平成名力士 昭和の終りに昇進した北勝海、大乃国から若貴世代、そしてモンゴル勢へ。 |
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第61代横綱北勝海 幕内465勝206敗109休 優勝8殊3敢3技5金1 花のサンパチ組の一人。兄弟子千代の富士と共に九重部屋10連覇を達成、史上初の同部屋横綱決定戦を戦うなど九重黄金時代を築いた。大横綱の陰に隠れたとはいえ優勝8回は横綱のなかでも中の上。 20歳で本名の保志で入幕、幕内4場所目に早くも関脇。以後三役に定着し三賞の常連。61年3月に関脇で5大関を総なめし初優勝。さらに2桁を重ねて大関昇進(この間5場所連続三賞)、北勝海と改めた。安定した成績で62年3月には2度目の優勝、翌場所千秋楽全勝大乃国との1差対決には敗れたが、13勝2敗の好成績で横綱に推挙された。 横綱2場所目に優勝と順調だったが、63年5月千秋楽から休場。股関節、腰部椎間板を痛め、長く苦しいリハビリ生活を余儀なくされた。体に疲労は来ていたが、3月大乃国に逆転優勝を許した悔しさからの雪辱を期して稽古に励んで無理のツケが回ってきた。3場所全休明けの平成元年初場所。奇跡的な白星街道で14連勝。千秋楽旭富士に並ばれたが、決定戦では倒れこむように執念の寄り倒しで大復活優勝。この時ばかりは師匠共々感涙にむせんだ。元年、2年と抜群の強さはないが、年2回ずつ優勝。勝ったほうが優勝という一番では三度旭富士を退けている。2年3月の巴戦は史上初めて2巡。最後は重たい小錦を寄りに寄って下手投げで下し、死闘を制した。 不運が襲ったのは3年3月、14日目相星の大乃国との直接対決に勝ったが、土俵下に落ちた際左膝を負傷。千秋楽はケガをひた隠した甲斐あって運良く8回目の賜杯を手にしたが、代償は大きかった。折しも若貴曙ら若手が堰を切ったように上位進出してきた時代。満身創痍の横綱には激流を受け止め切れなかった。不振と休場が1年続き4年3月も初日から力なく連敗し休場。翌場所前、突然引退を発表した。まだ28歳の若さだったが、故障だらけで「稽古する気力」が限界に達した。その後九重部屋から独立して八角部屋を興すと、関脇北勝力、隠岐の海、小結海鵬、北勝富士ら多くの関取が輩出。北の湖死去後は理事長となる。 北勝海の相撲は、激しい当たりからの突っ張り、おっつけ、喉輪、ハズ押し。押し相撲が基本だが組んでも悪くなく、横について前褌を引きつけ頭をつけての寄り、出し投げの技能も良かった。突っ張り一辺倒でなかったのが安定した成績を残せた要因だろう(千代大海も見習うべきだった?)。たまに前に落ちたりするのは押し相撲ゆえの宿命。膝を使った切り返しなどもまたに見せ、これで曙を倒しているが、逆に大翔山にかわず掛けで返されたりもした。このあたり横綱になって余裕が出てきたからか、それとも柔道経験からか。全体的には押し相撲にありがちな安易な引きで自滅といった負け方は少なく力戦が目立った。もっと楽に勝つ取り口があれば長持ちしたかもしれない。 平成2年3月場所 優勝決定巴戦第4戦 対小錦 第62代横綱大乃国 426勝228敗105休 優勝2殊5敢2金4 元魁傑の放駒部屋から誕生した日本人最重量横綱。明治の角聖常陸山の再来と大きな期待を背負いながらケガや無呼吸症候群で苦しんだ。一方で九重全盛時代に総当たりで真っ向立ち向かい、千代の富士の連勝をストップさせたことで名を残した。 サンパチの北勝海らより1歳上、黄金世代の猛追を受けながら順調な出世でリードした。取的時代に花籠部屋から魁傑の独立に伴って移籍。三役で初めて負越して平幕に落ちた直後の58年11月、3金星奪い一躍注目を集める。この場所から3場所連続殊勲賞。四股名も大ノ国から大乃国に改め関脇に定着。上位キラーながら星が上がらず、ややもたついたが60年7月、12勝して大関へ。またスランプに陥ってなかなか二桁に乗らず、双羽黒・北勝海に出世レースで後れを取ったが、62年5月スケールの大きな相撲が開花し全勝で初優勝。千秋楽綱取りへ執念を見せる北勝海の張り手を交えた撹乱にも動じず、上手を取って寄り倒し。続く2場所も好成績で横綱昇進となった。 このとき期待はピークに達したが、新横綱場所8勝7敗、翌場所途中休場。続く63年3月も2日目から連敗して窮地に立たされたが、そこから勝ち続けて千秋楽は北勝海を本割・決定戦と連破、よもやの逆転優勝を飾った。地力のあるところを見せつけたが、これが最後の優勝になってしまった。連勝こそ止めたが、千代の富士の独走を許し、さらに平成元年の後半からは体調を崩して不振。9月は15日制で初の横綱皆勤負越しを喫して引退を申し出るが、慰留された。再起をかけた2年1月、何とか勝越しはしたが千秋楽に足首を骨折し、以降当時横綱最長の4連続全休。進退極まったが何とか立て直し、3年3月には準優勝するまで持ち直したが、翌場所全休して7月、五分の星となった8日目に引退を発表した。29歳だった。放駒から独立、芝田山部屋を興し、放駒停年後は弟子を譲り受けたが、なかなか弟子には恵まれず。人格は評価され、スイーツ親方として人気を得た。のち遅咲きながら八角政権でば要職に。 大乃国は右四つ寄りの型を持ち、ハマればその巨体が活きて抜群の強さ。太い腕を突きつけられて残せる相手はいなかった。千代の富士でもさすがに胸を合わせるのは避けた。機を見て体を浴びせる破壊力は凄まじかった。番付を駆け上がる頃は巨漢ながら動きもなかなかで突き押しでも破壊力があったが、体重増加で足がもつれることが多くなり、四つに専念。うるさい相手を引っ張り込む迫力は巨漢ならではだったが、捕まえにいくところ板井の張り手の的になって7連敗を喫するなど主導権を握れないところがあった。180キロくらいで止まっていれば、組んでよし離れてよしで、或いはすごい横綱になっていたかもしれない。 昭和63年11月場所 千秋楽 千代の富士戦 目下53連勝中の千代の富士に対し大乃国はこの場所10勝4敗。しかし大乃国は考えた立合いで、先に手を着いた千代の富士が突っ込むところ、ゆっくりと仕切って腰を落とし「後の先」を制する。すばやく左上手を取って右差し、千代の富士に左上手を与えない。千代右下手を取って半身で防戦。大乃国前傾で体重を預け引きつけて寄ると、千代下手から振って残す。さらに下手から出し投げで半身、右下手が切れるが大乃国の右差しも浅くなりこれを絞る。ここで大乃国が強引に出ると千代左を巻き替えて下手。土俵際でモロ差しとなり、形勢逆転かと思われたが、大乃国休まず極め上げてまわしを切って煽り、打っ棄ろうとするところを左喉輪で体を預けて寄り倒した。横綱の意地を見せた昭和最後の一番は永遠に語り継がれる。
第63代横綱旭富士 487勝227敗35休 優勝4殊2敢2技5金2 大学中退後20歳で初土俵を踏み、30歳にして綱をつかんだ遅咲きの横綱。2代若乃花張りの「津軽ナマコ」とも呼ばれた柔かさ、相撲の巧さで、膵臓炎と闘いながら悲願の平成初めての横綱となった。 北勝海、大乃国と同じく58年新入幕。高校でも活躍し近大相撲部に進むが馴染めず、一度郷土に帰ってからの入門。ブランクはあったが、わずか2年で入幕のスピード出世。しばらく幕内では苦戦したが、61年1月新関脇で11勝。膵臓炎が出始めてムラが出たものの、62年に入ると安定し関脇で4場所連続2ケタをマークして大関へ。2場所目の63年1月千秋楽、1差の苦手千代の富士を破り初優勝。この頃の安定感は抜群で、この年53連勝した千代の富士を差し置いての年間最多勝。しかし優勝には後一歩届かず綱取りは果たせない。平成元年は1月14勝も決定戦で敗れ、翌場所13勝も千秋楽千代の富士に不戦勝では見送り。翌場所また14勝、決定戦で敗れたとは言え14場所連続2ケタ勝利、3場所41勝で見送りとはあまりに不運。その後膵臓炎が出て1年近く不振に陥るが、2年5月14勝で久しぶりの優勝。続く名古屋では千秋楽1差の千代の富士を下して連覇。天敵を破ってついに悲願の横綱を手にした。 新横綱の場所も快調で、24連勝(6年に貴乃花が30連勝するまで平成1位)をマーク。この場所は北勝海に相星決戦で敗れるなど横綱として初の優勝を逃していたが、千代の富士が引退した横綱5場所目の3年5月、千秋楽に小錦を本割、決定戦と連破し逆転で4回目の優勝。天敵も消え、さあこれからと期待されたが、三日天下。膵臓炎の悪化で体調不十分の中、他の横綱も不振で責任感が増して出場を強いられ、若乃花に頭からひっくり返されるなど、惨めな負け方を曝してしまった。結局休場明けの4年1月初日から3連敗で引退。在位9場所で、「不知火型は短命」というジンクスを破れなかった。横綱時代の実績は乏しいが、長い大関時代の成績は横綱としても申し分ないものだった。引退して早々に安治川部屋の師匠に迎えられ、時間はかかったが、親類の技能派関脇安美錦が登場。のちに伊勢ヶ濱部屋の看板を引継ぐと、2横綱が誕生して古豪復活を果たし、一門の総帥としても存在感を発揮。 旭富士は持ち前の相撲の巧さでいい形を作ってから攻める相撲。立合いやや動いてまわしを取ったり、上突っ張りから差して肩透かしを引いたりと前捌きに定評があった。一方で差し身が中心の守りの相撲との印象で横綱昇進には不利だったとも言われる(膵炎のため稽古嫌いとのレッテルを貼られたこともある)。しかし突っ張りだけで押し切ったり、小錦でも堂々と寄り切ったりと自分から攻める相撲も取れるようになって横綱に近づいたと述懐している。千代の富士を天敵としたが、内容を振り返るとモロ差しになりながらパワーとスピードで圧倒された取組も多い。逆に初優勝を決めたときは、モロ差しになられながらも休まずに攻めまくったのが奏功した。こういう相撲が続けばもっと早く綱を手繰り寄せられたかもしれないが、膵臓炎が出ると握力が激減するらしく、力相撲を続けるのは難しかったのだろうか。 平成2年7月場所 千秋楽 千代の富士戦 何度目か数え切れない綱取り場所、ここまで13勝1敗。勝てば連覇、負ければ決定戦。審判部の心証の良くない旭富士としては文句のつけようのない成績を残したい。立合い千代張差し狙いも突っかけ気味で失敗。旭富士は左上手に掛かると出すように回り、千代の富士半身で左上手が遠い。旭富士は裾払いを見せて寄るが、千代まわり込むと旭富士の上手が切れた。しかしすぐに巻き替えに成功しモロ差し。千代両上手、一枚まわしが伸びる。旭富士猛然と寄っては掬い、攻勢。苦しい千代の富士は左から捨て身の上手投げ、だが強引。旭富士下手投げを打ち返し、両者踏ん張る。体勢に余裕のある旭富士は頭を押さえつけ、千代ついに転がった。旭富士の差し身の良さと猛然たる攻めが融合した一世一代の大一番だった。 第64代横綱曙 566勝198敗181休 優勝11殊勲4敢闘2金星4 史上初の外国人横綱(後に帰化)。同期の若貴兄弟と出世レースを展開し、ライバルとして立ちはだかった。「四十五日(一突き半)の突き」を地で行く破壊力で土俵を席巻し、11場所一人横綱を務める。膝や腰の不調に苦しみながら、二子山勢、武蔵川勢囲まれながら孤軍奮闘、師匠譲りの辛抱で48場所横綱を務め、優勝回数2ケタを誇る。 高見山にスカウトされ63年春、大海の四股名で初土俵。同郷同門の大関小錦の胸を借りてスピード出世。若乃花とは初土俵・新十両・新入幕(2年9月)とも同時。入幕後は上位を倒すが2ケタ勝利はなく、新関脇の3年5月に入門からの連続勝ち越し新記録はストップ。しかし4年1月貴花田と優勝を争い13勝とブレイク。3月は8番止まりだったが、5月また13勝で初優勝し大関昇進。新大関の場所全休、角番場所も苦しむが、11月復活優勝。そして5年1月、貴花田を破って連覇、横綱昇進を決めた。先輩小錦を差し置いて横綱空位を4場所で終わらせた。 7月から3連覇。誰も歯が立たず王者に君臨した。6年に入り膝に痛みを抱えるが、それでも一人横綱の責任で出場。3月再び巴戦を制し、5月も10連勝したが貴闘力戦で膝を悪化させ休場。手術を決意し半年間土俵を離れる。7年3月、3連覇中の貴乃花との横綱相星決戦を制し1年ぶり優勝。「春はあけぼの」と謳われた。 いよいよ名実ともに二強の時代と期待されたものの、11月に再び故障し、貴乃花に水を開けられた。9年5月、千秋楽貴乃花を連破して逆転優勝。2年ぶりの賜杯で遂に復活と思われたが、11月また膝を悪くし全休。10年は2ケタがやっとの成績で、今度は腰が悲鳴を上げ、11月から3場所連続全休。進退のかかった11年5月は初日から連敗し引退勧告寸前だったが乗り切り、翌場所は千秋楽勝てば優勝というところまで復調するも武蔵川包囲網に逆転を許す。9月また途中休場で九州場所は3年連続で出場できず。しかし12年、曙は見事に復活を果たす。1月から5月まで安定して優勝争いを演じ、7月は13日目に優勝を決める独走で実に3年ぶり、横綱では最長間隔の復活優勝。9月は武蔵丸の全勝を阻み13勝。11月は7人の横綱・大関に全勝して11回目の優勝を決めた。だが、優勝を決めた20世紀最後の一番が、曙にとって最後の一番となった。13年1月を全休すると、「ケガとの闘いに疲れ果てた」と、場所後突然引退を発表。故障、不振を繰り返して何度も引退危機と騒がれた横綱の引き際は稀に見る美しいものだった。その後、東関部屋を継承すると思われていたが、突然格闘家に転身した。 曙は若い頃のもろ手突き、のど輪で電車道の相撲が印象深い。バスケット仕込みの長いリーチからの突きは腕が伸びるようだった。しかしそれだけではなく、かなり早い段階から前捌きにも定評があって、右差し上手を引きつけての寄りでも若貴を圧倒している。下半身の不安が高まった後年は前に落ちることが増え、あまり突き放さずに四つ身の相撲が増えた。本人も「自分は差し身の相撲」と認識していた。立合いも突き放し中心からカチ上げ、張差し中心へと変わっていった。 平成5年7月場所 優勝決定巴戦 若ノ花戦・貴ノ花戦
第65代横綱貴乃花 701勝217敗201休優22殊勲4敢闘2技能3金星1 叔父若乃花、父貴ノ花といった名力士の血を引くサラブレッド。入門時から注目され、最年少記録を次々塗り替えて空前の相撲人気を巻き起こし、角界の頂点を極めた平成の大横綱。 貴花田の四股名で初土俵。若花田、曙と出世レースを展開し、17歳で新十両。3場所で通過し2年夏新入幕。いずれも史上最年少記録。十両落ちするなど壁に当たったかに見えたが、3年春突如ブレイクし初日から11連勝(平幕では大鵬以来)。翌場所初日千代の富士から史上最年少金星。世代交代の一番として名高い。4年初場所には史上初めて10代で優勝。秋には早くも2度目の優勝を飾り、はや年間最多勝。5年1月場所後大関に昇進。貴ノ花と改める。ここまでは最年少記録を更新し続けたが、大関で苦労する。2場所目に優勝し、翌場所も巴戦に進出するが、時期尚早と見送り。5年九州は体調を崩し角番に(これも最年少)。6年は初、夏と優勝するが地方場所で11勝に終わりなかなか届かない。もどかしさから土俵態度が荒れて余計印象を悪くし、秋は初の全勝で横審に掛けられたが異例の見送り。四股名を貴乃花に改めて心機一転、九州で意地の連続全勝、文句なしの横綱をつかんだ。北の湖に次ぐ若さだった。 7年新横綱で登場した貴乃花は30連勝中だったが、初日武双山に敗れてストップ(これ以後も更新できず、16年に朝青龍に抜かれるまで平成の最多記録だった)。しかし決定戦に持ち込んで3連覇。いよいよ強さを発揮し出した貴乃花。春は曙に譲ったが夏からまた3連覇。連続で同部屋決定戦で敗れるが8年春から4連覇。6年秋からの13場所は常に優勝または千秋楽直接対決に持ち込む抜群の安定感だった。さあ5連覇だ、年間最多勝更新だ騒がれた絶頂期の九州は、場所前背中を痛めた上発熱し、初めての休場。以来稽古量が落ちて後退していく。 9年はやや苦戦しながらも3回優勝を記録したが、10年に突然乱れる。初場所肝炎で体調を崩し、12日目横綱になって初めての4敗を喫して途中休場。翌場所を序盤で負けが込み休場。夏は皆勤場所ではもっとも悪い10勝どまり。7、9月を連覇して「引退も考えた」と振り返ったが、本当の試練はここから。若乃花との絶縁騒動などマスコミの袋叩きにあって人気も急落。11年は故障が重なり、やっと2ケタに乗った九州は相星決戦で武蔵丸に裏返された。12年も故障に祟られ2年連続優勝なし。13年初場所でやっと復活優勝。安定感が戻ったが、夏場所14日目武双山に巻き落とされて右ひざに重傷。強行出場の千秋楽、武蔵丸との決定戦の末壮絶な優勝を果たしたが、代償として膝は1年たっても完治せず、7場所連続全休のワースト記録で異例の「出場勧告」を突きつけられた。進退のかかる14年秋は12勝で相星決戦まで進み復活を期待されたが、再び全休明けの15年1月、肩を負傷し途中休場。死に場所を求めるように異例の再出場に踏み切るが7、8日目連敗し引退。一代年寄貴乃花を襲名。翌年二子山部屋を継承して貴乃花部屋を率い、のちに新たな一門を形成した。関取誕生には時間がかかったが、ようやく花開こうという時に、千賀ノ浦(のち常盤山)に弟子を託して退職してしまった。 全盛期の貴乃花は下半身の安定感がすばらしく、まさに地に足が着いていた。横綱らしくどちらでも上手を取れば万全で、相手に相撲を取らせてからじっくり腕を返して寄り切る横綱相撲。あくまで寄りで決める本格相撲で派手さはなかったが、2度ほど叔父譲りの呼び戻しも見せている。強引な取り口で割と序盤で取りこぼすことが多かったが、引退前は右四つの型に固まりだして完成度が高まり、左上手投げが鮮やかに。はじめ父貴ノ花、のち双葉山を目標としたが、全盛期のどんな形でも取れる相撲ぶりは大鵬にも共通するところがある。周りの大型化に合わせて体重を増加させて150キロほどをベストとしたが、その体重が次第に重荷になった感はある。 平成6年11月場所千秋楽 曙戦 第66代横綱若乃花 487勝250敗124休優5殊勲3技能6金星2 63組、弟貴乃花らと出世レース、幕下まではトップを行ったが、十両からは貴乃花の丁度2場所後に出世を果たすジンクスがあった。3年9月、旭富士の首を押さえて力ずくで裏返す初金星を挙げるなど11勝、殊勲技能。翌々場所再び旭富士から金星を奪い引退に追い込む。ところが故障に見舞われる。4年3月は再出場むなしく再休場となり、1場所で不戦敗2回という珍記録を残すが、不思議なことにこの珍記録を初代・3代若乃花、初代・2代貴乃花と一族4人とも記録している。出場への執念は血筋。5年になって快進撃、1月2桁で技能賞、そして3月は新大関貴ノ花との争いの末初優勝。翌場所10勝でつなぎ、7月13勝巴戦に残って大関昇進。 大関若乃花は約5年にわたった。やや故障休場は多かったがそれ以外は安定して2ケタ。横綱のチャンスも何度もあった。6年7月は休場明けながら勝ち進み、全勝優勝の武蔵丸に負けたのみの14勝。翌場所12勝も今度は貴乃花が全勝で3差、翌場所貴乃花が30連勝で横綱を決めては若乃花は話題にもならない。7年11月貴乃花との夢の兄弟決戦を制し2度目の優勝。が、肝機能障害で綱とりどころではなく途中休場。その後2ケタを続け9年1月勝てば優勝の一番で敗れた悔しさを晴らし優勝。さあ今度こそと臨んだ3月、旭鷲山戦で右足重傷。致命的といわれたが立ち直り、10年3,5月を連覇してファン待望の兄弟横綱が誕生した。 しかし横綱若乃花は既に満身創痍。10年9月、11年1月と千秋楽で惜しくも優勝を逃したが、これが最後の輝き。11年3月からは休場が続き、9月は休場勧告を無視して皆勤し千秋楽負け越し。この時は引退は免れたが、2場所休んで臨んだ12年3月、思い出深い大阪で高校の後輩栃東に敗れて2勝3敗となって引退した。藤島を襲名したが、ほどなく退職。アメフト挑戦、ちゃんこ屋経営などで話題となったが、タレント、相撲評論家に落ち着いた。 若乃花の技能は、大型力士全盛の時代にあって際立っていた。生命線はおっつけ。足で踏ん張って力を伝えるので大きな力士も浮き上がらせてしまう力があった。左四つ得意であるが、四つ相撲というか押し相撲というか判別しづらい。体がないためがっぷりでは苦しく、離れても突き押しには持っていかれるため、突き手を手繰りながら食いついて左差し、相手にまわしを与えずに左右に動いて、おっつけ、ハズで下から押し上げる。栃木山、栃錦に通じる技能である。肩透かしや足技も絶妙。潜って食い下がり、内掛け、投げも派手に決まった。下半身は足首が細く、ふくらはぎ・太ももはものすごい筋肉質。その下半身に大怪我を負った晩年は苦しかった。 平成5年3月場所12日目 曙戦 若乃花自ら思い出に残る一番として挙げた一戦。初優勝を目指して1敗で単独トップの小結若花田は、3敗の新横綱曙との大一番を迎えた。例によって曙はモロ手で突き放す。若左右にいなすが土俵際、ここぞと突きに来た曙の腕を手繰ってかわすと両者ほぼ同時に落ちた。取り直しとなり大いに湧いた。髷が乱れたまま再戦、若、今度は立合いさっと潜る。曙が突き放そうとするがまわしをつかんでこらえ、食い下がる。モロ差はまずいと曙右をのぞかせ左も上手にかかる。若、右差しを嫌っておっつけて前褌、曙は差し手を抜いて右も上手。若花田は右脇に顔を出す変則的な形。ここで右内掛けを見舞うと、一旦腰が浮いた曙だが、右のど輪で強引に出る。内掛けにかかったまま下がった若、土俵際で掛け投げぎみにはねあげて渾身の右下手投げ。曙の巨体が見事に裏返った。曙を沈めた若花田はそのまま勝ち進み14日目1差の貴花田が敗れて優勝が決まった。 突き押しに屈しない粘り強さが出た二番。足技、投げの鮮やかさが目立つが、そこへいたるまでの技にも若乃花の真髄が見て取れる。まず突き押しを手繰る技術である。ただいなすだけでは次の突きが待っているが、腕をつかんで回ることで次の攻めを遅らせ、相手との距離を詰めることができる。そしておっつけ。曙は突き押しだけでなく右四つの寄りも強く、体力で圧倒する。取り直しの相撲で右を入れられかけたが、ここで廻しを離して差し手を絞った。曙は右が殺されると見て上手に切り替えたが、それによって若花田は完全に中に入り込むことができた。左右のおっつけの力が若乃花最大の武器であった。 第67代横綱武蔵丸 706勝267敗115休優12殊勲1敢闘1技能2 曙に次ぐハワイ出身横綱武蔵丸。史上最重量横綱、5年足踏みした大関時代、怪力の右腕を差しこんで寄る型を身につけて横綱になり、先輩横綱不振の平成10年代前半は土俵を引っ張って曙を越える史上6位・12回の優勝を成し遂げた。首、左手首の故障を抱えながら一人横綱の重責を担った功績は大きい。西郷ドン似の風貌、とぼけた性格で人気。 平成元年初土俵。若貴曙とは1年ほど遅れて出世し3年九州、貴ノ浪とともに新入幕で大活躍し11勝で敢闘賞を得る。とんとん拍子に番付を上げて4年7月三役に。この場所11勝で技能賞。以後5場所で4回二桁して大関もすぐと思われたが、のんびりして大勝できずもたつく。5年九州曙と史上初の外国人同士の決定戦を戦い13勝の活躍。続く6年1月も2敗で千秋楽、大関貴ノ花を寄り倒して決定戦、のはずが勇み足で敗退。この活躍で大関昇進、貴ノ浪とはまたも同時昇進だった。 6年7月、突き押しの破壊力絶頂の武蔵丸は併走する若乃花を退け初優勝を全勝で飾る。平成に入っての全勝は元年の千代の富士以来5年ぶりだった。本領発揮でさあ横綱だと期待されたが翌場所は11勝で見送り。1年ほど12勝以上を続け安定感を示すが、横綱貴乃花の壁は厚く優勝に届かない。四つへの転進を図って相撲に迷いが生じ、8年は不振に陥った。しかし貴乃花休場の九州で11勝ながら5人の決定戦を制し2度目の優勝。これをきっかけに立ち直るが9年は2度決定戦で敗れるなど勝負弱く、やはり綱取りには不足。10年1月混戦を抜け出しV3、ところが200キロを大きく越えた体重が邪魔になって勝手に土俵を飛び出すことも目立ち、また不振。11年1月は千秋楽でようやく勝ち越し、この場所の苦しさが逆に武蔵丸を燃えさせた。3月は3横綱不在の中貴ノ浪との大関楽日相星決戦を制し、5月は力相撲の末曙を押し倒して連覇。ついに横綱昇進。 新横綱場所は同部屋の出島に譲ったが、9月11月と12勝ながら連覇。11年は3横綱に1度も賜杯に触れさせず4回優勝と全盛を誇った。12年1月、慢性化していた左手首痛が悪化し途中休場。幕下時代以来北の湖の記録を破る史上1位の連続勝ち越しが55場所でストップ。誰もが経験する幕内上位の壁に当たらず、ほとんど大関時代に記録を伸ばした点で驚異的。初めての休場以後武蔵丸はケガに苦しむ。12年、13年の優勝は1度ずつ。左手が使えない場所は金星を次々配給してしまう。13年は貴乃花に2度決定戦で敗れたが、貴乃花が長期休場して1人横綱となるとその間3回優勝。14年9月、左手首を剥離骨折しながら復帰してきた貴乃花を相星決戦で下す。しかしこの痛みに耐えて頑張った優勝が最後の千秋楽となった。左手首は限界に達し、再建手術、しかし隠し通していた首の古傷もあって復活ならず。休場が続いた15年11月7日目土佐ノ海に引っ掛けられて俵を踏み出し、武蔵立ち往生となった。武蔵川部屋を引き継いだ武双山の藤島部屋付きを経て、先代師匠から武蔵川を受け継ぐと、独立して部屋を再興した。 重い突っ張りで大関へ駆け上がった武蔵丸は、全勝優勝も果たしたが、四つ相撲には脆く、貴乃花は天敵だった。琴の若にも四つになって何もできず水入りの末敗れたことがあった。手首の痛みや体重過多で方向転換に弱点があったためか四つへの転向を図ったが、これはあまり評判は良くなかった。しかしようやく右差し左で抱え、腕を返して出る相撲が様になり、安定感が出て、捕まっても貴乃花に対抗できるようになった。怪力の太い腕を返されて体が起きないのは2mの曙くらいだった。差せなくてもおっつけて出る力はすごかったが、離れて勝ち急ぐと足がついてこず土俵際で逆転されることもしばしば。それゆえ取りこぼしが多かった。 平成11年11月場所千秋楽 貴乃花戦 自身の連続勝ち越し記録を55場所と伸ばした(翌場所途中休場でストップ)武蔵丸だが、左手首は消耗しており不調。この場所は2横綱が全休、出場する2横綱もそろって9日目に敗れ6勝3敗となったが、意外にもこの2横綱が立ち直って落日相星決戦となった。右の相四つの両者は、貴乃花が左上手を取って頑張り、寄りに寄る。武蔵丸は右の差し手だけで残す。上手を命綱とばかり引きつけて貴乃花がなお寄ると次第に武蔵丸の腰が起きてきた。そして正面土俵、武蔵丸は棒立ちになったが、力を振り絞って寄った貴乃花に右の掬い投げを見舞うと貴の体がグルリと空中で回転して大木が崩れるように落ちた。貴、しばし土俵で座り込んだまま。膨れ上がった左腕が死闘を物語った。武蔵丸は7回目の優勝。この年4回の優勝で、勿論年間最多勝。不振からの復活をかけた王者貴乃花を退けて第一人者の地位を奪った。 猛威を奮った武蔵丸の右腕の返し、その力が寄りの横綱の正攻法を根こそぎ凌駕した。一年収めの相撲での決戦という舞台で一年を象徴する相撲が展開され印象に残る。あれだけ体がゆっくりと裏返る決まり方も、相撲史上珍しいと思う。 第68代横綱朝青龍 596勝153敗76休優25殊勲3敢闘2 モンゴルから来た蒼きウルフ。平成の蒙古襲来ともいうべき嵐のような存在だった。数々の大記録を打ち立てた無敵の横綱。年間完全制覇、7場所連続優勝は史上初。一方でトラブルは数限りなく、横綱の品格を改めて考えさせた存在、ガッツポーズなど当たり前の異端児で、その一挙手一投足が日本中を二分する論争を巻き起こした。 明徳義塾高への留学を経て、平成11年若松部屋に入門(のち合併に伴い高砂部屋)。軽量だったがトントン拍子の出世で丸2年で入幕。3場所目で三役昇進すると、武蔵丸を下手投げに破って殊勲賞。ド派手な民族衣装を着た両親が祝福の拍手に応えて大いに盛り上がった。引退時には一番の思い出と語った。翌場所は千秋楽に負け越したが、これが生涯2度目にして最後となる皆勤負け越し。以降また快進撃が始まる。秋場所は武蔵丸を足取りで破って金星を挙げ、優勝した琴光喜との直接対決には敗れるも敢闘賞。着実に力をつけると、関脇で連続11勝して迎えた14年7月、千代大海との優勝争いには一歩及ばなかったが12勝でモンゴル人初の大関昇進を果たした。 新大関場所でも8連勝と走るが、7場所ぶりに出場した貴乃花に敗れるなど後半崩れる。結局平成の大横綱対決はわずか2度に終わった。翌場所は両横綱ら不在の中独走、13日目若の里を強引な外掛けに下して涙の初優勝。翌場所も他を圧倒、14日目ライバルと言われた琴光喜を退けて連続優勝を決めた。14勝での連覇ながら、品行などに問題があると横綱審議委員会では大紛糾となった。結局は好成績が物を言って、まだ若い横綱に今後の精神面の成長を期待しての昇進となったが、問題視された行動もこのころはまだかわいいものだった。 横綱1年目の15年は優勝3回。休場続きの貴乃花、武蔵丸が引退し、大関陣も衰え始めた時期。入れ替わりに大一人者の地位を担うこととなった。この年はモンゴルの大先輩・旭鷲山との確執が大きく騒がれ、土俵上での悪態、反則負け、あわや殴り合いの喧嘩と大荒れだった。しかし16年に入ると黄金時代が始まる。初場所から連続で全勝優勝、35連勝まで伸ばして平成1位の記録。この年は秋場所こそ9勝だったが、5回の優勝。17年はさらに圧倒的。この年も全勝スタートで、黄金の締め込みで臨んだ大阪では27連勝で止まったものの、毎場所優勝を重ねる。関脇琴欧州に脅かされるが、名古屋は並んで千秋楽で競り勝つ。秋は2差をつけられる大ピンチから、追いついて決定戦で返り討ちに。そして九州もトップを走り、14日目魁皇を倒して7連覇と年間完全制覇、そして年間最多83勝の新記録を決めた。この時も土俵上で号泣。18年1月は優勝を逃すも、3月は関脇白鵬に全勝対決で敗れるが、決定戦で雪辱。5月は途中休場で一息つくも、その後綱取りを狙う白鵬の行く手を塞いで3連覇を果たした。 19年は序盤の躓きなど全盛期にはなかった取りこぼしが目立つ。初優勝以後初めて2場所続けて賜杯を逃した。7月は賜杯を奪回したが、直後の巡業を腰のケガを理由に休場しながらモンゴルでサッカーをしている映像が流出。2場所連続出場停止の厳罰を食らう。復帰した20年は不安視する声を打ち消す活躍で、1・3月と2場所連続白鵬と横綱相星決戦、1回ずつ優勝を分けあった。しかし5月の両者の対戦は消化試合となったが、引き落としに這った白鵬に上からダメ押しする形となり、両者が睨み合う醜態。すると7月から2場所連続途中休場とこれまでにない不振。九州も全休し、その間3連覇した白鵬と完全に立場が入れ替わった。調子が上がらず序盤で引退もと注目された21年1月、見事に周囲の予想を裏切る14連勝。千秋楽本割で白鵬に敗れるも決定戦を制し復活優勝。その後3場所終盤の乱調が目立って衰えを指摘されるが、秋場所同じように決定戦を勝って北の湖に並ぶ24回目の優勝。22年の1月にも優勝を飾ったが、場所中の暴力事件が明らかになり2月4日理事会に引退届を提出。引退勧告寸前まで追い込まれていたが、真相解明が難航していた時期であり電撃的な引退発表だった。日本国籍を取得しておらず、外の人となった。のち甥の豊昇龍が活躍。 朝青龍の功績として、数々の大記録もさることながら、相撲界全体の取り口に大きな影響を与えたことが挙げられる。巨漢ハワイ勢の台頭などから平成の相撲界は力士の大型化が急速に進み、突き押し主体のパワー相撲が全盛となっていた。大きな力士に対抗しようと日本人力士も体重増、筋トレに励んでその流れはますます強まり、止まるところを知らなかった。力士の平均体重は10年で10キロ以上増加。そんななかで、モンゴルから来た多彩な技と反射神経を持った横綱が誕生し、巨漢力士を圧倒。スキのないスピード相撲で他を寄せ付けず、力士のウエイト信仰に歯止めをかけたのである。後続のモンゴル、東欧出身力士も大型ではあるが余分な肉をつけず、四ツ相撲を志向する力士が増加。押し出し、叩き込みばかりで大味だった相撲内容が改善されていった。間違いなくその流れを作ったのはこの横綱だと言える。 体重も130キロそこそこの細い体で上位に進出した朝青龍は、モンゴル相撲仕込みの派手な技を決めて沸かせる一方、基本的にはリーチを生かした突き押しでスピードを活かした相撲を取っていた。栃東を流血させた猛突っ張りなど顔に入れる荒っぽい上突っ張りだった。出世とともに取り口が定まり、左四つを得意とするようになる。横綱に昇進してからは体重も増加し晩年は150キロ台にも乗ったが、動きの良さは相変わらず。四つ身の上手さも天才的で相手十分にさせなかったが、ピンチにも左右から鋭い投げや時にはくるりと一回転する離れ技で脱してしまうから、場所前不調が指摘されても星を拾って、あっさり優勝してしまうということが多かった。新横綱の頃は、深く差して外掛けや切り返し、あるいは膝に乗せて吊り落としと激しい相撲が目立った。肘や肩、首に慢性的な痛みを抱えて突き押しは減り、取り口も、相手に合わせて左前褌を狙い、頭をつけて取るコンパクトな相撲も増えていったが、これは白鵬や琴欧洲など右四つの長身力士の登場と無関係ではないだろう。立合いでは両手突きからのどわで圧倒する威力を持ちつつも、主体は左で張って出足と戦意をくじき、四つ身組み止めるパターン。全盛期には胸を出して左差しを狙う余裕も見せた。右四つ相手には自分から左上手を取りに行って主導権を握る。栃東、琴欧洲を一発でKOしたカチ上げという凶器も。奇襲としては、武蔵丸にいきなり潜って足取りを成功させ、稀勢の里を転がした蹴手繰り(当然非難の嵐)もあった。しかし立合い変化は数える程しかなかった。 平成16年1月場所8日目 琴光喜戦 全勝朝青龍と1敗琴光喜の対戦。かつて大関を争った技能派を相手に、簡単にもろ差しを果たした朝青龍。差してを深くして横に食いつくと、切り返すように膝を使って吊り上げ、後ろ向きに土俵中央で叩きつけた。千代の富士が軽量の寺尾に送り吊り落としを見舞った相撲が思い出されたが、相手は150キロ以上ある琴光喜で抵抗しているの状態から有無を言わせず持ち上げたのである。まさに衝撃的だった。敗れた琴光喜もこの場所13勝2敗と絶好調だったが、あまりの屈辱に悔し涙。その後も苦手意識が残り、朝青龍戦は27連敗と天敵中の天敵になる。この場所初の全勝優勝を飾ったが、中でも結果的に優勝を決定的にしたこの一番は、ここから始まる朝青龍独走時代を象徴するハイライトとなった。以後、朝青龍にモロ差しを許したり、横に付かれた相手は、吊り落としを恐れて何とか安全に負けるのに必死のように見えて仕方がなかった。 第69代横綱白鵬 1093勝199敗253休 優45殊3敢1技2金1 相撲界における記録という記録をほぼ塗り替え、平成中期から令和にかけて最強の名を恣にした大横綱。 右四つ左上手の絶対的な型を持つ横綱相撲。寄り、上手投げだけで盤石なのだが、王者らしからぬ技への探究心で、多彩な技も披露した。しかし、いきなりのとったりくらいならともかく、猫騙しや俵まで下がって立つという奇襲、奇手には批判もあった。自ら語ったように型を作って型を壊すという境地に至り、徐々に自然体で自在に展開する相撲に。後年目立ったのは左で張って右カチ上げの合せ技。通称エルボースマッシュ。顔面に上腕から肘を食らわし負傷させることもあって、威嚇的な相撲ぶりへの非難は朝青龍へのもの以上で横審からも改善を求められた。 平成20年1月場所千秋楽 朝青龍戦 2場所出場停止明けながら13勝1敗で相星決戦に持ち込んだ朝青龍に対し、先輩横綱の留守に綱の責任を果たした白鵬が、3連覇をかけて迎え撃つ。右四つがっぷり、1分を超える力相撲となり、体力充実の白鵬がやや優勢。じっくり勝機を待ち、朝青龍が強引な吊りに出て重心が浮いたのを見逃さず、左上手投げで転がした。白熱の引きつけ合いで両者の足が土俵に刻んだ轍は語り草となっている。 第70代横綱日馬富士 712勝373敗85休 優9殊勲4敢闘1技能5金星1 軽量ながら普段の努力で最高位を極めたモンゴル勢第三の横綱。多彩な技とスピード相撲で沸かせるだけでなく、ときに王者白鵬から賜杯を奪い、優勝9回、32連勝の立派な記録を残した。 13年に安馬のしこ名で入門、1年遅く入った白鵬には新十両手前で抜かれたが、十両優勝して3場所遅れで入幕。派手な出世ぶりではなかったが着実に番付を上げ、18年1月には朝青龍の8連覇を阻む初金星。翌場所2度めの技能賞を得て新三役となった。この頃は110キロほどの体格で、抜群の運動神経で小技を駆使しながら力戦する姿が人気。出足を磨いて正攻法で上位にも通用しはじめ、三役に定着。白鵬の太刀持ちを断り、大関を狙うという意思を示すと、19年9月からは3場所続けて白鵬に勝ち殊勲賞。翌20年9月は12勝、11月は13勝で決定戦まで進み、大関に昇進した。殊勲4敢闘1技能5と三賞の常連だった。 不振の朝青龍に代わり、白鵬に対抗する活躍を期待された安馬改め日馬富士は、大関3場所目の21年5月に初優勝。両横綱と三つ巴の争いの末、決定戦で白鵬を破った。しかしその後は9勝程度で先輩4大関共々停滞、1人横綱となった白鵬に独走を許し、膝などの故障にも悩まされた。23年7月、突然復活し14連勝。白鵬の8連覇を阻止。これも単発に終わるが、翌24年9月は白鵬との楽日全勝対決を制す。そして翌場所も勝ち進み、千秋楽1差の白鵬を倒して連覇。大関で連続全勝は双葉山、貴乃花以来。左手首を痛めて突きを減らし、左上手を先に取る相撲を増やしたことで安定。怪我の功名の面もあった。 平成では4人目となる30連勝は新横綱2日目に止まり、この場所は9勝に終わるが、翌場所またも全勝優勝を果たす。白鵬と合わせて4場所連続全勝優勝を記録し、二強時代に持ち込むかと期待されたが、次第に故障が多発し、復調した白鵬に水を開けられる。だが進退を問われるような乱調はなく、不調の場所でも稀勢の里ら大関陣に対しては要所で立ちふさがった。白鵬との相星決戦に勝った25年11月以降はしばらく賜杯から遠ざかったが、27年11月に2年ぶりに優勝。その後は年1回優勝を記録し、優勝回数も二桁に王手をかけた。ところがその翌場所中に、巡業中の酒席で幕内貴ノ岩に対して暴行したことが明らかになり、途中休場。場所後に責任を取って引退した。
全盛期の日馬富士は、「突き刺さる」と形容された低く鋭い立合いの当たりで軽量のハンデを克服。リーチのあるのどわから、張り手混じりの激しい突き押しや、もろ差しに入って前に出る馬力を発揮し、しばしば重量級も圧倒した。格下には、得意の右四つ左で浅い上手を引きつけての寄り、投げの型を駆使して安全に退ける。長身の白鵬らには、小兵時代からの食い下がる形で対抗。出し投げで横に回りつつ、下手投げの連発で崩した。多彩な決まり手も披露。朝青龍を刈り倒し悶絶させた外掛けなどの足技、小技から、送り吊り落としの荒技まで。軽量ながら真っ向勝負を挑む姿勢を評価される一方、過度なダメ押しや張り手で批判を浴びることもあった。良くも悪くも朝青龍の後継者と言える取り口だったが、後年は落ち着いてきて模範的な姿を見せていただけに、終わり方は残念だった。
平成24年7、9月場所千秋楽 白鵬戦 29年ぶりの楽日全勝対決。頭から踏み込むと、先に左上手を取り、左へ回る。白鵬が反撃に出る様を、左上手からの投げで体を入れ替える、すかさず寄せて西土俵へ寄り切った。さらに翌場所も勝ちっぱなし、1敗白鵬とのハイレベルな楽日決戦。やはり勢いよく突き上げたが、右を差されて左上手も届かず、腰を引いて右差しで上手を探り合う形から、左巻き替え。左四つに代わり両者廻しを掴んだが、日馬は下手深く右は浅い上手。右胸に頭をつける形に持ち込んだ。やや肩越しの上手から白鵬が強引に起こしたり足を飛ばしても我慢。圧力に耐えて食い下がると、体勢が悪くなった白鵬は差し手を抜いて抱える。両差しで寄って残すところを下手投げ、残されてもさらに渾身の寄りから下手投げ連発。ついに白鵬倒れ、日馬連続全勝V、最高の形で横綱に推挙された。 第71代横綱鶴竜 645勝394敗231休 優6殊2技7 平成20年代から令和初期にかけて活躍した技能派横綱。優勝6回、横綱在位41場所を記録した。 入門時は体も小さく師匠の井筒が床山にでもしようかと考えたというが、所要4年20歳で十両昇進。1度は跳ね返されるが再十両からは4場所連続9勝し21歳で入幕。地味な足取りだったが、平成20年1月を皮切りに技能賞の常連となる。21年からは上位に定着し、やがて三役定着。130キロ程度の身体にそれ以上を期待する声は多くなかったが、突っ張りも磨いて徐々に本格化。琴奨菊、稀勢の里とのハイレベルな大関取りレースでは遅れを取って5大関の飽和状態となったが、これまで勝てなかった白鵬に連勝。24年春は13勝1敗の首位で千秋楽を迎え、惜しくも逆転優勝を許したが、決定戦でも巻き替えて両差し、白鵬の寄りを凌ぎ切ってあわやと思わせる善戦だった。通算9個目となる三賞を手土産に、史上初めての6大関体制を誕生させた。 横綱昇進後幾分勝率は上がったが、王者白鵬の前に楽日1差で挑むも二度返り討ち。昇進後初優勝は、横綱白鵬が初めて休んだ27年9月。全勝街道を走りながら怪我で急失速した大関照ノ富士に1差をつけての千秋楽対決。本割では不覚を取ったが、決定戦を制し、昇進1年半にしてついに優勝を果たした。その後も毎場所立派な成績とは言い難いものの年1回ペースで優勝していたが、29年は3月の10勝しか皆勤がなく、進退問題が取り沙汰されたが、30年1月は初日から10連勝で危機脱出。さらに翌場所から自身初の連覇を果たした。腰痛などに悩まされて以後も休場ばかりだったが、コンディションさえ良ければそこそこの成績を残し、34歳目前の令和元年7月には6回目の優勝を記録。さらに3場所休場が続いたあと準優勝で一息、しかしその翌場所初日横綱では初の腰砕けの惨敗で負傷休場してから歴代ワースト2位の連続休場となり、横審からも注意。進退かけると明言した3年初、春と新たな故障で休むに至り、場所中に観念して引退を発表した。年寄鶴竜となったが、師匠急逝で途絶えた井筒を受け継ぐのか注目されている。 井筒部屋伝統のモロ差しを継ぐ技能派として注目され、技能賞7回。出し投げの使い手でもあった。巧さに加えて、突っ張りで前に出る力を磨き、躍進した。時に欠点にもなったが、史上10位の横綱在位を支えたのが、引き技。引き足素早く、土俵際の回り込みが秀逸で、何度も危機を脱するうちに苦しい休場明けでも優勝争いに残ることができた。最終的には目方も160キロまで増えて、右四つの型が決まり、心技体のバランスの取れた横綱となった。本格的な技能相撲で、大技小技に走らなかった。そのため、休場こそ多かったが致命的な故障なく35歳まで地力を保つことができたのだろう。 平成26年3月場所14日目 白鵬戦 突っ張って出た鶴竜。白鵬も応戦しつつ廻しを探るが、鶴竜は徹底して離れて取る。そして機を見て左で前ミツ、右も差して肘を張って上手を遠ざける。ここが勝機と引きつけて寄り続け、ついに白鵬土俵を割った。単独首位に浮上、千秋楽は得意のモロ差しで琴奨菊を退け、初優勝と横綱を手中にした。
第72代横綱稀勢の里 714勝453敗97休 優2殊勲5敢闘3技能1金星3 モンゴル帝国全盛期、貴花田に次ぐ若年入幕を果たして日本勢の希望の星と騒がれた大器。四股名と裏腹にその後の出世は緩やかでヤキモキさせたが、双葉山に迫った白鵬の連勝記録を阻止。大関昇進後も度々優勝の機会を逸していたが、悲願の初優勝を果たし19年ぶりの和製横綱に推挙された。
入門3年目となる平成16年1月、17歳で幕下優勝を果たし一躍名を上げ、翌場所新十両を決めた。これもわずか3場所で突破し、11月場所で18歳3ヶ月にして新入幕。本名の萩原から出世ぶりになぞらえた四股名に改名。2mの巨人琴欧州との出世レースは、誰もが貴花田と曙のライバル関係を期待した。ところが、瞬く間に大関に駆け上がった琴欧洲に対し、その勢いは緩やかになる。17年9月、初優勝目前の琴欧洲に土をつけ12勝で初の敢闘賞、その後上位に定着し10代での三役昇進も果たすが、ここから停滞。小結で何度も勝ち越しはするが、新関脇は21年春までかかった。大物食いや平幕での大勝ちはするが、取りこぼしが多くて好成績が続かず、大関取りへの起点も作れない。だが、平幕に落ちた22年11月2日目、この場所中にも双葉山の69連勝を更新しようという白鵬に対し、猛攻を加えて寄り切り。翌場所にも白鵬を破ったが、いずれも同場所白鵬唯一の黒星で、稀勢戦がなければ100連勝を超えている。のち、白鵬自身2位の43連勝も止めている。ようやく二桁が続くようになり、翌年11月場所後に大関に推挙された。 すでに25歳。白鵬に対抗できる唯一の存在との声とは裏腹に、大関時代には、大横綱が天敵となった。大関3場所目、一時2差の首位に立つが、絶不調の白鵬に敗れて後続に追いつかれ、絶好機を逸す。25年5月は13戦全勝同士でぶつかるが、熱戦の末投げに屈す。翌年5月も12日目の相星対決に敗れ、1差で逃げ切られる。27年1月は2差で追う13日目、取り直しの末に史上1位33回目の優勝を献上。28年3月は10連勝スタートも直接対決で並ばれ、1差競り負け。翌場所12戦全勝同士の相星決戦も、返り討ち。悉く優勝のチャンスを阻まれた。安定して二桁勝ちながら、日馬富士、鶴竜に先に横綱昇進を許し、モンゴル3横綱包囲網を前に、白鵬を破った時に限って自身も星を落として賜杯に一歩届かない。それでも28年は年間最多勝を記録し、年が明けた29年1月、横綱戦を前に14日目で初優勝を決めると、安定感も評価されて横綱に推挙された。 新横綱の3月は、全勝で迎えた13日目に日馬富士の出足に圧倒され、左の肩、胸の筋肉を切った。翌日も相撲にならず連敗、照ノ富士に逆転を許したが、千秋楽直接対決二番で奇跡の逆転優勝。貴乃花を彷彿させる強行出場で感動的な連覇を果たした。だがやはり無理が祟ったか、翌場所から途中休場、全休を繰り返し横綱ワースト8場所連続休場。翌年9月は10勝したものの、続く11月初日から4連敗、30年1月も3連敗と横綱ワーストの連敗を記録して遂に引退に追い込まれた。程なくして荒磯部屋を興した。
稀勢の里の相撲は、始めは馬力一辺倒。体力を活かした突き押し、または左四つの寄りで前進する。ハマれば圧勝するが、足が長いので腰高は否めず、ワキの甘さも目立った。強引に出て詰めを誤り逆転負けも多かった。次第におっつけの威力に磨きがかかり、特に左の攻めは絶品で、一発を白鵬を小手投げ気味に振り飛ばしたほど。一方で左四つなのに左おっつけが得意というのはジレンマで、押し上げてから左差しを果たせば最高だが、左右外から攻めるのでモロ差しやすい。すぐに左を差すと、右から攻める必要があるが、割り出しを決める力もあるものの、あまり鋭い技はなく、左半身になりがちだった。大関になってからは、左さえ入れれば重さでしのいで徐々に形を作るだけの守りの強さが目立ち、怒涛の出足を披露する機会は減ったが、脇の甘さ、詰めの甘さを露呈しなくなった。股関節が柔らかく、土俵際粘っての突き落としは強烈。自身の危機を何度かこれで乗り切っている。大関時代まで休場はわずか1日という頑丈さだったが、徐々に下半身の小さな怪我が出て、腰が入りやすい嫌いもあった。そして最大の武器である左腕が利かなくなると、全体に変調をきたした。
平成22年11月場所2日目 白鵬戦 平幕だった稀勢の里。先場所は千代の富士超えの54連勝目を献上。この場所は早くも2日目に顔が合った。無敵白鵬の攻めに真っ向から挑み、張り手にも耐えて凌いで左を差し勝ち、右上手。振られても惹きつけて回しを離さず、遮二無二に寄る。横綱も踏ん張るが、稀勢の馬力の前に不得手の形で如何ともしがたく、足を入れたり抵抗するも、あれよあれよという間に正面土俵に寄り切った。大殊勲の星は、停滞を脱するきっかけとなり、一方で日本勢の希望を一身に背負う土俵人生を決定付けた。
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