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部屋一覧
二所一門 出羽一門 立浪一門
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昭和中期に大繁栄した一門の総本家。小部屋から玉錦の登場で一躍名を挙げ、戦後大鵬を生んでその地位を不動のものとした。 出羽海部屋とは対照的に分家独立を奨励。花籠、佐渡ヶ嶽、片男波などのちの名門が競い合って一門を活性化した。 しかし分家が反映する一方で昭和後期からは勢いが衰えていき、ついに関取ゼロ。黎明期以来の小部屋に甘んじている。
横綱 玉錦(優6、二枚鑑札)、大鵬(優32) ■四股名の特徴・その他
近年は大徹、大善ら「大」のつく四股名の関取が目立つ。
分家に伴う移籍騒動が頻発。確かに逃した魚は大きかった。若乃花、琴ヶ濱、玉の海、巨砲... 部屋を継ぐ師匠が若いのも特徴。3代続けて二枚鑑札で現役中から部屋を任され、現師匠は後継争いもあって27歳で引退し後を受けている。 創始者は関脇海山 旧友綱部屋の関脇だった2代目海山太郎(初代は師匠)は、引退後の明治41年に独立。大正期には目立った力士は出なかったが、昭和に入ると玉錦が台頭し大関となる。しかし活躍を重ねながらもなかなか横綱の声はかからず、昭和7年にに昇進したときはすでに師匠は亡くなっていた。玉錦らは粂川部屋に預けられていた。 幻の大横綱玉錦 師匠から大いに期待されて一時は出羽海部屋で武者修行もしたホープ。実力抜群ながら品格面の問題と小部屋の不利から大関、横綱への昇進は露骨に見送られていた。そのため横綱昇進時にはかなり年を食っていたが、持ち前の気迫で全く衰えず。空位となっていた横綱に君臨し無敵の強さを誇った。春秋園事件にも動じなかったことから信頼も厚く、二枚鑑札で二所ノ関を襲名すると、現役のまま部屋を再興して後進の育成にも尽力した。双葉山に敗れて覇者交代を許し、復権に燃えていたが腹膜炎に倒れて帰らぬ人となった。 関脇玉ノ海の奮闘 師匠急逝の後を受けたのは関脇だった玉ノ海。大関の力がありながら、二枚鑑札の苦労もあって果たせなかった。昭和20年に引退して年寄専属となるが、戦犯容疑で逮捕されるなどのトラブルがあり廃業。時代にも翻弄された不運な相撲人生であったが、解説者として長年活躍した。 大関佐賀ノ花時代の栄光 26年に部屋を継いだのは、玉ノ海の弟弟子にあたる佐賀ノ花。戦中には優勝も果たして大関となり、この年陥落していた。翌年引退して部屋運営に専念。大ノ海、琴錦、玉乃海ら名脇役を育て、彼らは内弟子を育てて引退後独立していった。大ノ海の花籠部屋からは平幕時代まで所属していた若乃花が横綱、琴錦の佐渡ヶ嶽からは小結まで在籍した琴ヶ濱が大関にになって先を越されてしまったが、昭和30年代半ばに横綱大鵬が誕生して本家の威厳を示す。大鵬は32回の優勝を誇り、師匠も名伯楽の評を得た。40年代には大麒麟が大関に昇進。一門からも、玉乃海の片男波部屋から玉の海、佐渡ヶ嶽から琴櫻、花籠からは輪島と3横綱が続き、大いに繁栄した。 押尾川の乱――二所ノ関承継紛争 一門での繁栄は分家独立を奨励した結果として讃えられ、不寛容から勢いの出ない出羽海に差をつけたとされたものの、独立時には弟子の移籍を巡る紛争が起きて必ずしも良い関係ではなかった。そして50年に佐賀ノ花の二所ノ関が亡くなると、後継者が定まらず大混乱に陥る。大鵬は一代年寄として独立していたが、返上して継承も検討。大鵬に継ぐ実績の元大関大麒麟の押尾川。さらに優勝を飾った金剛が先代の婿となって急浮上。これに対して押尾川は16人もの弟子を連れて先代の墓所に立て籠り独立を主張。事実上の二所分裂を図って大騒動になった。結果的に青葉城ら6人だけが移籍を認められたが、騒動で幕内天龍が廃業するなど暗雲が立ち込めた。 長い衰退期 佐賀ノ花死後を一時的に継いだ元十勝岩を経て、元金剛が継承。その後35年あまり師匠として率いているが、育った関取の数は少なく、大鵬時代の繁栄は取り戻せなかった。昭和期は先代からの弟子である関脇麒麟児や小結大徹が息の長い活躍。平成の大善もやはり長きに渡って活躍したが、晩年に金星を挙げたのが平成の二所ノ関部屋最大のニュースではあまりに寂しい。大善引退後は関取不在が続いており、他の一門総帥同様苦戦が続いている。
24年現在、部屋付きは3人、弟子も3人で幕下力士もいないという惨状。 師匠停年も近づいているが、部屋付の北陣(麒麟児)、湊川(大徹)、富士ヶ根(大善)から選ばれるのだろうか。
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