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伊勢ケ濱部屋
(前安治川部屋)
所属
伊勢ケ浜
改称
平成19年
現師匠
旭富士
前師匠
(清国)
開祖
(清瀬川)
勢力
 C
実績
 B
伝統
   A


概略

 伊勢ヶ濱部屋は昭和初期から続く老舗で、横綱照国らが輩出して一門の看板だった名門。戦後は立浪一門と連合していたが、平成に入って衰退著しく、後継の目処が立たず閉鎖となっていた。

 一方、安治川部屋は宮城野部屋で活躍した陸奥嵐が引退後所属していた友綱部屋から独立して誕生。元旭富士が継承していたが、名跡変更に伴い、「伊勢ケ濱部屋」に改称。その後横綱日馬富士が誕生するなど名門復活を果たした。紆余曲折を経て、一門名も伊勢ケ濱一門となっている。

 安治川部屋が母体となっており、すでに伊勢ケ濱部屋は断絶しているが、名跡変更の経緯から同部屋の歴史を引継ぐものとみなしている。

主な力士 (赤は現役。優は優勝、三は三賞、金は金星。()は旧伊勢ケ浜時代、★は安治川部屋時代に在籍)
        ※前伊勢ケ濱部屋力士は三役以上のみ記載

 横綱 (照国(優2))、日馬富士(優9)
 
大関 (清国(優1))、
 関脇 (播瀬川、備州山(優1)、開隆山(殊3金8))、
安美錦(殊4敢2技6金8)、宝富士(敢1金3)
 小結 (若瀬川、黒瀬川)
 幕内 ★春日富士、安壮富士、誉富士

 
十両 ★陸奥北海、

四股名の特徴・その他

 師匠旭富士から、「富士」をつける力士が多い。富士だけだと他の部屋にも多いので、宝富士、誉富士のように「3音(できれば一文字)+富士」という師匠と同じ形を取って独自性を持たせている。伊勢ケ浜の伝統を意識してか、「照」の字を冠するケースも出てきた。
 安治川部屋の時代、先代は現役名陸奥嵐から「陸奥」を取ることが目立ち、現師匠は部屋名から「安」を多くの力士につけた。安美錦がその名残を残しているが、伊勢ケ濱への改称を期に関取以外は一斉に「安」を外し、改名ラッシュとなった。大関日馬富士も関脇までは安馬と名乗っていた(同期の安虎は、虎の山に改名)

 旧伊勢ケ濱では、開祖から「〜瀬川」や「清」が伝統的によく使われていた。横綱照国が師匠の時代は、「照」や「国」も使われた。清国が師匠となってからは「清」が目立ち、独立した黒瀬川の桐山部屋が「〜瀬川」を引き継いでいた。

 部屋の宝富士、誉富士は、ともに五所川原から近畿大学という師匠と同じルートを歩んでいる。親戚の安壮富士、安美錦も含め、青森県出身者が多い。 

■歴史

横綱照国で躍進  昭和初期に熊ヶ谷から楯山部屋に移った清瀬川が引退後に創設。戦中には照国が横綱昇進、備州山が非公開7日興行の場所ながらも優勝。混乱の時代にあってなかなか優勝出来なかった照国だが、25年に悲願の初優勝を飾っている。その他戦前から30年代なかばまで息長く活躍した若瀬川などを擁し、一気に大きな勢力となった。

荒磯部屋を経て復活  照国は28年に引退し荒磯を襲名するが、伊勢ケ濱はこれに部屋を任せたため一時部屋は荒磯部屋と改められた。近年では武蔵川から藤島へ継承したケースと同じである。その後伊勢ケ濱が停年となった際に荒磯が名跡を取得し、再び伊勢ヶ濱部屋に戻された。照国は師匠として、新大関優勝した清国、新横綱キラー開隆山、浅瀬川らを育てた。清国は49年に引退したが、52年に照国が急逝し、伊勢ケ濱部屋師匠となった。

徐々に衰退、閉鎖へ  清国が師匠となってからは、小結黒瀬川やのち世話人となった斉須、若くして出世して期待された若瀬川、スロー出世の神幸が出てきたが、平成に入って関取が途絶えるようになった。清国の甥の玉乃島兄弟が入門しなかったのが惜しまれる。弟子も少なくなった状態で清国の停年が近づいたが、後継者の擁立が難航。結局は部屋付きの元幕内和錦・若藤に譲ったが、彼もすぐに停年を迎えてしまい、ついには継承できずに閉鎖。力士らは桐山部屋などに移籍した。桐山は元伊勢ケ濱部屋の黒瀬川だが、独立後本家と疎遠になっていたことや、桐山部屋自体も間もなく朝日山部屋に吸収されたように運営が厳しくなっていたことから、継承は難しかった。昭和を代表する名門は寂しい終末を迎え、「立浪・伊勢ケ濱連合」も「立浪一門」と改称することになった。

 

安治川部屋  昭和54年に元関脇陸奥嵐が友綱部屋から独立、安治川部屋を興した。陸奥嵐は東北の暴れん坊と恐れられた豪快な相撲で鳴らした宮城野部屋の力士で、一時は部屋を継承するものと見られていたが、諸般の事情で引退後は移籍していた。小部屋とあってなかなか関取は誕生しなかったが、平成2年に閉鎖した春日山部屋が合流し幕内春日富士を抱える。しかし師匠は健康上の理由で突然廃業、引退したばかりの元横綱旭富士が後継者となった。

活性化し伊勢ケ濱部屋へ  春日富士の後はなかなか関取が出て来なかったが、師匠の親戚に当たる技能派の安壮富士、安美錦兄弟がそろって幕内に。横綱貴乃花最後の相手となって一躍名を上げた安美錦は、再三上位を食う曲者として活躍、膝の怪我に苦しんだが30歳近くになって本格化、モンゴル出身の小兵・安馬とともに三役に名を連ねるようになった。活性化してきた19年に突然伊勢ケ濱襲名が発表される。清国の望んでいた名門にふさわしい後継者にようやく辿り着いた。

日馬富士が横綱に  20年の九州で安馬が大関昇進を決め、日馬富士と改めた。改名時には伊勢ケ濱部屋の名力士の四股名も候補に挙がったという。翌年には伊勢ケ濱部屋に清国以来40年ぶりの賜杯をもたらし、24年には連続全勝の快挙で横綱に昇進した。土俵入りは師匠旭富士譲りの不知火型で、吉葉山の流れをくむ宮城野の白鵬とともに史上初めて不知火型の横綱が並び立った。一門から立浪が離脱して、一門名に伊勢ヶ濱の名が復活。見事に名門復活を果たした。

照ノ富士が大関に  日馬富士は軽量で故障がちながらも意外に長く綱を張り、優勝も9回を数えた。さらに、同郷の先輩横綱である二代目若乃花の間垣部屋閉鎖に伴って移籍してきた照ノ富士が27年5月場所を制して大関へ。ベテラン安美錦も相変わらず上位で活躍。大卒の宝富士も力をつけて関脇に。全盛期を迎えていたが、暗転。安美錦はアキレス腱を切って十両転落。29年には照ノ富士は故障で陥落、日馬富士は貴ノ岩への暴行が発覚して大騒動になり、引退に追い込まれた。師匠も理事を引責辞任することとなった。

 

■現状・展望

 安美錦はよく再起して敢闘賞を獲得し40歳の関取となったが、ついに限界が来て引退。照ノ富士は両膝にメスを入れて序二段まで落ち、一時5人いた幕内力士も宝富士1人に。照ノ富士は復帰後急速に番付を戻しており、どこまで復活できるか。(令和元年9月)

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