平成名力士 感動を呼んだ奇跡の瞬間。不思議と全盛期を過ぎてから栄光がやってきた。 |
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関脇 琴錦
最強関脇の名にふさわしい実績を誇る名力士。F1相撲の異名をとった速攻で、史上初の平幕優勝2回。三賞18、金星8、関脇、三役在位は史上最多。幕内の半分以上を三役で過ごしている。 20歳で入幕、ジリジリと地力をつけ、平成2年5月からは5場所連続の三賞を得て大関候補一番手となる。千代の富士にも突き押し圧倒で金星を奪い、場所後かわいがりを受ける羽目になったが逆に横綱を負傷させる勢いを見せたのは有名。千代時代の終焉を感じさせるとともに、誰もが次の大関を確信した。関脇で2場所連続2桁。3年1月は初日から8連勝で一気に決めるかと期待されながら4連敗したが11勝、さあ大関取りと期待させた3月。場所前スキャンダルでボロクソに叩かれてこれは失敗。やや7月はケガで精彩を欠き初めて三役陥落。この場所兄弟子琴富士が平幕優勝し、燃えないわけにはいかなかった。とは言え怪我は完治せず、不安を抱いて臨んだ9月。よもやの13勝2敗で千秋楽は舞の海をこれぞ鎧袖一触、圧倒し平幕優勝を飾った。2場所連続でしかも同部屋の力士が平幕優勝という珍事だった。翌場所は小結で好調を維持、14日目小錦との直接対決を制して12勝2敗で並び、二子山理事長も「連続優勝なら飛び級大関」と示唆した。が、若乃花に惜敗してチャンスを逸した上に足首に重傷を負った。無理して出た翌場所は負け越して最大の好機を逃した。 4年の後半復調して11勝、13勝(曙に1差届かず)と並べたが、5年1月負け越してまた失敗。7月も優勝争いに加わり12勝、しかし以後は好スタートは見せるものの後半バテるパターンが多く、大勝ちできなくなった。上位陣との差がついてきて、体は満身創痍。9年1月に関脇を落ちてからは、三役昇進以来最長の5場所連続平幕で、5枚目以下に落ちるなど衰えを隠せなかった。10年は復調、1月小結での技能賞に続き、5月も最後まで優勝の可能性を残した。 しかし故障休場で番付を下げた9月は5勝しかできず、九州場所は平幕下位に転落。引退の意思も師匠に打ち明けたが激励され、奇跡を起こす。初日からモロ差しのキレを発揮し連戦連勝。12日目ついに横綱若乃花と当てられ惜敗したが、13日目2敗貴乃花を見事な相撲で撃破。14日目大関貴ノ浪にも完勝すると、1差で追う土佐ノ海が敗れて7年・43場所ぶり(ダントツの長間隔)の優勝が決まった。14勝と自己最高の成績。以後は下降線、とよく言われるが、そうでもない。翌場所初日にまた貴乃花を破るなど、やや翳りの見え始めた上位陣を食いまくる。11年3月からは3場所連続金星。ところが引退への道はあっという間だった。12年3月は8枚目に落ちていたが、序盤で安芸乃島(長年、相性は抜群だった相手だが)のとったりに肘を壊され休場、よもやの十両落ち。さすがにこれではあきらめきれず、十両でも相撲を取ったが、プライドは幕内力士。9月東十両筆頭で負けが込むと、さっと引退した。取り口同様スピードのある語り口で解説でも力を発揮。親方株もよく変わるが、指導者として残ってほしい存在。 若き日は突き押し速攻。出足を生かして下からのハズ押しやのど輪で突き放して一気に出る。それだけの力強さがあり、F1級のスピードを誇った。摺足にこだわらず、踵を浮かして「走る」ことがスピードを生んだ。ところが長い上位との戦いで消耗。肘は真直ぐ伸びなくなり、首、腰も痛みが走る。膝がガクっと入る癖もあって、スピードに足がついてこなくなってきた。それでも通用したのはモロ差し寄りの技能。差し身の良さを生かして二本差し、肩まで入れて左右から掬うように出る。巻き替えの技術も抜群で、2度目の優勝はこのモロ差しの攻めの賜物だった。押しでも寄りでもとにかく止まらないことを心掛けた。脇の甘い力士にはめっぽう強く、差し手を肩まで差して怪力を使わせない技があったため、安芸乃島には圧倒的に分が良かった。立合いは独特のカチ上げがあったが、微妙にずらすぶちかましなど考えた技も見せた。曙戦で二字口まで下がってから突っ込むダッシュ立合い。晩年は八艘跳びも数回見せた。 平成10年11月場所13日目 貴乃花戦 前日1敗となった琴錦、逆転3連覇ねらう貴乃花に挑戦。モロ差し狙うも左は差せず、両者上手が取れずに右を差し合った形で必死に横綱の上手を防ぐ。ここで神業が出た。上手を探る動きを見せてからスパッと巻き替え。見事もろ差しを果たすと肘を張ってがぶって出る。最後は突いて遂に寄り切り、優勝に大きく前進した。 関脇 貴闘力 闘志で上位陣に対抗。曙キラーとして名を馳せ金星9個。仕切り中の睨み合いや激しい張り手で湧かせた。突き押しの力士らしく調子に乗れば大勝ちし、敢闘賞10回。引き技のうまさも見事で、晩年に奇跡の史上初の幕尻優勝も果たした。初土俵から一度も休場しなかったのも勲章。 相撲一筋、入門資格がないのも知らず小学校を出て早速藤島(二子山)部屋に居候したほどの気合の入れ様。3年後入門し、新入幕は貴花田に1場所遅れだったが、11勝の活躍で早速敢闘賞を得た。2場所目には早くも初金星。三役に定着した。その存在を知らしめたのは大翔山との張り手合戦。目や口から流血しながら意地になって張り合った。3年5月には千代の富士をとったりに下して最後の対戦相手となる。歴史に名を残した(千代の富士の引退というと必ず貴乃花戦が紹介されて目立たないが)。しかし中だるみの感があってしばらく低迷。三役に定着できなくなった。12枚目まで番付を下げた6年3月、久しぶりに快進撃で12勝。巴戦となったが貴ノ浪、曙に連敗。この活躍を足掛かりに2度目の3場所連続三賞を得、関脇に復帰。波はあったがずっと上位に定着し、曙から金星を荒稼ぎした。大関取りのチャンスは8年11月。最も油が乗った時期で、三役で10,11勝と重ねて臨んだ11月。不運にも体調を崩して負け越した。 11年5月に小結で負け越してからは、急に上位で通用しなくなり大負けも目立った。12年は6年ぶりに前頭2ケタに落ちても負け越し、幕尻の前頭14枚目。武蔵川部屋6連覇中の全盛期、横綱若乃花共々落日の二子山部屋の象徴が引退かと心配された3月。若乃花は力尽きたが、開き直った貴闘力は破竹の12連勝。12日目は大関武双山も張り手気味の突き落としで下し、優勝に王手。まさかの展開に取り組み編成は混乱。史上初めて横綱同士の対戦を崩し、ぶつけられる。さすがに曙、武蔵丸と連敗。追う力士も潰しあって何とか単独トップで千秋楽を迎えた。完全に勢いはしぼんでいた。相手は1差で追う武蔵川の新星雅山。やはり一気に押し込まれたが、絶体絶命の体勢から奇跡的な右への回り込みを見せて送り倒し。雅、しばし呆然。勝ち名乗りで既に涙。史上最年長、最スロー初優勝を飾った。 が、衰えは確かで翌場所小結で正反対の2勝13敗。13年7月にはとうとう十両落ちとなった。あきらめきれずに現役続行。二度再入幕するも、限界の時は来た。やはり進退がかかっていた寺尾との一戦に敗れて十両から陥落が決定的となり、引退した。年寄・大嶽として、義父の大鵬部屋を継承したが、弟子そして自らの不祥事で角界を去った。 激しい突き押し、のど輪や上ツッパリでアゴのあたりを張り手交じりに突き上げて起こす相撲。体を開いての叩き、いなしがタイミング良く決まった。張り手で冷静さを失わせ、フットワークの良さで格上の相手にも星を稼いだ。押し自体の威力も強く、曙をまともに押し切ってもいる。がっぷり四つになっては苦しかったが、上げって来た頃は半身の体勢から二丁投げも何度か見せた。力士生活後半は引き技ばかりが目立ったのは残念。また、仕切り中の睨み合いを含めて立合いの駆け引き上手でもあった。 平成2年5月場所3日目千代の富士戦 NHKのアナウンサーが「千代の富士、優勝31回。横綱在位59年...え〜59場所。...」との重大な言い間違い。まさかこれがそんなに重要な一番になるとは。貴闘力は当たって突っ張り、右のどわでどっと出る。千代の富士これを左へ回り込んで外す。千代の富士は右をこじ入れようとしたが貴闘力は左半身となって上手を遠ざけ、左から絞ると、いきなり右差し手をつかんで取ったり。虚を疲れた千代、腕が極まって吹っ飛んだ。この夜大横綱千代の富士は「体力の限界!」と引退を発表した。貴闘力は時の人、とはならず、初日に最年少金星をあげた貴花田との一番が世代交代の一番として語られる。
関脇 水戸泉 黄金の廻しと豪快な塩撒きで人気を博した大型力士。膝の怪我などを抱えながらも復活して平幕優勝も果たし、長く土俵を勤めた。 小錦、霧島に1場所遅れの59年9月新入幕。したがって蔵前国技館で中入り後に相撲を取った最後の力士となった。新国技館開館の場所、11勝の活躍で敢闘賞。上位進出して期待されたが交通事故を起こして十両落ち。再入幕の61年3月は弟弟子小錦とともに優勝争いに加わり12勝。7月も敢闘賞の活躍で新関脇。晴れの場所で大乃国戦で左膝に重傷を負い、連続休場で一気に十両に落ちた。63年になってようやく再起。小結に戻って2ケタを挙げ、さあ大関を狙おうという11月、初日からまた大乃国に潰されて左足を痛め休場。全くついていない。元年11月、小結で11勝の活躍で優勝した小錦とともにオープンカーに乗り込んだ(史上最も車に負担がかかった場所だろう)。2度目の関脇となったが大関を窺がうほどの安定感はなかった。 その後暫く低迷。7場所連続勝ち越したはいいが、内6場所8勝で、大関候補という声はなくなってきた。前頭筆頭で迎えた4年7月。本命曙が休場した優勝争いは混戦となり、前半に2敗した水戸泉が2敗で単独トップに立った。14日目。水戸泉は貴ノ浪を命綱の右上手から打っちゃり気味の投げに下して2敗を死守。すると3敗の武蔵丸、小錦、霧島と立て続けに敗れて本人もびっくりの優勝決定。支度部屋で実弟梅の里と涙ながらに歓喜した。 翌場所も関脇で初めて勝ち越し、再び大関候補に挙がったのもつかの間、下半身の怪我との縁は切れず、上位で勝ち越せなくなり、その後三役に戻ることはなかった。それでも6年からは休場することなく11年3月まで幕を守る。十両でも1年ほど奮闘し、38歳で土俵を去った。ほどなく独立し錦戸部屋を起ち上げた。 左四つだがとにかく上手を取れば怪力で何とかなるスケールの大きな相撲。立合いで体ごとぶつかっていく出足も強く、千代の富士戦の唯一の勝利はのど輪で圧倒したもの。股割りで故障したという下半身の硬さはどうしようもなく、腰高だったが力にものを言わせて吊り寄りで持ち上げるように豪快に寄り切った。俵がどこにあるとかは関係なく、相手も自分も重心が浮いたまま土俵を割るので、勢い余って土俵下まで飛び込むことも多く、審判や砂被りの客はいい迷惑だった。それゆえ土俵際に打っ棄られることも多かったが、逆にクレーンで持ち上げるような打っ棄りも見せた。なんといっても63年の霧島戦は3度も土俵際もつれて取り直しとなり、4度目も打っ棄られながらようやく白星を得た大熱戦があった。隙が多いところもまた魅力。土俵際で寄りを懸命に堪える顔も印象的だった。 平成4年7月場所14日目貴ノ浪戦 立ち遅れた水戸泉、左を深く差した。しかし貴ノ浪もスケールでは負けていない。強引に出て右上手を取った。土俵際に詰まった水戸泉、懸命に残すと、右の一枚廻しで持ち上げて体を入れ替えようとする。浮き上がりかけた貴ノ浪は右外掛け。しかし水戸泉、伸びるまわしでさらに持ち上げてそのまま上手投げぎみに土俵外に運んだ。このあと優勝が決定した。 関脇 琴富士 一場所の大活躍で永く記憶に刻み込まれる力士。誰も予想し得なかった平幕優勝で名を残した。一時は若貴キラーの名もついた。 昭和63年9月、新入幕で11勝。敢闘賞の活躍でホープとして期待される。上位挑戦となった11月は、2日目40連勝中の横綱千代の富士を立合いの突きで一気に押し込み、引っ掛けにかわされたものの、益々期待が高まった。なかなか上位で勝ち越せなったが、2年5月前頭筆頭で8番と健闘、運良く新関脇となった。しかしまた元通りのエレベーターになってしまう。上位に対しても、大乃国から金星を挙げただけで、目立たない。13枚目に落ちた3年7月、突然も突然大爆発した。初日から連日左四つの攻めが冴えて勝ち進み、後続に2差をつけた。上位に当てられても大関霧島、横綱旭富士を連破し11連勝。いよいよ逆転優勝で綱取りを狙う2敗の小錦との大一番。3分を越えて渾身の上手投げが決まり12連勝、完全独走。13日目も貴闘力のモロ差しを崩して左四つ十分で寄り切り、史上初の関脇以下での13日目優勝。サプライズを起こした。奇しくも千代の富士引退の翌場所。場所中大乃国も土俵を去った。求心力を失った上位を差し置いての平幕優勝は、戦国時代の幕開けだった。 新時代の主役の一人と期待された琴富士。翌場所はさっぱりで、以降優勝が夢だったかのように普通の力士に逆戻り。爆発もなく、2ケタ一度だけ。故障があってからは急に力が落ち、6年には十両に、早くも7年には31歳で引退となった。粂川を襲名したが、琴稲妻に譲って退職、タレントとなった。 長身らしく突っ張ってから左四つに組みとめてがぶり寄るのが最高の型。優勝の時には上手を取った時点で歓声が沸くほど定着した。足腰に不安を抱えている分、下がると脆い面もあり、舞の海には三所攻めを決められた。全体にやや淡泊な面が見られた 平成3年7月場所12日目小錦戦 2差とは言え先場所14勝を活かして綱取りを狙う小錦、全勝琴富士にとって最も重い壁。突っ張り合いから左四つ、廻しを取らせず両廻しでがぶる。しかし小錦も重い。琴富士は巻き替えてモロ。寄りに寄り立てての上手投げで遂に転がした。優勝に王手。
関脇 旭天鵬 41歳直前まで幕内で活躍した角界のレジェンド。モンゴル人力士の一期生として入門。取り口や成績は地味で、同期旭鷲山や後輩朝青龍、白鵬らの活躍の陰に隠れていたが、スケールの大きな相撲で三役にも昇り、敢闘賞7回。全盛を過ぎた37歳にして平幕優勝を飾り、史上最年長初優勝。その後も通算記録や年長記録をマークして人気力士として惜しまれながら土俵を去った。移籍先の友綱を継承して高見山以来の外国出身師匠となり、のちに大島部屋を再興した。 平成4年に入門、10年に新入幕。大鵬を彷彿させる恵まれた体で期待されたが、派手な相撲の旭鷲山と対照的に勝ち身が遅い四つ相撲で上位への進出は時間がかかった。12年1月に終盤まで優勝争いに残って初の敢闘賞。上位では勝ち越せずにいたが、14年1月幸運な新三役。9月には貴乃花を寄り倒し初金星を挙げるなど上位に定着する。15年3月は朝青龍に横綱初黒星を付け、5月は小結に戻って二桁勝ち連続三賞。関脇に昇進した。あえて全盛期を探すならこの頃になるだろう。その後、19年に謹慎による十両落ちがあったが、概ね平幕上位に在位している。21年には三役に復帰したが、徐々に上位では通じず大負けが目立つようになる。既に日本国籍を取得し、大島部屋継承が既定路線だったが、なかなか衰えないまま師匠が停年。現役続行を希望したため部屋は友綱部屋に吸収された。移籍直後の24年9月、白鵬が中盤で4敗を喫する大荒れの展開も、序盤2勝3敗の旭天鵬には無関係に思われたが、連勝を続けるうちに上位が総崩れになり、気がつけばトップに並んでいた。14日目大関琴欧洲、千秋楽豪栄道も下して10連勝。史上初の平幕同士の決定戦では栃煌山を思い切った叩きで這わせて奇跡的な優勝を果たした。パレードのオープンカーには、一般人となった前・大島親方が、さらに騎手は志願の白鵬が同乗する豪華布陣だった。以後は人気力士の仲間入りを果たし、通算出場回数1位などの記録でも注目された。26年9月には40歳幕内という快挙を勝ち越しで飾り、翌場所には二桁勝って三賞まで獲得した。幕内99場所目の27年7月、3勝12敗に終わって十両陥落が決定的になり、引退を発表した。 左右どちらの四つでも胸を合わせれば取れる代わりに絶対の型もないというなまくら四つ。怪力でもなく驚くような強引な相撲はなく、これといった芸や飛び道具、逆転技もないので、横綱大関には組みし易い相手だった。しかし、さっと上手に届くリーチ、大抵の力士をすっぽり収まってしまう懐。身体を効果的に生かした相撲はシンプルながらも最後まで崩されず、大きな故障とも無縁だった。勝ち身がおそい、消極的などど言われた相撲ぶりだったが、寄り身は割とスピーデイーで、晩年は上手を引く技術に磨きがかかり、勝機で思い切りのよい技を見せた。 平成14年9月場所2日目 貴乃花戦 これまで横綱戦勝利のない旭天鵬。7場所全休明けの横綱貴乃花にとっては四つ相撲同士でやりやすい相手にも見えたが、珍しく立合い左に動いて上手を狙った旭天鵬。一度切られたものの、これまた珍しく頭もつけるような体勢で前へ前へ。右から窮屈ながら掬って逃れようとする横綱に、上手は切られながらも渡し込むように体を浴びせると、粘る横綱は突き落とし切れずに背中から落ちた。注目の一番で会心の速攻を見せた旭天鵬、三役力士へ脱皮する一番となった。
関脇 逸ノ城 あわや新入幕優勝というセンセーショナルなデビューで将来を嘱望された規格外の大器。腰痛に苦しんで最後まで安定しなかったが、一時は三役に定着。時に優勝争いに加わり、最晩年に栄冠を勝ち取った。金星は9個、殊勲賞3回を数えた上位キラーぶりも印象的だ。 相撲留学後、実業団へ進んでタイトル獲得、平成26年初場所に外国勢として初の幕下15枚目格付出デビューを果たした。幕下、十両を2場所ずつで突破。そして秋場所、1敗のみで終盤戦を迎え、2大関撃破。さらに鶴竜には変化を見せて、実に41年ぶりの新入幕金星を獲得。白鵬との相星対決には敗れたが、新入幕最多タイの13勝で殊勲・敢闘。史上初の幕内2場所目で新関脇でも勝ち越した。ところが、ここから一進一退どころか徐々に後退。 200キロ超級の巨体を活かしたパワー相撲が武器で、右四つ左上手に組み止めれば盤石。新入幕当初は右で首を巻くようにしての左上手投げが豪快だった。これは早々に見られなくなったが、突き押し、はたきでも剛腕ぶりを発揮した。懐が深いのでもろ差しを許しても抱えて長期戦に持ち込む策もあったが、腰痛持ちのためか守勢に回るとあっさり土俵を割る場面も目立った。同じ右四つの白鵬、照ノ富士、栃ノ心には相性が悪かった。 令和4年名古屋場所5日目 照ノ富士戦
前頭 徳勝龍 「史上最大の下剋上」を果たした最高位平幕の優勝力士。 令和2年初場所14日目正代戦
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