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貴乃花部屋
(前二子山部屋)
所属
貴乃花G
創設 平成16年
(昭和37年独立)
現師匠
貴乃花
前師匠
貴ノ花
開祖
若乃花
実績
 AA
伝統
 C


概略

 人気横綱若乃花が花籠から独立して開いた二子山部屋。数々の2横綱2大関が誕生し一代で名門に。停年時に、実弟・大関貴ノ花が興した新進気鋭の藤島部屋と統合した。巨大勢力となった二子山部屋を継承した元貴ノ花は、二人の息子を横綱に育てるなど一時代を築いた。引退後一代年寄となった次男・横綱貴乃花に部屋を譲ったことで、「貴乃花部屋」に改称して新たなスタートを切った。二所一門、阿佐ヶ谷系を代表する部屋だったが、平成22年に支持者とともに一門を離れ、24年には貴乃花一門として認定される。ところが29年の騒動から一門を解体し無所属となり、さらに30年秋場所後に突然退職を発表し、ロイヤルファイミリーと称された花田家の系譜とともにその幕を閉じた。

主な力士 (赤は現役。優は優勝、三は三賞、金は金星。★は旧藤島部屋から合流)

 <二子山部屋時代>
 
横綱 二代若乃花(優4)、隆の里(優4)、★二代貴乃花(優22)、★三代若乃花(優5)
 
大関 初代貴ノ花(優2)、若嶋津(優2)、★貴ノ浪(優2)
 関脇 太寿山、★安芸乃島(三18、金16)、★貴闘力(優1)、若翔洋
 小結 二子岳(三1,金1)、若獅子、隆三杉、三杉里、浪ノ花
 幕内 大旺、大角光(角偏に光)、魁罡、飛騨ノ花、★豊ノ海

 <貴乃花部屋以降>(二子山部屋時代からの関取除く)
 小結 貴景勝
  幕内 貴ノ岩

四股名の特徴・その他

   創設当初は、部屋名から「二子」、のち師匠名から「若」を使う力士が目立った。
  先代から貴乃花部屋時代にかけては、「貴」が多用されるようになり、貴乃花部屋になってからはほぼ全員。

  しぶとい四ツ相撲を取る力士が育つ伝統がある。

■歴史

初代若乃花  二所ノ関部屋に入門、分家前は大所帯で廃業前の力道山やのち佐渡ヶ嶽に移る琴ヶ濱などに鍛えられる。元大ノ海の独立に伴い花籠部屋に移籍したが、小部屋で苦労が多かった。しかし小兵ながら呼び戻しに代表される力技を繰り出す相撲ぶりと、悲劇的なエピソードがファンの心を打って熱狂的な人気を得る。そして栃錦との対決は危機の戦後相撲界を一気に黄金時代へ導き、昭和相撲史を語る上で欠かせない人物である。横綱として10回の優勝を果たして37年に引退、同年早くも独立する。

小兵が躍動した40年代   すぐに関取が出たわけではないが、土俵の鬼と呼ばれた現役時代さながらの厳しい指導で、0から起ち上げた部屋を成長させていく。いち早く小兵の業師・二子岳が出て、鮮やかな無双などを武器に活躍した。さらに実弟貴ノ花、若獅子、大旺と師匠に似て小兵、軽量の力士が40年代の土俵を沸かせた。貴ノ花は兄譲りの驚異的な足腰で熱戦を展開して圧倒的な人気を誇る。大鵬を引退に追い込んで次代のスターと期待され、花籠部屋の輪島との「貴輪」コンビで大関に昇進した。これに華のサンパチ組・若三杉が続いて三役となった。

充実の50年代   昭和50年代は二子山部屋第一次黄金時代とも呼ぶべき大躍進の時代だった。まず50年春、大関貴ノ花が初優勝を飾り、審判部長の師匠みずから二子山部屋へ初めての優勝旗を手渡す。貴ノ花の綱取りは夢に終わったが、若三杉が躍進し53年に横綱昇進。二代目若乃花を襲名し、師匠の娘婿となって一時は後継者候補となった(のち解消)。これまた柔らかくしぶとい足腰に定評があり、華麗な投げ技を武器にした。この二人とも北の湖の牙城は崩しきれずに引退となったが、50年代後半にも横綱大関が生まれる。二代若乃花と同期同郷の隆の里は、糖尿病で出世が大きく遅れていたがようやく地力の高さを発揮しはじめ、新たなスター・千代の富士キラーとして台頭。58年には新横綱の場所で全勝優勝という双葉山以来の大記録。さらに南海の黒豹と呼ばれた若嶋津が入幕から2年で一気に大関へ。59年には全勝を含む2度の賜杯を抱いて横綱に迫った。

藤島との合併へ  60年代から平成にかけては前10年の勢いは続かなかったものの、やはり多くの幕内力士を擁す大部屋として君臨。大寿山、隆三杉、三杉里らの息の長い活躍が目立ったが、隆の里は61年に、若嶋津も伸び悩んで横綱に届かず62年に引退し、横綱大関は15年ぶりに途絶えた。50年代に活躍した横綱大関が次々独立、昭和63年からは二子山が理事長となって協会運営に尽力、弟子の数は縮小傾向となる。そして停年を迎える平成5年、弟貴ノ花が興した藤島部屋との合併が決まり、貴ノ花が二子山となって新たな時代を築くこととなった。

平成の二子山王国   藤島部屋には史上最年少大関となった貴ノ花ら新鋭が犇めいており、合併により幕内力士10人を抱える巨大勢力となった。その後若乃花・貴乃花兄弟は横綱に昇進。貴ノ浪も大関で2度優勝。安芸乃島は金星16個、三賞史上最多。貴闘力は敢闘賞10回に平幕優勝も記録。二子山勢同士の決定戦も6回を数えた(3人以上で対戦がない場合を含む)。あまりの独占ぶりが不公平だとして、総当たり制を望む声が上がるほどだった。

衰退、覇者交代   どこまで続くかと思われた二子山時代だったが、意外に早く陰りが見られた。10年には若貴絶縁騒動が持ち上がっておかしくなり、11年には20回の優勝を記録していた貴乃花が乱調し、故障の連続で2年も賜杯から遠ざかる。若乃花も10年の横綱昇進後は優勝に届かず休場がちで、皆勤負け越しも記録し12年に引退。貴ノ浪も11年11月大関を陥落、復帰したものの直後に再び陥落した。年長の安芸乃島、貴闘力が最後の一花を咲かせたが、衰えは隠せず。独占が崩れる一方、武蔵川勢が1横綱3大関を擁して6連覇を記録し劇的に覇権を奪われた。11年九州で相星決戦に挑んだ貴乃花が懸命に攻めながら武蔵丸の掬い投げに裏返された一番が象徴的だった。一転四面楚歌となった貴乃花は13年に復活を果たすが、ヒザに重症を負って休場続きとなり、15年に引退した。

貴乃花部屋、苦戦   引退から1年後、16年に部屋を譲られた一代年寄・貴乃花は、貴乃花部屋として新たなスタートを切る。同年貴ノ浪も引退し幕内力士が消え、十両五剣山もまもなく去って関取経験者0という事態に陥った。さらに17年、父二子山も55歳の若さでこの世を去り、その際兄の元横綱若乃花(すでに退職)との確執が再燃。部屋付の元安芸乃島と対立して破門騒動になったりと、トラブル続きで評価を落とした。親方が住み込まず部屋に通うスタイルや、後援会と距離を置くサポーター制度など、新しい部屋運営のスタイルに取り組むも賛否あり、すっかり新弟子が途絶えてしまった。学生や外国人を取らず、叩き上げの日本人力士にこだわっていたこともあった。さらに理事選に強行出馬して二所一門を離脱するなど、茨の道を歩く。

ようやく育てた関取が   理事に3選、貴乃花一門を立ち上げるなど存在感を増した貴乃花。26年1月には、苦節10年にして貴乃花部屋に幕内力士が誕生。モンゴル出身の貴ノ岩だ。さらに貴景勝が躍進して三役に。貴公俊、貴源治の双子力士も関取に。部屋の方も、ようやく成果が出てきたところで、思わぬ事件が起こる。29年10月の巡業中に貴ノ岩が横綱日馬富士に暴行を受け、これを師匠が問題視して大騒動に。執行部に対しても態度を硬化させ、官庁への告発までして対決姿勢を強めていたが、今度は弟子の貴公俊が付け人に支度部屋で暴行した件でついに軟化。理事降格の処分を受け入れた。

電撃引退表明、消滅へ   被害者側とはいえ事件への頑なな対応は、一門内の親方とも距離を生み、直後の理事選前の一門会では別候補が立ち、覚悟の落選。一兵卒としてやり直すと宣言し、審判を務めていたが、追い打ちをかけるように無所属は認めず一門に所属される決定がなされると、再び不信感を強め、30年秋場所後に突如退職を発表。元部屋付で千賀ノ浦部屋を継承していた二子山部屋出身の元隆三杉が、弟子たちを受け入れることになった。三代の師匠に仕えたベテラン親方の手腕で大成させることができるか、期待がかかる。

■総評

 1962〜2018(2004〜貴乃花部屋)

 横綱4人、大関3人、優勝8人・42回。名関脇2人も擁して三賞獲得は数えきれないほど。栄光に彩られた二子山の歴史を引き継ぎ、21世紀に新たな時代を築くかと期待された貴乃花部屋。部屋も新設移転したばかりでこれからという時に、合わせて57年の歴史に幕を閉じた。

 

 

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