平成名力士 平成初期以降の最高位関脇の力士を完全収録(三役常連、優勝力士は別掲)。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
関脇 太寿山
柔かい上に腰が重く、大きな腹もある。四つ相撲としてこの上ない体格を持っていた。立合いの型が綺麗なこともよく知られ、59年の立合い正常化の際には手本とされた。右四つの型があって安定しており、若手力士の実力を測る基準とも言われた。引退後は元横綱輪島の廃業で放駒部屋に吸収されて消滅した名門・花籠部屋を再興。幕内光龍を育てたが、経営難から24年に閉鎖。 関脇 栃 司 学生相撲出身、典型的な押し相撲。敢闘・技能各1回、金星3個。62年九州で前頭6枚目の10勝ながら、翌場所関脇に昇進している。激しい取り口のためか故障が多く、番付の上下動が大きく幕内在位は短かった。引退後は独立して「司」が入った四股名が目印の入間川部屋を創設。幕内皇司ら関取3人を育て、停年前に雷に譲り渡した。 関脇 若翔洋 平成初期に活躍した旧二子山部屋の力士。長い下積みから急成長して平成5年には連続敢闘賞。一気に関脇まで駆け上がったが、腰を痛めて全盛期は短かった。ワキは甘かったが腰が重く、小手投げなど逆転技が豊富。引退後は一時格闘家に転身した。
関脇 琴乃若 長身・巨体を生かした四つ相撲で長く幕内を務めた。史上3人目の幕内在位90場所を記録。若い頃から「ミスター1分」と呼ばれるほど長い相撲が多かった。腕力は強くなかったが、上手投げを得意として膝に爆弾を抱えた晩年も活躍した。初期は琴の若、後期は琴ノ若。琴乃若で関脇になり、「若」の字の草冠を旧字体にするなど、四股名を微調整した。平成10年ごろをピークに平幕暮らしが長くなったが、朝青龍を裏返してかばい手論争を呼ぶなど、老いて益々盛んだった。しかし舅となった師匠の停年に伴い場所途中で引退、佐渡ヶ嶽を襲名。その後不祥事が続いて多難ながら、3人の大関を擁し、さらに師匠・琴櫻の孫でもある実子の二代目琴ノ若が活躍。
関脇 追風海 学生相撲時代に首を痛めた影響で頭から当たれなかっものの、スピード相撲、上手を引きつけての攻めで鳴らした。両膝も故障して苦しんだが、好調時は天賦の巧者ぶりを発揮した。満身創痍となった晩年は八艘跳びを多用、運動神経に賭けた。頑張って上位に戻ったが、首・ヒザが限界に達し、ついに引退。あっさり協会から身を引いて地元で議員となり、国政選挙にも挑戦。
関脇 隆乃若 若の里と「鳴戸の若隆」と期待された大器。粒ぞろいの昭和51年生組の中では出世は遅かったが、長身を活かした将来性を感じさせる取り口で急成長。三役で二ケタ勝利して大関候補に名乗りを挙げた。しかし、これからというときに張り手を食ってヒザを負傷。これが最後まで尾を引いた。一気に番付を下げ、足腰が硬くなって相撲振りも淡泊になってしまった。ついに復活できないまま引退。
関脇 玉春日 技能的な押し相撲で長く活躍した名力士。三役に定着はできなかったが、全盛期の貴乃花ら上位陣を苦しめて金星7つを獲得。三賞も5つ。ベテランとなってからは十両との往復が続いたが、最後に復活し史上最長間隔となる9年・55場所ぶりの三賞を獲得。幕内力士として存在感を示して引退した。入幕当初は小気味良いリズムで前に出る馬力を見せていたが、後年はタイミングの良いいなしを交えた攻めで幻惑、的確な押しの技術で体力の衰えをカバーした。柔らかさが生み出す土俵際の奇跡的な粘りは見事だった。引退後程なく、名門・片男波部屋を継承。
関脇 北勝力 腕力を活かしたのどわ、もろ手突きで一気に出る相撲。3度の敢闘賞を獲得した。平成16年5月、序盤から大関を連破し4連勝で迎えた5日目。当時35連勝と破竹の勢いの朝青龍を、一気の右のど輪押しで撃破した一番が唯一の金星。この場所13勝1敗のトップで千秋楽を迎えたが、新入幕だった白鵬に敗れ、決定戦では朝青龍に雪辱を晴らされて平幕優勝は逃した。翌場所は反対の2勝に終わるなど、その後も成績は安定せず、三役は1場所に終わる。18年1月にも優勝争いに絡んで12勝したが、以後腰や首の不調で十両落ち。トレーニングで鍛えた筋肉は衰えず復調の気配を見せたが、首を悪化させて連続休場、幕下に落ちた23年5月場所中に引退。 関脇 玉乃島 叔父・清國を彷彿とさせる強烈な右おっつけの威力を武器に上位に定着、ときに大勝ちして敢闘賞5回、技能賞1回を受賞。通算三役4場所を務めた。幕下付出デビューし、平成12年11月、玉ノ洋の四股名で入幕。再入幕の13年3月、横綱玉の海が大関時代まで名乗った「玉乃島」に改名、敢闘賞の活躍で大きな期待に応えた。さらに7月は千秋楽まで優勝争いに残り12勝3敗、新三役となる。15年には朝青龍、武蔵丸から金星。その後も12勝を2度記録するなど二桁勝利は11場所。千代大海に脳震盪を起こさせたぶちかまし、ケガを負いながらも気力で前へ出て勝つ気迫も印象的だった。23年11月に引退した。若島津の二所ノ関部屋を引継ぎ、放駒部屋を率いる。
関脇 阿 覧 世界大会を制した実績を引っ提げ鳴り物入りで入門したロシア出身力士。荒削りの相撲ながら負け越し知らずで2年かからず新入幕。22年12勝、11勝で連続敢闘賞。一気に関脇へ躍進した。その後はこれといった活躍はなく、三役通算3場所に終わる。三保ヶ関部屋が閉鎖した25年秋場所後、突然引退した。連日立ち合い変化したり、荒っぽい張り手と強引な叩きの印象が強い。体格を生かした右四つの型も地味ながら向上していたが、ついに完成を見なかった。動きの良さを活かした押し、いなしのコンビネーション、前褌取っての出し投げ、足癖もあった。 関脇 朝赤龍 明徳義塾高では朝青龍の1年後輩。先輩を追ってスピード出世、15年1月は幕内と十両でアベックV。朝青龍の横綱昇進と同時に新入幕を果たした。翌春、朝青龍、2大関と共に並走し、魁皇との全勝対決に勝ち12連勝。翌日も全勝千代大海と互角に取ったが惜敗。優勝は兄弟子に譲ったが、13勝で殊勲・技能をW受賞した。18年5月は4大関を破り敢闘賞で新三役。翌19年には2度目の技能賞から浮上し新関脇となった。朝青龍引退後は部屋頭として長らく部屋を引っ張ったが徐々に後退。29年1月ついに幕下陥落し、高砂部屋の関取が138年ぶりに途切れた。日本国籍を取得、部屋付きを経て高砂を継承した。 関脇 豪 風 嘉風との小兵コンビで平成20年代を盛り上げた押し相撲の職人。アマチュアでの実績が買われて若干基準に足りない身長の条件はパスして付出デビュー。入幕当初内掛けや首投げも飛び出す半端相撲だったが、押しに専念。ケガで1度転落したが、再入幕後は13年連続で幕内を保った。前半期は地味で、2度12勝での敢闘賞があるものの、ほぼ平幕暮らし。しかし26年名古屋で5日前に嘉風が記録した最年長金星を35歳に更新。翌場所は最年長新関脇となった。年齢を感じさせない俊敏さ、かいな力を維持して39歳まで関取として奮闘した。尾車の閉鎖時に一部を受け継ぎ、押尾川部屋を立ち上げた。 関脇 嘉 風 30歳を超えてから三賞常連となった遅咲きの力士。スピードを武器に気迫の相撲を見せた若い頃は、体格の不利もあり下位での散発的な活躍に留まっていたが、26年になって開眼。新三役では負越したが、翌場所32歳で当時の最年長初金星を獲得すると、以降8個も稼いだ。翌年からは白星も伸び、27年秋は3場所連続となる二桁勝利で殊勲・技能W受賞。翌場所も三役で初めて勝ち越し、3連続三賞で新関脇に。30代後半になっても円熟味を増して上位陣を苦しめた。まだ力はありそうだったが、土俵外の事故で膝に重傷を負い復帰できなかったのは残念。 関脇 琴勇輝 怪我と向き合いながら突き押し一筋に賭けた土俵人生。時間いっぱいの仕切りでの咳払いがトレードマーク。入幕間もない頃に左膝に重傷を負ったが十両下位から復活し、平成28年春、日馬富士から初金星を得ると、5日目からは11連勝と大爆発、12勝で殊勲賞を獲得。翌場所は関脇で横綱鶴竜を破ったが、以降は番付を下げて十両との往復。度々故障にも見舞われながらようやく上位復帰を果たすが、両肘、古傷とは反対の右膝も手術するなど番付は乱高下。愈々膝が限界に達し、3年春には初めて幕下に転落、復帰を断念して30歳で引退した。
関脇 勢 現役屈指の長身を誇り、差し身の相撲で活躍した華のある力士。故障も多く波は激しかったが、決して休まず初土俵から連続出場を続けた。好調時には敢闘賞4回、金星5個と目立つ働き。甚句名人としても有名。幕下で停滞して花の六一組の中では遅咲きながら、25年ごろから上位に定着し、時に大勝ち。26年9月にはあわや新入幕優勝という逸ノ城に土をつけ10勝、新小結となる。27年11月は4枚目で12勝して2場所連続の敢闘賞を獲得。翌々場所再び二桁勝って新関脇に昇進した。その後、初金星から2年ほどの間に5つ記録。平成の終わりとともに急激に番付を下げ、一度は復活したが、満身創痍で再急落、3年1月千秋楽、自身初の休場となる不戦敗により幕下陥落が決まった。その後出場しないまま引退。 右差し返しての寄り、掬い投げが軸だが、左を固めてくると引っ掛けるような小手投げ、肘で跳ね上げての突き押し叩き、後年は左四つも増えるなど取り口の幅を広げた。
関脇 魁聖 194センチの巨体を活かした四つ相撲で敢闘賞3回、三役4場所を務めた日系ブラジル人力士。帰化し、引退後は師匠の友綱を襲名した。平成23年5月の新入幕では初日から9連勝し敢闘賞。再入幕後の24年7月には1敗で終盤を迎え、11勝で2度目の敢闘賞。上位で勝越せなかったが、28年3月、7枚目の11勝で小結昇進。すると新三役で見事勝越し。連続3場所三役を務めた。30年3月は6枚目で12勝の活躍。13日目1差で首位横綱鶴竜に挑んだが、及ばず。横綱戦はとうとう1勝もできなかった。腰痛持ちで度々十両に転落、晩年は満身創痍ながらも幕内に戻って奮闘した。 関脇 隠岐の海 恵まれた体躯に、整った容姿で人気が高く、時に大勝ち、上位を食う印象的な活躍で、敢闘賞4回殊勲賞1回。35歳で三役初勝ち越しと大器晩成。37歳まで丸10年幕内を保った。幕内で活躍するまでかなり道草を食ったが、再入幕すると23年1月敢闘賞。24年11月には新横綱日馬富士の連勝を32でストップする初金星。翌年には2度目の三賞を得て新三役となる。28年9月は2横綱3大関を破って6連勝、大器覚醒かと騒がれたが失速。その後も単発の活躍はあるが、番付は乱高下した。令和2年には小結で9勝をマークしたが、これをピークに緩やかに下降。5年1月初日から5連敗を喫すると、十両転落決定を待たずにスパッと引退した。
|