い。素早く懐に入って差し手を絞り、重心低く攻め上げる理詰めの取り口は、若乃花とよく似ていた。技能的な押し相撲は栃木山、栃錦の流れを汲むものだろうか。貴乃花などは捕まえ切れずにさんざん苦労した。反面、積極的な攻めには不足があり、勝ち味が遅いところはあったが、相手の攻めを捌くいなし、はたきの技術は秀逸。父譲りの出し投げはそれほど多くはなかったが、勝負どころで披露した。 平成14年1月場所 朝青龍戦 大関 琴欧洲 ブルガリア出身、2メートル超にして筋肉質の均整の取れた体躯、角界のベッカムと呼ばれた憂いを秘めた容姿で人気を誇った。稀勢の里や白鵬と激しい出世争いを経て、ヨーロッパ出身で初の大関と優勝の名誉に輝き、長く大関を務めた。引退後は鳴戸部屋を旗揚げした。 入門は20歳と遅かったが、16年秋、当時新記録の所要11場所で入幕。豊ノ島とは、同時十両、幕内とも同時昇進で最長身・最短身コンビで話題に。新三役こそ跳ね返されたが、すぐに復帰した17年名古屋で大ブレイク。無敵朝青龍の24連勝を豪快な投げで叩きつけ、11日目からはトップ並走。千秋楽若の里に敗れて好機を逸したが12勝の活躍。さらに翌場所は新関脇の新記録となる12連勝で朝青龍に2差をつけ、勝てば優勝の直接対決に臨んだが、これを落とすと前頭16枚目だった稀勢の里にも完敗。決定戦で朝青龍に逆転を許した。大関取りをかけた翌場所は朝青龍に引き離されたが、直接対決に勝って11勝、大関昇進となった。同時期に将来を嘱望されていた白鵬や稀勢の里に先んじて大関となり、同場所で7連覇した無敵・朝青龍の対抗馬として期待を背負った 昇進後は思わぬスランプに陥る。早々と優勝争いから脱落し、良くて10勝。守りに入ってスケールが小さくなったと批判され、白鵬には追いつき追い越された。しかし青白時代が始まろうとしていた20年5月、故障休場明けカド番ながら無傷で勝ち進み、両横綱を撃破。13日目苦手安美錦に土をつけられたが、翌日日馬富士を破って欧州勢初の優勝を果たした。まだ25歳、前途が開けたかに思われた。 右四つ左上手を引けば万全。2メートル超の長身で強烈に引きつけ、相手の腰を伸ばしてしまう。下手を引いたまま腕を返して、相手を万歳させてしまう。しかし、右膝の怪我もあり重心の高さは如何ともし難く、投げで派手に転がされて逆転を許すことが多く、怪我も多発した。そのためか上手よりも下手を重視するようになり、もろ差しを狙うことも多くなって窮屈そうに長身を屈める姿が目立った。外四つでも取れるスケールの持ち主だが、緻密な相撲を志し、前傾姿勢。前掛かりゆえ、寄り倒しの数がかなり多かった。稀勢の里ら的の大きい相手には強いが、小兵・技能派にはよく餌食になった 平成17年7月場所 朝青龍戦
大関 琴光喜 大関 把瑠都 人並み外れたパワーで驚異的な相撲を見せたエストニアの怪人。クレーンのように相手を抜き上げ、角界のセオリーを覆した。横綱は確実と見られたが、度重なるケガには勝てず大関を陥落、惜しまれつつ若くして土俵を去った。 16年に入門するとデビューから17連勝。1年余りで十両へ。虫垂炎に見舞われて幕下に陥落するアクシデントはあったが、復帰した18年3月は44年ぶりの十両全勝優勝をマークし鳴り物入りで入幕。いきなり優勝争いに絡み、14日目、千秋楽と決定戦を戦う関脇雅山、大関白鵬と戦った。一気の出世を誰もが予想したが、強引な相撲が災いして三度相手を呼び込んでのヒザ故障。2度も十両に落ちる遠回りを強いられた。その後は相撲の形を整え、体が生きるようになると三役に定着。21年9月からは三役で12、9、12と足固め。そして22年3月、11日目白鵬との全勝対決に敗れたのみの14勝をマークし、大関に昇進した。 折しも横綱朝青龍が引退した直後の場所、「白把時代」だと、白鵬と対立する時代の到来を期待された。が、上位戦をなかなか勝ちきれず、最後まで優勝争いに残ることもできない不振が続いた。23年の中ごろからは安定して二桁勝つようになり、ようやく白鵬にも勝てるようになった。そして24年初場所、全勝こそ逃したが不調の白鵬を尻目に独走し13日目に初優勝を決定した。翌場所の綱取りも10日目まで1敗で残ったが、終盤に崩れ10勝どまり。その後クンロクが続き、同年秋・九州と取組中に負傷、2場所連続途中休場で横綱どころか陥落となってしまった。25年初場所は大関復帰をかけて出場したが、故障の回復も不十分で8勝7敗に終わった。翌場所も9勝どまりだったが3大関を破る力はあり、故障が回復すれば大関復帰は現実的と思われたが、またもケガが襲う。夏場所、稀勢の里に寄り切られた際に古傷の膝を痛め休場。翌場所も復帰できず史上3人目の元大関の十両陥落となった。さらに秋も稽古できる状態ではなく、休めば幕下陥落となることが確実。ついに進退窮まり、場所直前に引退を発表した。治す時間があればまだまだこれから完成されていくと期待されていた大器だけに、非常に残念な最期だった。 把瑠都といえば、クレーンに例えられたような吊りが魅力。吊りが見られなくなった平成の土俵にあって、規格外の体力で誰彼なしに持ち上げてしまった怪力には唖然とするばかりだった。懐の深さ、リーチも圧倒的で、肩越しにでも上手を取れれば軽く相手を持ち上げてしまう。後ろ褌を取ってのはりま投げもよく見せた。立ち合いは腰を落としておっつけるような形にして安定。捕まえてしまえば体が生きたし、ときにリーチを生かして一方的に突っ張ることもあった。ケガにもつながった強引な投げ、叩きがネックで、圧倒的な力でねじ伏せれば良いが、相手の出足を誘発して踏ん張るところ膝が入ったりと危ない相撲も目立った。 平成24年1月場所13日目 対琴奨菊 大関 琴奨菊平成20年代、モンゴル勢一色の時代に5年余り大関を張り、日本勢10年ぶりの優勝を果たした。 平成14年明徳義塾高卒で入門。所要2年半で新十両、17年初場所新入幕。18年九州で初の三賞となる技能賞を獲得して上位に定着する。三役常連として活躍するもなかなか大勝ちできずに停滞していたが、徐々に体の厚みを増し、ガブリ寄りが代名詞になってブレイク。23年1月から二桁を続け、7月には天敵の白鵬を破って11勝したが、最終盤に平幕に連敗した印象が悪く持ち越し。再挑戦となった9月も白鵬を破り、惜しくも優勝は逃したが12勝。春場所の中止を挟んで長きに渡った大関挑戦に成功した。 新大関でも9連勝したがその後はパッとせず、調子を上げてきては故障に見舞われた。慢性化する膝の不調、力技の要である右の筋肉も切ってしまった。苦しんだ大関時代の数少ないチャンスが、26年7月。1敗で終盤に入り、横綱日馬富士に勝って臨んだ白鵬との相星対決には敗れたが、再び並んで千秋楽を迎えたが、大関昇進のかかる豪栄道に敗れて逸した。 「柳川の石臼」と表現された重戦車のような体型。身長180センチほどながら、後年は180キロに達した。右おっつけを効かせた押し相撲で上位に進出。体重増加に伴い左差しで出足を生かす寄りが増えた。上手が取れれば良いが取れなくてもガブリ寄りで煽って出ていく馬力が持ち味。右はワキが甘いと言われたが、大きな相手でも引っ張り込んで強引に持っていく力があった。右四つの相手には、差し手を争わず左前ミツを狙ってガブって先に攻め切る戦法も取った。圧力をかけておいての突き落とし、上手投げ、小手投げ、掬い投げも得意技。一方、膝は早くから傷んでおり、ガチガチのテーピングで固めていて、前のめりに落ちることが多かった。特に立ち合い変化を毎場所数度は食ったが、リスクを承知で強烈にかましていった。対戦成績では、朝青龍、白鵬には捌かれていつも転がされており、白鵬戦の負け越し49は最多。鶴竜、豪栄道にもやや分が悪かったが、日馬富士、稀勢の里には勝ち越し。稀勢の里戦は史上最多対戦を数えた。 平成28年1月場所10〜12日目 鶴竜、白鵬、日馬富士戦 鶴竜に張って左を深く差すと、右で抱えて前へ。爪先立ちながらも圧力をかけて寄り切り、自身初の10連勝。全勝対決、白鵬に張られたが動じず左差し勝つと、しゃにむにガブリ続けて前進。抱えた右を離して一突きしてトドメ。さらに1敗で追う日馬富士にも当たり勝って前に出ながら左を入れると踏ん張るところを右から突き落とし。3横綱相手に上手を取ることもなく快勝して、主役に躍り出た。 大関 豪栄道 気風の良い相撲ぶりで人気を博した浪速っ子大関。スピードと技のキレ味はモンゴル出身横綱にも負けていなかった。大関としては故障がちで不安定な成績だったが、苦しみながらも5年余り在位。唯一の優勝は、和製力士では平成期でわずか3人という全勝で飾っている。 高校生ながら全日本3位に入り、鳴り物入りで入門。好敵手栃煌山ら同期と競いつつ所要2年半で入幕した19年9月、いきなり優勝争いに加わり横綱白鵬にも挑戦した。その後度々大物を食いながらも波があり、三役と平幕を往復し、謹慎で十両落ちも経験した。24年5月に3年ぶりの関脇に復帰してからは安定し、14場所連続在位の新記録を作る。大勝ちすることもあるが、三役での連続2桁勝利を残せず(実は大関時代を含めても1回だけ)、大関取りに至らなかった。26年春には12勝してご当所を沸かせるも、夏は8勝どまりでまた白紙に戻ったかに思われたが、名古屋では2横綱を連破。特に白鵬を2場所連続で倒したことで昇進機運を呼び込んだ。横綱3タテを狙った日馬富士戦で膝を負傷したがよく粘り、千秋楽首位タイに立つ琴奨菊を下して12勝。3場所32勝ながら、関脇に2年以上在位する実績も評価されて大関となった。殊勲賞5回、敢闘賞・技能賞各3回。 28歳、実績十分で大関となったが、2場所目には10敗を喫し、翌場所千秋楽にカド番脱出といきなり多難だった。その後も体調万全な場所が少なく、序盤から星を落として早々に脱落する場所が目立った。カド番は史上3位の9回に達し、勝越し後の途中休場も3回あった。逆境で踏ん張って33場所在位したが、うち二桁勝利は7度に終わった。それでも時折目を見張る活躍を見せることもあり、28年と31年の大阪場所は終盤まで横綱を追走し12勝。特に人気を誇るご当所を盛り上げた。秋場所にも強く、28年には見事全勝で初優勝。翌29年も決定戦の末に2度目の優勝は逃したが、一時2差で独走。30年も全勝白鵬に跳ね返されたが終盤まで追い上げ12勝している。令和元年秋も二桁勝ったが、続く九州場所初日に寄り倒された際に左足首を負傷。回復不十分で迎えた2年初場所は3連敗スタート、12日目に負け越して大関陥落が決まった。千秋楽まで取ったので翌場所ご当所で復活を狙うのかと思われたが、落ちたら辞めるという初志を貫徹し引退。唯一の綱取りとなった28年九州では通算20連勝を記録したが、中盤で3敗を喫し、最後に3横綱に全敗して潰えている。 右下手左前褌の型があるが、その頻度は高くなく、左を差しても取れるし、廻しにこだわらず押して出ることもある。基本の寄り、押しに加えて鮮やかな投げ、掛け技も見せる技能派の印象があり、前捌き良く懐に入ることもある反面、二本差されては首投げで九死に一生という場面も多々あって差し身が良いとは言い難い。巨漢把瑠都を打っ棄った強靭な足腰を持ちながら、前にのめって落ちることも多かった。最大の武器は、動きの速さと次の技を出す反応の素早さ、勘の鋭さ。故にすぐ引き技に頼ると批判もされ、実際墓穴も掘っているが、標準クラスの体格で巨漢揃いの上位と渡り合うためには思い切りの良さは総合的にはプラスに働いた。長所と短所が同居していて簡単に評価できない力士だ。 平成28年9月場所13日目 日馬富士戦 全勝の豪栄道は、2敗で追う日馬富士との直接対決。頭で行ったが、鋭い踏み込みの横綱の方が低く右を深く差された。左へ開いて上手投げで打開しようとする豪栄道だが、反応した横綱は足を送って左も差し込む。絶体絶命の豪栄道、迷わず思い切って反対の右から十八番の首投げ、ものの見事に決まって大逆転。絶対優位に立った豪栄道は、翌日玉鷲を右四つ十分で寄り切って優勝を決め、そのまま全勝でゴールテープを切った。 大関栃ノ心 平成30年3月場所12日目 鶴竜戦
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