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三保ヶ関
部屋
所属
出羽海
昭和25年(再興)
 〜平成25年
現師匠
二代増位山
  開祖
増位山
実績
 A
伝統
 A


概略

 大横綱北の湖や親子二代大関らを擁し、昭和後期の相撲界に君臨。戦後数年間の出羽海部屋預かりを経て復活した、大阪相撲時代から名高い伝統の部屋である。しかし後継者不在のため惜しまれながらその歴史に終止符が打たれた。

主な力士 (赤は現役。優は優勝、三は三賞、金は金星。)

    横綱 北の湖(優24)
 
大関 二代増位山、北天佑(優2) その他大阪相撲では大関数人
 関脇 闘竜、阿覧
 小結 播竜山、濱ノ嶋
 幕内 増巳山、大竜川、大位山、吉王山、肥後ノ海、※把瑠都(尾上へ移籍、のち大関)

四股名の特徴・その他

   師匠の四股名から「増」をつける力士もいるが、出身地などから取った四股名が多い。

  先代、当代と絵画の腕には定評があり、当代は演歌歌手としても有名。北の湖も陶芸で精神修行をしたりと、芸術との縁が深い。

■歴史

大阪相撲の雄  東西合併前は大阪相撲の有力な部屋だった三保ヶ関。8代続いたが、戦後間もない21年に師匠が亡くなると出羽海部屋に合流して一旦途絶えた。三役だった増位山もこの時移籍している。その後大関となった増位山、優勝も飾って横綱間違いなしと期待が高まったがケガで頓挫、あっけなく引退してしまった。のちに現役復帰を示唆して騒動となるなど、かなり余力があったようだ。

大関増位山が再興   突如引退した増位山は、昭和25年に内弟子を連れて独立。かつて所属した三保ヶ関部屋を再興した。出羽海部屋では分家独立はご法度だが、三保ヶ関については一時的に預っているという解釈だったようである。元三保ヶ関部屋で幕内力士となった増巳山がその後唯一の関取として初期の部屋を引っ張った。しかし後続が出ず、増巳山も十両暮らしが長く部屋の隆盛には時間がかかった。

40年代の躍進   昭和40年代になってようやく生え抜き関取が育ってくる。敢闘賞2回の曲者大竜川、10代関取吉王山らが幕内力士となった。40年代後半には、スピード出世の師匠の息子・二代増位山、最年少記録を更新する北の湖とホープが出てくる。そして49年、北の湖はあっという間に横綱に昇進した。

大横綱と2大関  50年代を通じて横綱に君臨した北の湖は、輪島との二強時代を経てやがて独走体制。後半は故障がちで失速するが、24回の優勝を果たした。不沈艦と呼ばれた重鎮を擁した三保ヶ関部屋。北の湖と同期の増位山は鮮やかな技能を発揮する小兵力士という位置づけだったが、54年に突然三役で活躍、31歳にして史上最年長の大関昇進となる。史上初の親子大関が誕生した。増位山は在位7場所で引退したが、続いて大器北天佑が登場、58年に大関となる。

二代目師匠へ   長い時間をかけて部屋を隆盛に導き、まさにこの世の春を迎えた三保ヶ関だったが、59年に死去する。すでに引退して小野川を襲名していた二代目増位山が継承した。実績では現役の北の湖が圧倒的だが、大横綱には一代年寄を贈られることが濃厚とあって独立が既定路線であった。60年に北の湖が引退し北の湖部屋を創設。大関北天佑に期待がかかったが、優勝2回を飾ったものの綱取りはならず。未完の大器はついに覚醒せず、平成2年に引退してのち二十山部屋を興す(18年に早逝し北の湖部屋に吸収される)。関脇にも昇進し息長く活躍した闘竜も同時期に引退した。

日大出身力士の時代   北天佑以後は静かになってしまった三保ヶ関部屋だが、学生力士に活路を見出した。名門日大で実績のある濱ノ嶋、肥後ノ海らが相次いで幕下付出でデビュー。地味ながらもたまに上位を苦しめ、長く活躍した。彼らは引退後、名スカウトとして学生相撲界や外国から有望株を入門させた。その一人が当時平幕の把瑠都だったが、それぞれ独立の道を選んで内弟子として移籍してしまった(木瀬、尾上)。

ドーナッツ化現象、閉鎖へ   元々それほど大きな部屋ではなかったが、国技館開設後に4つも分家が出た。分家はそれぞれ発展した一方で、本家は最高時なみの弟子数に縮小してしまった。平成以降中卒で叩き上げの関取は育たず、他の部屋同様学生と外国人に頼る状況。把瑠都の移籍後、空いた外国人枠で入門した阿覧が一気に関脇まで昇進したが停滞。師匠の停年にともなって他の力士同様春日野部屋に移籍したが、数日で引退を発表した。平成25年は二所ノ関部屋や放駒部屋など名門の閉鎖が相次いだこともあり、継承問題の大きさが浮き彫りになった。井筒が九重を、藤島が二子山を、若松が高砂を、それぞれ独立した弟子が吸収合併して本家を残すケースがあったが、近年ではそれが難しくなっているようだ。

 

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