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部屋一覧
二所一門 出羽一門 立浪一門
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かつて井筒部屋で活躍した元関脇鶴ヶ嶺が名跡を取得、創設していた君ヶ浜部屋を改称して復活。井筒三兄弟を関取に育てた。次男逆鉾が継承後は低迷していたが、鶴竜を横綱に育て上げた。 井筒部屋は明治から続く伝統ある部屋で、開祖は横綱初代西ノ海。3代目の死後、一時途切れて双葉山道場に合流したのが縁で時津風一門に入る。再度独立した元幕内鶴ヶ嶺の井筒が47年に亡くなると、お家騒動が勃発し部屋は二分されてしまう。元関脇鶴ヶ嶺が独立し君ケ浜部屋を興し、元幕内星甲が井筒を継いだが49年に名跡変更し陸奥部屋となった。その後鶴ヶ嶺の君ケ浜が名跡を取り戻して井筒部屋と改称して現在に至る。 ■主な力士 (赤は現役。優は優勝、三は三賞、金は金星)
横綱 (二代西ノ海、三代西ノ海)、鶴竜(優6) ■四股名の特徴・その他 現在は、先代の四股名「鶴ヶ嶺」から「鶴」の字を使うことが多い。先代の時代には「嶺」も何人かいた。 鹿児島にルーツがあり、先代もその出身。現師匠ら井筒兄弟は東京生まれ東京育ちだが、父の故郷鹿児島を出身地としていた。大関霧島などお膝元出身力士が多かったが、近年はその強みは薄れてきた。 井筒兄弟は、父方が鶴ヶ嶺ほか何人か力士が出ている福薗家、母方を辿れば西ノ海に行き当たるサラブレッドであるが、その強い血縁も当代までか。 ■歴史 西ノ海三代 井筒部屋を興した初代西ノ海嘉治郎は明治中期に活躍した16代目横綱。初めて番付面に「横綱」の地位で書かれたことで知られている。高砂部屋から独立して井筒部屋を興す。同郷の2代目は長身力士で地味な横綱だったが無敵を誇った太刀山を破ったことが有名。師匠となってからは、三代目西ノ海のほか大関豊国ら多くの力士を育てていたが、自殺してしまった。 道場への合流と再興 三代西ノ海や豊国は引退後独立し、いずれも早逝。元幕内の星甲が継承したが、これも戦時中に若くして亡くなってしまった。力士たちは当時多くの力士が合流していた双葉山道場に合流することとなり、一旦井筒の歴史は途絶えた。しかし戦後、元幕内鶴ヶ嶺の井筒が双葉山道場改め時津風部屋から独立して再興。以後は時津風一門の部屋となる。 陸奥と君ケ浜に分裂 独立後、技能賞10回の名関脇鶴ヶ嶺らが輩出して復活の兆しの見えた井筒部屋だったが、再び消滅する。47年にまたも師匠が死去し、元幕内星甲が後継となったが、その際功労者の関脇鶴ヶ嶺は幕内力士を含む数名を連れて君ケ浜部屋として独立。星甲の井筒も名跡変更して陸奥部屋と改めた。宙に浮いた井筒株は、高砂一門に入った九重部屋の横綱北の富士が取得。引退後独立したため、他の一門に井筒部屋を名乗られることとなった。 モロ差し名人の井筒部屋 52年に九重が急死し、北の富士の井筒が部屋を合併して継承することとなった。ここぞと君ケ浜部屋を率いていた元関脇鶴ヶ嶺は名跡交換を行い、部屋を井筒部屋と改める。系統的には陸奥部屋が本家を継いでいるが、名乗ってしまえばこちらが本家の井筒部屋。その歴史を引継いで、入門した息子たちに伝統の逆鉾、源氏山(のち寺尾)を名乗らせた。期待に応えて井筒3兄弟は揃って関取に。長男鶴嶺山は、残念ながら十両に留まったが、次男逆鉾と三男寺尾は同時に関脇を務めるなど昭和末期から平成にかけて活躍。父譲りのモロ差しの妙技も伝わっていた。これにつられるように他の力士も伸びていき、60年代にはかなりの勢力となった。逆鉾、寺尾は三役に定着しながらついに届かなかった大関を、遅咲きの霧島が31歳にして射止める。平成3年には豊国以来60数年ぶりとなる幕内優勝を果たすなど、横綱不在の土俵を盛り上げた。 鉄人の活躍 逆鉾は平成4年に引退し、部屋付を経て6年に定年退職の父に代わって井筒を襲名した。弟の寺尾は息の長い活躍を見せ、平成14年まで土俵を務めて抜群の人気を誇った。しかし鉄人と呼ばれた突っ張りの大ベテランに続く力士はなかなか現れず、突っ張りの小兵力士・安芸ノ州くらいだった。そして寺尾が引退するとついに関取が途絶えてしまった。 横綱鶴竜 関取が復活したのは17年11月、モンゴル出身の鶴竜。師匠のモロ差しと寺尾の突っ張りを併せ持つ技能派としてならす。錣山部屋の豊真将との対戦は、師匠が実の兄弟とあって注目を集めた。周囲の期待を上回る成長を見せ、24年には大関、26年には横綱に昇進。横綱になっても地味な存在で、故障休場も多く度々進退危機と叫ばれながらもしぶとく復活。通算6回の優勝を果たしている。 師匠急逝で閉鎖 横綱を擁しながらも新弟子が入らず、弟子はわずか3人となっていたが、令和元年九州場所中に元逆鉾の井筒が死去。鶴竜らは一門の理事である鏡山部屋に一時預かりの扱いで場所を終え、場所後に系列の陸奥部屋へ引き継がれることになった。 ■総評 1977〜2019 本稿では一系のものとして歴史を紹介したが、実質的には元関脇鶴ヶ峯、逆鉾親子による井筒部屋の時代を一区切りとして総評する。見事みな関取となった井筒三兄弟の時代が最も関取が多く華やかで、平成初期にかけて大関霧島ら鹿児島勢が躍動した。次男逆鉾は悲願の大関に届かず早くに引退し、部屋を継承。三男寺尾が長く現役を張ったが、後に続く力士が出てこず衰退。そこへ掘り出し物ともいえる鶴竜が登場して横綱にまで育てたのは見事だった。しかし、霧島が陸奥を継ぎ、寺尾が錣山部屋を興し、と分散したこともあって弟子の数は伸びず、後年は小部屋に甘んじた。両差しなど、鶴ヶ峯の技能を脈々と引き継いで欲しかっただけに閉鎖は残念だが、いずれ別系統でも伝統ある部屋が復活することを待ち望む。寺尾の錣山は前々年に一門を離れており、後継候補から外れ、吸収先が元井筒の霧島の部屋とはいえ、因縁の陸奥部屋というのも奇縁である。 (令和元年12月) |