昭和名力士


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昭和の大関 四(輪湖〜千代)

横1

横2 横3 横4 大1 大2 大3 大4 三1 三2 三3

貴ノ花 大受 魁傑 旭國 増位山 琴風 若嶋津 朝潮 北天佑


 

       貴 ノ 花   大関  <左四つ寄り・吊り> 二子山  184/109
E06 C10 吊り寄り 4b

右前褌寄り3b

下手投げ  3c

うっちゃり3d

左四つ寄り3c

モロ差寄り2d

出し投げ 2d

外掛け  2c

吊り   3b

左掬い投げ3b

巻き替え  2c

とったり  3c

蹴返し   2d

引きつけ  3b

右上手投げ2d

突き落とし3c

渡しこみ  1d

割り出し 1e

<立合>

ぶちかまし3a

前褌  2c

左差し 3c

体当たり3b

カチ上げ2c

右上手 2e

頭a 肩b

胸e手d変化e

<技・体>

土俵際の魔術師

前傾○

二枚腰

まわりこみ

食い下がり

首・腰痛

 

<心>

プリンス

強行

逆境○

早熟型

C10 D08
B12 C10
C10 A15
A14 C10

 大関貴ノ花 史上最長50場所大関に在位した、超人気力士。やはり人気のあった横綱若乃花の実弟にして弟子。

 昭和43年入門から3年で関取、そして入幕とスピード出世。やや壁に当たったが45年三役に。小結で迎えた46年1月大鵬に押しつぶされ足首故障。しかし、翌場所から大鵬を引退に追い込む活躍などで4場所連続三賞、三役に定着する。47年、10,11,12(高見山と優勝を争う)と好成績を重ね、9月も二桁で大関に昇進した。

 昇進後は奮わず一桁の勝星が続く。迷ったように改名を重ねる。やっと二桁が続いて迎えた50年3月本割敗れた北の湖に決定戦で雪辱して初優勝。9月にもやはり北の湖に勝って2度目の優勝。この時が最盛期だったが、綱とり場所は崩れて横綱は遠かった。またクンロクに逆戻り、52年巻き返し12,13と続けるがいずれも次点で綱の声はかからず。53年首の負傷と肝機能障害で休場すると、以降は負け越しは少ないが年一回10勝するのがやっと。そして56年1月7日目、快進撃を続ける関脇千代の富士を後継と語って引退した。

 自分でも相撲は下手と言うとおり、軽量の体ながら真っ向から突っ込んでまわしを引きつけ吊り寄りという小細工なしの敢闘相撲。首が悪いながらも変化せず、頭から行く姿が人気を呼んだ。体のバネは驚異的で、突き手・庇い手論争を巻き起こした北の富士戦、髷から落ちた高見山戦等、行事泣かせの粘りで魅せた。


 

     大 受   大関   <突き押し>  高島  177/140
D09 E07 ハズ押し5b

右おっつけ4a

突っ張り3a

のど輪  4a

モロ筈押し4c

モロ手突き3c

いなし 3c

突き落とし3d

左突き放し3c

はたき   2c

はねあげ3c

右腕返し3c

引き落とし2d

掬い投げ2c

 

<立合>

ぶちかまし3a

モロハズ 3c

モロ手突き3c

おっつけ 2c

 

 

頭a 肩b

胸d手b変化e

<技・体>

肩幅広い

重心低い

右膝痛

胴長

 

 

 

<心>

チャンス○

シンプル

ムラッ気

突押徹底

早熟型

C10 A14
D09 E07
C10 C10
C10 D09

 史上初の三賞独占。「純文学の押し」で技能賞6回を引っ提げ大関へ。

昭和45年5月、いきなり前頭6枚目に入幕し技能賞デビュー。46年は3場所連続三賞で関脇に在るがしばらく平幕に低迷。48年に入ると急浮上、1月筆頭で10勝・技能賞を皮切りに、小結で10勝殊勲、関脇で2横綱喰いで11勝殊勲技能。そして7月、伝説の三賞独占。2日目優勝した琴櫻に敗れるが、3日目北の富士を攻略。12日目輪島に敗れて2敗、優勝は逃すが1横綱2大関を倒しての13勝。見事な押し相撲を評価され、殊勲・敢闘・技能全てにおいて文句なしの受賞。23歳で大関に推挙された。

 ところが新大関場所腰を痛め途中休場、2場所勝ち越したが今度は古傷の右膝を故障しまた角番、5月輪島を倒して粘るが北の湖に止めを差されわずか5場所で大関陥落。 翌場所頑張ったがあと1番及ばず、大関復帰の特権ならず。4場所関脇に在るが、その後平幕で上下し52年3月十両へ陥落。大関経験者として初めて十両で取ったが、連敗して休場。27歳にして引退となったのは気の毒だった。時代が下ればまだ復活のチャンスもあっただろうが...

 アンコ型の体を生かした押し相撲、出足で圧倒するのではなくおっつけてジワジワ出るタイプで、突っ張って付かず離れずの距離でおっつけ、のど輪、ハズ、突き落としも巧く決まった。豪腕というわけではなかったが、教科書どおりの綺麗な押しの型は、押し相撲の1つのモデルを完成させたといってもよい。


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昭和の大関 四(輪湖〜千代)

横1

横2 横3 横4 大1 大2 大3 大4 三1 三2 三3

貴ノ花 大受 魁傑 旭國 増位山 琴風 若嶋津 朝潮 北天佑


 

     魁 傑   大関  <左四つ寄り・突っ張り> 花籠  188/130
D09 C10 突っ張り3b

吊り寄り3b

右上手投げ4b

モロ差寄り3c

外掛け 3c

掬い投げ3b

裾払い 3c

蹴返し 2d

左四つ寄り2b

はたき 2c

巻き替え1c

ハズ押し2c

はねあげ2c

のど輪 3c

引きつけ3b

内掛け 3c

上突っ張り2c

<立合>

左差し  2b

モロ手突き2c

モロ差し2c

カチ上げ2b

張差し 2d

右上手 2d

頭a 肩a

胸d手b変化e

<技・体>

足腰柔軟

黒いダイヤ

左半身

腰高

前捌き

足癖

首押さえ

肘痛

<心>

角界の紳士

勝負強い

強行

ツラ相撲

投げ多用

B12 C11
C11 B13
C10 C10
D09 B12

 日大柔道部出身の異色力士。「黒いダイヤ」と呼ばれた素質で大関昇進、陥落しながらも復活し2度目の使者を迎えた不屈の力士。真摯な姿勢は現役中から評価されており、停年間近になって理事長に推され、八百長事件、公益法人化といった難局に取り組んだ。

 入幕4場所目の47年3月、北の富士から金星を挙げるなど12勝、決定戦に進出し長谷川に寄り切られるが、殊勲技能の活躍で一躍注目を集める。翌場所小結に上がって11勝、関脇でも10勝しあっという間に大関かと思われたが成らず。三役に定着するがなかなか成績がまとまらず49年5月のチャンスもフイにした。しかし同年御当所九州で12勝、決定戦北の湖を突き出して初優勝。翌50年1月3勝4敗から連勝し11勝として大関昇進。3場所前は負け越しだったが実績と優勝が評価された。

 大関となっても好成績だったが3場所目突然崩れ、休場かと問われ、「休場は試合放棄」の名言を残して崖っぷちから勝ち越した。しかし体調は戻らず5場所で陥落。大受の二の舞となってしまい平幕に。不安定な成績で平幕で迎えた51年9月14勝1敗で2度目の優勝。関脇に戻って連続11勝し陥落から6場所で大関に復帰した。以後陥落直後の10勝特権以外での大関復帰はいない。2度目の大関でも結果は残せず、今度は4場所で陥落。1年あまり取ったがさすがに衰えは隠せず54年1月引退した。

 決定戦での北の湖戦など、突っ張りの威力もあったが、基本は四つ相撲。長身ながら、胸を合わせるがっぷりよりは、半身やモロ差しなど変則的な形を得意とし、柔道出身らしく足技がうまかったが、逆にそれが大成を阻害したとの批判も強い。休場0は見事だった。


 

       旭 國   大関  <左四つ寄り投げ> 花籠  174/124
E06 C11 出し投げ3b

とったり3b

モロ差寄り3c

上手投げ4b

内掛け 4c

掬い投げ3b

内無双 3c

突っ張り2d

吊り寄り2c

前褌寄り3b

ひねり 1c

外掛け 2c

いなし 2c

小股  3c

おっつけ3b

切り返し3c

蹴返し   2d

左四つ寄り2c

<立合>

前褌 3a

左差し3c

モロ差3c

張差し2b

とったり4c

 

頭b 肩b

胸d手b変化d

<技・体>

ピラニア

左半身

重心低い

前捌き

足癖

膵炎

<心>

相撲博士

強行

まった

番付運×

D08 D08
C11 B12
A15 B13
C11 C11

 膵臓炎に苦しみ灸の絆創膏が目立つ小さい体ながら、相撲博士と呼ばれた研究で巧い取り口で鳴らした名人大関

 44年の入幕当初から内臓の疾患に悩まされ、何度か十両落ちするなど上位に上がれなかった。上位初挑戦の47年9月に10勝、初めての技能賞で関脇に。以後上位に定着する。50年を迎えて地力をつけ、3場所連続技能賞。関脇に定着すると51年1月12勝、3月13勝優勝同点(輪島に敗れる)で大関昇進。

 その後大勝はできずクンロク大関に甘んじたが、52年9月は全勝北の湖とデッドヒートの末、14勝1敗の準優勝(14日目全勝対決に敗れる)。最後まで優勝を争えたのはこの場所くらいだったが、3年半で角番は3回と安定。54年9月、同期の新横綱三重ノ海戦で左肩を故障し途中休場、角番ではなかったが場所中引退した。

 相撲の巧さは折り紙付き。左四つで食い下がり離れないしぶとさは、ピラニアの異名をとった。寄り投げに加え手取り足取りの曲者ぶりで観客を魅了、関節を極める「とったり」も強力な武器となった。前褌に食らい付けば出し投げも見せたが、ある時は下がりを掴んで出したというエピソードを持つ。この人も魁傑同様休場嫌い、稽古の虫で、「土俵で死ねば本望」の名言を残す。


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昭和の大関 四(輪湖〜千代)

横1

横2 横3 横4 大1 大2 大3 大4 三1 三2 三3

貴ノ花 大受 魁傑 旭國 増位山 琴風 若嶋津 朝潮 北天佑


 

     増位山   大関  <右四つ・左差し寄り投げ> 三保ヶ関  180/105
E06 C10 右下手投げ4b

内掛け 5b

右引摺投げ4c

前褌寄り3b

出し投げ4b

外掛け 4c

掬い投げ3b

上手投げ4b

突き落とし3c

はたき2c

ひねり3c

肩透かし2c

はねあげ2c

モロ差寄り3c

突っ張り2c

まわし切り3c

内無双 2d

四つ寄り2c

<立合>

右突き   3b

右差し  2c

モロ差し2c

右上手 3b

前褌   2c

いなし 2e

頭c 肩b

胸b手a変化d

<技・体>

多彩

足腰柔軟

前捌き

敏捷

まわりこみ

逆四つ○

足癖

肩越上手

<心>

相撲勘

チャンス○

人気

 

D08 E07
B12 B13
B13 C11
C11 C10

現役中から歌手や画家としても名を馳せ、土俵でも華麗な技で大関を射止めた二世大関

 新入幕は45年だがなかなか幕内に定着できず5度目の入幕でようやく活躍。48年1月同期同部屋の北の湖と同時新三役。しかしその後はほぼ平幕に甘んじて同期生にどんどん水を開けられる。49年5月は北の湖と優勝を争い12勝、翌場所初めて三役で勝ち越したがまた平幕でウロウロ、上位には定着して輪島から3金星、土俵外でも人気を得るが、とても大関候補とは見られていなかった。53年30歳にして新関脇とやや安定してきた。54年9月小結で8勝ながら技能賞、翌場所関脇で11勝・技能賞、そして55年1月12勝を挙げ3場所連続技能賞。初めて巡ってきたチャンスを物にして、史上初の親子大関誕生。10年間大半を平幕で過ごしてきた幕内通算勝率が5割を割る小兵力士が31歳でひょいと大関になってしまったのである。

 やはりと言うべきか、晩年大関は右肘痛めて奮わず、わずか7場所で引退。とはいえ引退の前の場所では昇進後初めて2ケタ勝利を挙げており、納得の引退だったのかもしれない。

 増位山は内掛けの切れ味が抜群、それも左右から掛けられ、外掛けもある(内掛け、外掛けの連続技まであった)。そして下手投げとのコンビネーションで相手を翻弄した。上手からの引き擦るような投げも足の使い方が巧くてよく決まった。100キロそこそこの小兵・技巧派で大関を手にする力士はこの後現れるだろうか。


     琴 風   大関  <左四つ寄り・突き押し> 佐渡ヶ嶽  184/170
B12 B13 がぶり寄り5a

前褌寄り3b

モロ差寄り3c

右おっつけ4b

引きつけ4c

掬い投げ3b

吊り 2c

モロ手突き2d

左おっつけ2c

モロ筈押し3c

腕返し 2c

ハズ押し3c

のど輪 3c

吊り寄り3c

突っ張り3b

極め  2c

渡し込み1d

上手投げ2d

<立合>

体当たり2b

カチ上げ2c

モロ差し2c

右前褌 2b

モロ手突き3c

 

頭b 肩a

胸d手c変化e

<技・体>

出足

腰高

足腰硬い

逆四つ○

膝爆弾

 

<心>

安定感

ツラ相撲

勝負強い

攻撃相撲

C11 B12
C10 C10
C10 D09
D09 C10

膝の故障で苦しみながら見事カムバックし、がぶり寄りで強豪大関となった、通称地獄を見た男

入幕から6場所目の52年11月、2度目の上位挑戦の場所北の湖から金星を奪う活躍で技能賞。53年5月は12勝で2度目の殊勲賞と将来を期待されたが、左膝靱帯断裂して連続休場、幕下まで番付を下げてしまった。不屈の闘志で這い上がり55年1月丸1年ぶりに入幕すると地力の違いをみせ12勝、3場所連続で2ケタ・三賞を得る。ところが再び左膝を痛め、再起不能と心配されたが、公傷一場所で復帰、負け越したとはいえ北の湖から3個目の金星を挙げる。翌場所2つ金星を奪い関脇に戻ると、9・9・10勝と定着し、56年9月12勝3敗で優勝、3横綱0大関の異常事態とあって大関昇進成った。

大関琴風は、安定して二桁勝つ強い部類に入る。昇進後1年は2桁と9番が半々だったが、58年1月初日黒星から14連勝し、朝潮との決定戦では四つ身の強さで勝り2度目の優勝。初めての綱取りは、6連勝スタートも苦手北天佑に敗れると結局4敗してしまう。とはいえ7場所連続11勝以上を挙げて毎場所優勝争いに絡んだのは大関として見事な功績である。59年はやや下降気味でありまだ20代後半だったので一時的不振かと思われたが、60年はさらに落ち込み1月は8勝、3月は10敗を喫した。初の角番となった5月は大錦戦で右膝を痛め途中休場し大関陥落。両膝とも悪くしてはさすがに苦しい。連続全休で前頭10枚目に落ちて再起を期したが3連敗で限界を悟り28歳の早すぎる引退を決意した。

 琴風と言えばがぶり寄り。突き押しで北の湖を破るなど離れても勢いがあったが、やはり前褌又は横褌を引きつけての怒涛の寄りが印象深い。膝を痛めてから、下がって踏ん張るのが危険になり、それが前進相撲に拍車を掛けた。まさにケガの功名。立合い出足で圧倒することも多く、やはり速攻を志す千代の富士の良き稽古相手だった。


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昭和の大関 四(輪湖〜千代)

横1

横2 横3 横4 大1 大2 大3 大4 三1 三2 三3

貴ノ花 大受 魁傑 旭國 増位山 琴風 若嶋津 朝潮 北天佑


 

       若嶋津   大関  <左四つ寄り・投げ>  二子山  184/110
E07 C11 左下手投げ4b

前褌寄り4b

モロ差寄り3c

吊り寄り3b

外掛け  3c

掬い投げ3b

右上手投げ4b

打っ棄り 2d

左四つ寄り3b

出し投げ 3c

右おっつけ2c

ひねり  2c

巻き替え2c

小手投げ2d

まわし切り4b

突き落とし2c

肩透かし2c

右四つ寄り2c

<立合>

左差し2b

カチ上げ2c

張差し2c

右前褌 2b

はたき 2d

体当たり2d

頭b肩b胸b

手c変化e

<技・体>

敏捷

差し身

左半身

筋肉質

腰高

足腰柔軟

まわりこみ

右甘い

<心>

気迫

スタ-ト○

安定感

チャンス×

 

C10 C10
A14 B13
B12 C11
C10 C10

細身の浅黒い肌とスピードと気迫あふれる取り口から、人呼んで南海の黒豹。抜群のスピードと華麗な投げで人気を集め、横綱にあと一歩まで迫った。

56年1月、新入幕で敢闘賞の活躍をみせた若島津(大関在位中に若嶋津と改名する)は、難なく上位定着。1年後には北の湖から連続して金星を奪うなど12勝の暴れっぷりで三役に昇進。

平幕に落ちることなく、57年7月からは3場所連続三役で2ケタ、10.12.12の計34勝で大関に推挙された。

大関2場所目、足首を骨折するアクシデントはあったが初日から8連勝しており、常に2ケタ以上、優勝争いに絡む安定感を発揮。翌場所には自己最高の13勝を上げるが、この後千代の富士と隆の里が4場所連続して相星決戦を戦う充実振りで綱取りには厳しい環境だった。若嶋津は千代の富士が大の苦手、隆の里とは同部屋というのも悪い方に作用した。この2横綱が不振だった59年は綱取り最大のチャンスであった。3月、北天佑(1度優勝を争って逃げ切られた)を振り切って14勝1敗初優勝。綱取りと意気込んだ5月は大きく崩れて失敗。だが続く7月、若島津生涯最高の場所。13日目、2場所前と同じく北の湖を破って2度目の優勝決定、さらに全勝とした。今度こそと意気込んだ9月、11日目上位陣の一人目・朝潮を倒した若島津は、苦手大乃国に敗れただけの1敗。他の横綱大関も不調でトップを走り、横綱昇進は間違いないと思われた。ところがこの蔵前国技館最後の場所は、二つの台風が発生してした。入幕2場所目の小錦が2敗で追い、横綱隆の里戦が組まれたが、これも圧倒してしまった。そして12日目、この200キロの新鋭の勢いに呑まれてしまう。とはいえまだ2敗。残り勝てば十分可能性はあった。琴風を下して11勝、あとは絶不調の千代の富士と北天佑を倒せば...と仕切りなおすはずが、14日目の相手はもう一つの台風・1敗単独トップの多賀竜。またもこの伏兵にやられて若嶋津3敗、優勝争いから脱落。平幕下位の2人に敗れたとあっては、準優勝でも横綱はない。千秋楽も敗れて4敗、こうして綱取り最大にして最後のチャンスは逃げていったのだった。その後、糖尿病などに悩まされ、切れ味が失われていった若嶋津、60年3月に相星決戦を戦ったあと、衰退の一途をたどる。差し手の左を故障したのも響き、以後2ケタ勝てないまま5度目の角番となった62年7月、連敗したところで引退となった。

 若嶋津は、左四つの相撲を得意としたが、巻き替えの応酬が良く見られたこの時代、右四つになっても十分力を発揮している。下手からの芸を得意としたため格言どおり大成(横綱)しなかったという例として出されるが、上手投げの威力はあった。体重がないため、あまりがっちりと胸をあわすのではなく、動いて前褌横褌を取っての速い攻めが持ち味。差し身の良さで先手を取る相撲だったが、晩年はそうした技術が落ちたのか、しばしばモロ差しを許すことも。若乃花、隆の里といった同部屋の先輩が本格四つ相撲の力士で、その晩年の稽古に付き合わされたことが原因と見る説も。ただワキの甘さ、腰の高さ、投げ癖というのは若い頃指摘された3点セットでもあった。


 

     朝 潮   大関  <突き押し・左四つ寄り> 高砂  184/180
B13 B12

がぶり寄り3b

右のど輪4b

左四つ寄り4b

おっつけ4b

はたき3b

左腕返し4c

突っ張り3b

掬い投げ3b

モロ手突き2d

引き落とし2c

突き落とし1c

ハズ押し2c

ぶちかまし2c

引きつけ3b

上手投げ2c

うっちゃり3d

左突き放し3c

<立合>

ぶちかまし4a

体当たり3c

カチ上げ2d

モロ手突き2c

モロハズ2d

左差し 2c

頭a 肩a

胸d手c変化e

<技・体>

出足

腰高

足腰硬い

アゴ上り

額広い

太鼓腹

引き癖

助走

<心>

勝負弱い

チャンス×

連敗癖

上位キラ-

ツラ相撲

人気

大阪太郎

B12 B12
E07 C10
D09 E07
D08 D08

 愛嬌のある風貌で大ちゃんと親しまれた学生相撲出身大関。大関取り、初優勝の悲願に幾度も挑み、ようやく勝ち取った。連続勝越記録を伸ばし、長く大関を務めた。

  大学相撲で活躍し、鳴り物入りで高砂部屋入門。53年、本名の長岡で入幕、敢闘賞の活躍で前頭筆頭に躍進して伝統の(5代目)朝汐太郎を名乗るが、そのプレッシャーからか3場所連続負け越しと勢いが止まってしまった。おもい四股名にもようやく慣れ、55年春やっと上位で通用。北の湖から初金星を獲得(4つの金星など北の湖をカモにした)するなど2ケタ。さらに好成績を続け3場所連続の2ケタ、殊勲賞。9月、このままあっさりと大関を手にするだろうという大方の予想を裏切って負け越すと、しばらく停滞。56年は再び三役で連続殊勲賞、一場所おいて12勝で決定戦進出(千代の富士に敗れる)の活躍も、それぞれチャンスの場所で負け越し。57年5月は小結で13勝の好成績、またも決定戦で千代の富士に敗れて大魚を逃す。しかも翌場所以降1桁続きで大関獲りも白紙。関脇で迎えた58年1月、14勝をあげる大活躍、しかし今度は琴風に決定戦の末賜杯をさらわれる。3度の同点決勝敗退で大いに落胆したが、この14勝をもう一つの悲願に生かした。翌場所大学時代をすごした準ご当所の大阪場所、千秋楽隆の里を破り12勝の好成績、3場所前は平幕ながら大関に推挙された。大関獲りに苦労するうちに殊勲賞は史上最多の10を数えた。

 ようやく大関となったはいいが、膝を痛めるなど昇進前の爆発力はどこへやら、なかなか優勝争いにも絡めない。しかし60年の大阪場所、久しぶりに好機が訪れた。序盤に連敗したが、額から流血するぶちかましが炸裂して調子を上げ勝ち進むと、トップに並ぶ。そして2敗同士で直接対決となった13日目の千代の富士戦を制し、千秋楽、若嶋津との大関相星決戦となった。ここ一番に弱かった朝潮だが、立ってすぐ左四つ右上手十分。一気の出足でなだれ込み、正面土俵へ寄り倒し。気迫の相撲で4度目の正直、初優勝を果たした。翌場所、唯一の綱取りは、1敗で折り返したものの後半3敗して失敗。以後2桁勝利は10勝が1度だけのクンロク大関化した。負け越しこそしなかったが、それも63年5月の休場で、26場所で連続勝ち越しはストップ。3度目の角番を脱した直後の平成元年思い出の大阪、初日から4連敗で力尽き引退した。

 朝潮の相撲といえば、巨体を思い切りぶつけていくぶちかましが最も印象的である。額が割れて流血することもしばしばあったが、その流血が好調の証と言われた。力強い突き押しで持っていく、馬力相撲。うるさい相手を寄せ付けない突っ張りの他、額で当たり、左はず・おっつけ、右のど輪の形で一気に出る。左の差し手を返しての寄りも迫力があった。優勝決定の若嶋津戦然り。意外な打っ棄りも持っている。止まってしまうと力が半減。し琴風との優勝決定戦では、出足の力士同士で四つに組み合って止まると、我慢しきれず先に出て、腰が浮くところ寄り返されて残せなかった。


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昭和の大関 四(輪湖〜千代)

横1

横2 横3 横4 大1 大2 大3 大4 三1 三2 三3

貴ノ花 大受 魁傑 旭國 増位山 琴風 若嶋津 朝潮 北天佑


     北天佑  大関  <なまくら四つ寄り投げ・突押> 三保ヶ関 184/145
C11 C11 上手投げ4b

吊り  3b

下手投げ3c

モロ手突き3b

打っ棄り3c

掬い投げ3b

出し投げ3c

のどわ 3b

右突き放し4c

ハズ押し3c

前褌寄り3c

突き落とし2c

突っ張り3c

おっつけ3c

ひねり 2d

蹴返し 2e

外掛け 2d

左四つ寄り2c

<立合>

カチ上げ 2b

右のどわ 3c

ぶちかまし2c

上手    2c

かっぱじき2d

頭c肩a胸c

手b変化c

<技・体>

足癖

逆四つ○

足腰柔軟

頭四つ

 

 

<心>

安定感

息切れ

慎重

連敗癖

A14 B12
C10 B12
C10 C10
C10 D09

 双葉山にも例えられた理想的な体格・素質を兄弟子北の湖に鍛えられ、豪快な相撲で史上2位の44場所大関を務めた。

 小学校のころから三保ヶ関が入門の誓約書を求めるほどの天賦の素質で期待された北天佑は、順調に出世し55年、20歳で新入幕、3場所目には若乃花から金星を挙げるなど、負け越し知らずで三役昇進。故障で一度落ちたが、57年9月若・千代を倒して敢闘賞。ここから5場所連続三賞の快進撃で一気に大関をつかむ。58年1月新関脇で11勝の活躍。千代の富士には3連勝。翌場所も12勝、そして5月、大関取りには10勝でも目安の33勝に届くところ、なんと14勝で初優勝を飾ってしまった。初日から連勝を続けた北天佑は、12日目1敗で追う大関若嶋津を豪快に寄り倒し2差。1敗したが千秋楽出羽の花を取り直しの末下し、横綱不在の場所とはいえ好調の4大関を向こうに回して賜杯を受けた。勿論大関昇進。昇進時の3場所37勝は吉葉山と双璧の好成績。

 1場所前に昇進した朝潮とは対照的に一発で大関を手にした北天佑だが、急に勢いがしぼむ。取り口が小さくなったと残念がられた。好調の場所も終盤崩れてV争い脱落ということが多かった。59年3月も12勝した終盤の連敗でV逸。大関としての優勝は60年7月。早々と2敗したが、徐々に調子を上げると他の力士が崩れていき、混戦に。11日目1敗大乃国をのど輪で引っ繰り返し、13日目3敗千代の富士との吊り合いを制した。単独トップで迎えた千秋楽、朝潮を立合い上手を取るなり出し投げで転がし2度目の優勝を決めた。綱取りの翌場所は10日目まで1敗で期待されたが、プレッシャーからか息切れか、終盤5連敗でチャンスを逃した。続く11月も10連勝と走りながら終盤に星を落とし12勝止まり。61年から63年は各年2ケタ1度ずつ、角番や休場も経験するなど不振続きで、後輩大関に次々先を越された。しかし平成に入って4場所連続2ケタと奮起、元年3月は12勝と頑張り、5月も11日目でトップに並ぶなど復活を思わせたが、やはり終盤に崩れた。2年9月、同い年の旭富士が新横綱となった場所、2勝4敗となって体力の限界を理由に突然引退した。

 均整のとれた柔かい体、100キロを越す握力の豪腕。このパワーでの突き、投げには凄まじい威力があった。200キロ近い大乃国を腰砕けで土俵下へ吹っ飛ばしたのど輪などや、投げを食わない千代の富士をぶん投げる派手な相撲はスケールの大きさを見せ付けるものであった。突いてよし、どちらの四つでも組んでよし、上手でも下手でも力を発揮したが、逆に型がない、という批判があった。そのためか、荒っぽく取っているうちは良かったが、大関になって安定感を求められると、変化や小技に出るなどスケールダウンした。晩年は故障で力が落ちてきたが、思い切りの良さが戻って少し良くなったが、病気もあって既に消耗がしていた。柔道経験からか、足技も見せた。


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昭和の大関 四(輪湖〜千代)

横1

横2 横3 横4 大1 大2 大3 大4 三1 三2 三3

貴ノ花 大受 魁傑 旭國 増位山 琴風 若嶋津 朝潮 北天佑


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