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部屋一覧
二所一門 出羽一門 立浪一門
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立浪部屋の横綱双葉山が現役中に起ち上げた双葉山道場が前身。粂川部屋などが合流して大きな勢力となり、引退後年寄となって時津風部屋と改称。一代で一門を形成するまでの勢力となった。他の一門の本家筋が苦戦する中、平成の現在に至るまで多数の関取を抱える大勢力を保っている。 ■主な力士 (赤は現役。優は優勝、三は三賞、金は金星。) 横綱 鏡里(優4) ■四股名の特徴・その他 開祖双葉山から「双」「〜葉山」、先々代師匠豊山から「豊」、部屋名から「時」「時津」といった文字が四股名に入ることが多い。尾形、長浜、蔵間、霜鳥など本名のままで幕内に上がる力士も何人かいた。 東京農大とは交流が深く、強固な弟子の供給元となっている。大学卒として初めて大関になった先々代の母校である。郷里の新潟にも強い。 ■歴史 双葉山の独立 力士としての実績に改めて触れる必要はないだろう。すでに69連勝を記録した双葉山は、16年に独立して道場を興す。かつて同時に大関へ昇進した鏡岩の粂川は部屋ごと合流した。のちの横綱鏡里は四股名のとおり粂川から移籍した力士である。軍神と讃えられた無敵の横綱の道場には多数が合流して瞬く間に大勢力となった。一方で所属元の立浪とは訣別することになった。 時津風部屋の船出 双葉山は20年に引退して後進の指導に専念する。戦中は現役を勤めながら大所帯を切り盛りした苦労からげっそり痩せていたという。取得した「時津風」は大阪相撲から合流した年寄株であまり東京では馴染みのない名跡だったが、当時は現在のような一代年寄制度はなかった。戦後、大所帯のなかから有望株が次々登場。不動岩、大内山と2メートル超の巨人や、太鼓腹の鏡里と個性派が育った。柏鵬時代に入っても、小兵の北葉山、さらに学生相撲出身の豊山が大関となり、戦後の相撲界に存在感を示していた。 巨星墜つ 理事長を務めて番付削減や部屋別総当りなど大改革を断行した時津風。しかし43年に52歳の若さで死去する。唯一の横綱鏡里が後を襲ったが、遅れて見つかった遺言では引退して間もない豊山が指名されていた。トラブルになりかねない事態だったが、鏡里が譲って立田川部屋を興し独立することで事無きを得た。 元大関豊山の時代 後継者となった元豊山の時津風は、先代から受け継いだ弟子のほか、出身の東農大をはじめ学生力士も数多く育てた。平成10年からは2期理事長を務めるなど長く協会に貢献したが、部屋からはついに大関は誕生しなかった。40〜50年代では通算964勝の大潮や、善戦マンと呼ばれるほど上位に健闘するも届かなかった蔵間、師匠と同郷でやはり東農大で輪島と競った二代目豊山、巨漢双津竜などが三役に昇進した。平成に入るとさらに苦戦し、幕内時津洋一人という時代もあった。その後蒼樹山や時津海が登場するも三役には届かなかった。 双津竜時代 役力士復活 豊山が停年となった14年からは元小結の双津竜が後継となった。技術指導力があり、先代のパイプを活かした学生力士らが育って部屋は活性化する。やはり東農大出身の大器・霜鳥が平成となって初めての三役力士に。時天空、豊ノ島と技能派も浮上してきて関脇となる。さらに土佐豊が30連勝を記録してスピード出世と名門復活の勢いだった。 力士暴行死事件 ところが、19年の大事件が角界を震撼させた。時大山という新弟子に生活態度などを改めさせるためとして長時間のぶつかり稽古などを行い、さらにビール瓶で殴るなどの暴行を加え、死亡させていたことが明らかになった。事故を装うなどの工作も発覚し、師匠は逮捕。加担した数人の兄弟子は有罪とされ、師匠とともに解雇された。急遽幕内時津海が引退して後継となり、遺族への謝罪などに奔走した。名門が存続の危機に立たされた。 不祥事が続く 解雇された力士には有望力士も含まれ、重いムードに包まれた。そこから何とか立ち直ろうとしていた22年、今度は野球賭博事件が襲う。豊ノ島は出場停止となって十両陥落、師匠も関与しており処分を受けた。その年の11月、幕内復帰した豊ノ島がいきなり優勝決定戦に進出して北葉山以来の部屋勢優勝に迫る。明るいニュースが出たが、23年の八百長事件で霜鳳が認定され引退。またも師匠は連座で処分。 ■現状・展望 豊ノ島、時天空、土佐豊の3人はまだ長く活躍するだけの地力がある。十両に昇進した双大竜にも期待がかかる。 新弟子を取りづらい環境は将来に向けて不安。関取は揃っているが力士数は減少している。
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