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二所一門 出羽一門 立浪一門
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江戸時代から続く角界の盟主的存在だった出羽海部屋。明治期に常陸山が出て人気沸騰、出羽海を継いでから本格的に栄光の時代が始まる。大正、昭和初期にかけては質量共に独走した。戦後は勢いが衰えるも相変わらずの存在感を発揮していたが、三重ノ海を最後に横綱は出ていない。さらに平成期には衰退が著しく、100年続いた幕内力士が途切れ、ついには関取もいなくなった。 長きにわたって分家独立を許さず、一門は春日野と三保ヶ関との3部屋体制が続いていたが、三重ノ海が武蔵川部屋を興してからはそれぞれ分家ラッシュが起きて分散。本家凋落の一因となった。
横綱 常陸山、大錦、常ノ花、武蔵山、安芸ノ海、千代の山(優6)、佐田の山(優6)、三重ノ海(優3) ■四股名の特徴・その他 大錦、両国、桂川という伝統の四股名を持つが、襲名例は少ない。 昔から「出羽」を冠する四股名が代表的。先代は自身の四股名から「佐田」も併用していたが、現在は分家した長崎出身の境川の部屋で「佐田」が引き継がれている。今の師匠の現役名から「小城」をつける力士も。 常陸山にならって「出身地+山」の四股名が多く、横綱だけでも栃木山、武蔵山と同じ形。山をつける四股名が角界全体で一般的になった。戦後も佐田の山、千代の山と続いた。「出身地+海」も安芸ノ海、三重ノ海と出て、すっかりスタンダードになっている。 佐田の山の出身地、長崎に強みがある。両国、金開山らもこの地から。
江戸期に始まる歴史 寛政末期に出羽ノ海部屋を興したのが出羽海が始祖とされる。2代で幕を閉じたが、50年余のブランクを経て幕末に元常陸山・桂川が再興。以来絶えることなく続いている。維新の時代をしぶとく生き残り、明治20年代半ばに元前頭筆頭の常陸山が継承。彼の時代に大きく開花する。横綱常陸山を擁して東京相撲は黄金時代を迎えた。 角聖の黄金時代 力士としても頂点を極めた角聖・常陸山だったが、出羽ノ海となっても実力を発揮。大正期の土俵は出羽ノ海部屋が席巻し、片屋を独占する勢い。上位にも大錦、さらに栃木山が席巻した。常陸山の死後出羽ノ海を継承したのは、小野川部屋を興していた元小結の両国。合併し、部屋を現在の「出羽海」と表記を改め 打倒双葉に燃えるも時代の逆風 横綱常ノ花が引退後に継承、相変わらず多くの幕内力士を抱えていたが、時代は玉錦から双葉山へと他の一門の横綱がリード。昭和7年の春秋園事件で名大関大ノ里と将来を嘱望された関脇天竜らが離脱。多くは復帰したものの打撃を受けて、横綱に昇進した武蔵山も故障で満足に務められなかった。早大卒の笠置山を参謀格に、部屋がかりで打倒双葉の策を練り、遂に大願を成就させたのは新鋭・平幕安芸ノ海。69連勝をストップさせた伏兵は、一気に横綱へ駆け上がった。しかし、相変わらず陰りを見せない双葉山、さらに羽黒山を出した立浪勢に戦前戦後は実績で圧倒された。空襲で気鋭の関脇豊嶌を失い、安芸ノ海も体調を崩して負け越すなど散々だった。 理事長常ノ花 理事長が定められてから、初めて力士出身者として就任した常ノ花の出羽海。戦後、相撲界は新たな時代の洗礼を浴びる。屋外興行など会場確保さえ困難で、21年夏は中止を余儀なくされた。難局に立ち向かってきた出羽海理事長だったが、国会で経営体質を問われてついに参ってしまい、割腹自殺を図る。一命は取り留めたが、職を辞した。戦後の出羽海部屋を支えたのは、昭和20年に新入幕で全勝した千代の山。猛烈な突っ張りを武器に期待に応え横綱まで上り詰める。20〜30年代に渡って息長く活躍した出羽錦も印象的だ。 武蔵川理事長の出羽海時代 国会の答弁で名を挙げた元幕内出羽ノ花。年寄としての能力を買われ、並み居る名力士を抑えて常ノ花没後に後継者となる。千代の山は引退したが、続いて佐田の山を横綱に、北の冨士を大関に育てる。ところが、ここで遺恨が起きた。後継は千代の山の九重が既定路線だったが、佐田の山が横綱に昇進、さらに師匠の娘婿となったことで状況が一変。ならばと独立を訴える九重、しかし独立を許さない伝統もある。苦渋の決断として、独立を認めた上で破門とした。北の冨士が流出するなど痛恨の事件だった。当時大鵬に継ぐ優勝回数を記録した佐田の山だが、継承の件もあってか43年に突然引退し出羽海となる。先代は武蔵川に戻って理事長となった。 佐田の山の長期政権 30歳にして屈指の名門を任された元佐田の山の出羽海。多くの力士がいながらなかなか強豪力士は生まれなかった。新入幕で三賞独占し期待された大錦も伸び悩んだ。台頭したのはあまり期待されなかった三重ノ海。50年に大関となり、54年に横綱昇進。引退後は武蔵川を襲名し、独立が認められた。自らの襲名時の混乱を教訓にして不文律を破り、以後部屋からは独立が相次ぐ。本家の層が薄くなる心配があったが、平成に入ってそれが現実となる。三重ノ海の後は出羽の花、佐田の海、両国、平成に入って小城兄弟にアマ相撲界の怪物久島海、技のデパート舞の海と名力士は出るが小粒感は否めず。 鷲羽山、小城ノ花が継承 理事長となった佐田の山は、運営に専念するため部屋を元関脇鷲羽山に譲り渡した。小兵ながら50年代前半には三賞常連だった名関脇である。ところが業師の指導もむなしく、平成11年には101年ぶりに幕内力士がいなくなった。その後小結普天王が活躍するも意外に早く衰えて後も続かず、22年には112年ぶりに関取不在の憂き目に。その後閉鎖した田子ノ浦から弟子を譲り受け、26年からは停年に伴って部屋付の高崎(元幕内小城ノ花)が継承した。 救世主現る 26年、出羽疾風が十両になって関取復活。翌年には10枚目格付出で御嶽海が入門し、一気に番付を上げて三役定着。30年7月を制して部屋勢では三重ノ海以来38年半ぶりの優勝となった。
御嶽海はなかなか安定せず大関に手が届いていないが、期待がかかる。ただ、これに続く力士が出てくる気配がないのが気がかり。
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