昭和名力士 |
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第32代横綱玉錦 308勝92敗3分17休 優9金1
昭和最初の横綱。春秋園事件など動乱期の角界の屋台骨として活躍し、双葉山が登場するまで第一人者として君臨。連勝を続けた双葉打倒と意気込んだが惜しくも現役死した。 大正15年入幕し昭和3年に三役昇進。4年春関脇で初優勝するなど成績は安定していたのになかなか番付が上がらなかったが、5年夏大関に。そこでも3連覇を成し遂げ、横綱空位にもかかわらずなかなか免許がない。春秋園事件の混乱の中ようやく認められ、前場所は不調で7勝4敗ながら8年春から横綱を張る。 ここから玉錦の強豪ぶりが本格化。9年春こそ休場したが11年までの出場7場所でわずか7敗(1分)の安定感。全勝1回を含む2度目の3連覇。稽古熱心さと素行の荒さで生傷が絶えず「ボロ錦」ともあだ名された。わずかに残る映像からもボロぶりが窺がえるがそれでも強かった。11年夏は10勝1敗だが、その1敗は連勝を始めた双葉山に敗れたもので、優勝をさらわれた。覇者交代の一番とも呼ばれる。翌年からは年齢による衰えと体調が整わず、双葉の独走を許す。雪辱に燃えていたが、無理がたたって虫垂炎から腹膜炎を併発(強情が祟ったらしい)し、13年暮れ34歳にして現役死という悲劇。玉錦の逝った翌場所双葉山の連勝も止まった。 ツバメと呼ばれた鋭い出足、馬力の相撲。短躯でアンコ型の体は重心の低さとなって生きた。右差し速攻だけでなく、相手が二本差しても極められると怪力と大きな腹のために何もできなくなったという。いかにも威風堂堂たる昔ながらの力士。引き付けの強さを生かして捻り落としたり、腹にのせて吊ったりと力強い取り口。意外と粘り腰があって打っ棄りもしばしばみせた。投げはあまり打たなかったと伝わる。
第33代横綱武蔵山 174勝69敗2分71休 優1金2 負け越し知らずのスピード出世で知られる。晩年の横綱宮城山に連勝して三役へ。6年は夏優勝するなど全盛期だったが10月沖ツ海戦で生命線の右肘を痛める。このケガは武蔵山の相撲人生に大いに影響した。7年春から大関となるが、春秋園事件の際に拳闘転向などの噂も飛び交い、世間の風当たりが強くなった。混乱の影響もあって飛びぬけた好成績は残せない。3敗が続いて男女ノ川、清水川との横綱レースから抜け出せなかった。10年は少し向上し、大関10場所にして横綱免許を受けた。 巨大勢力出羽一門の総帥として期待されたが、新横綱場所いきなり途中休場に追い込まれしばらく休場が続く。2年ぶりの出場も肩を痛め途中休場。翌場所横綱時代唯一の皆勤は、2横綱を破るが辛うじて7勝6敗の勝ち越し。14年は連続全休し引退した。横綱になった瞬間晩年に入ってしまったかのような衰退ぶり。誰もが肘の故障を惜しんだ。彼が万全で、沖ツ海が存命なら双葉山の連勝はあったかわからないと言う人もいるくらい、その実力は折り紙ツキだったが、悲運が付きまとった横綱だった。 取り口は右を差しての下手投げが武器(ゆえに右肘のケガは致命的だった)で、上手から振り回していい体勢に持ち込むのも巧かった。立合いから当たって突っ張って筈での攻めも多い。しかしとにかく投げのイメージが強い。長身で怪力となればそれももっともか。右を悪くしてからは、右差しは危険と考えたか左四つの相撲も増えてやや力に頼ることも。
第34代横綱男女ノ川 247勝136敗1分33休 優2金1 巨人横綱男女ノ川。奇怪な風貌、そして数々の奇行(良くも悪く)もで話題を呼んだ人気力士でもあった。 大食漢で有名、体も大きくなり有望視されると高砂と佐渡ヶ嶽の間で取り合いになり、高砂部屋所属となった4年からは朝潮を名乗る。6年関脇となり好成績で大関間近というところで膝を痛め大崩れ、そして春秋園事件で脱退。8年に男女ノ川に戻して復帰。番付には間に合わず「別席」で全勝優勝。9年1月関脇でも優勝して大関昇進となったが、いきなり負け越す。すぐに復調し11年横綱免許。 しかし横綱昇進後は腰痛もあってピリッとせず、13年には千秋楽武蔵山に敗れ負け越し。双葉山不調の14年1月11勝2敗にまとめるが平幕出羽湊に優勝をさらわれる。翌場所から15日制となるが優勝争いには絡まず10勝程度で淡々と。9勝6敗の17年1月が最終場所となった。特に衰えが目立ったわけでもないが30代後半で、戦時色強まる中で看板を背負うのはしんどかったか。引退後の波乱万丈な人生はいまにも「奇人」らしい。 巨人力士らしく大きな取り口。怪力で極めて割り出し、小手投げは強烈。長身を生かした上突っ張り、はたきもあった。しかしさすが横綱になるだけあって片方は差して返したり、筈にかけたりする基本もたまに見せた。強引な小手投げでしばしば自滅した。 第35代横綱双葉山 優12 大双葉、角聖、相撲の神様、様々な呼び名で畏敬される69連勝を達成した不世出の大横綱。無敵の強さと崇高な土俵態度で今や神格化している。 春秋園事件の際残留して幸運な入幕。しかしまだ体も未完成で幕内力士には体力負けし、腰の強さを生かした打っ棄りで逆転が多く「打っ棄り双葉」の汚名(本人はそう感じていたらしい)を着せられる。入幕5年目の11年に開花。春前頭3枚目で9勝2敗。武蔵山から金星。この場所玉錦に敗れた翌日から双葉は負けることを忘れる。夏新関脇で全勝、初優勝。12年大関昇進し2場所無敗で通過、13年新横綱となる。 連勝はまだまだ続き13年も負けなしで暮れた。玉錦が逝き、もはや無敵とみられた14年春、双葉山は腸チフスで体重激減。そして70連勝をかけた4日目安芸ノ海戦、外掛けに不覚を取りついに連勝ストップ。「未だ木鶏たりえず。」この場所4敗もした。翌場所は15戦全勝と立て直し連覇も飾るが、15年夏7勝4敗となって休場。「信念の歯車が狂った。」滝に打たれて双葉は凄みを増して帰ってきた。ここから3年6場所で5回優勝。18年は負けなしの連続全勝。まさに第2次黄金期とも呼ぶべき円熟を見せた。69連勝を更新だと連勝記録に注目が集まった19年春は不戦勝明けの6日目松の里に不覚。珍しく隙をみせて36連勝でストップ。とはいえ朝青龍の35連勝が平成では最高で、この双葉第二の記録も軽視できない。19年夏は9勝1敗も全勝羽黒山に譲る。秋場所はいよいよ戦況悪化で上位陣も総崩れ。双葉山は自ら鍛えた東富士に敗れ途中休場。このとき引退を決意したともいわれる。非公開で行われた20年夏、初日相模川を寄り切った双葉山は2日目から休場。不戦敗にもなっていないのは体調不良のためあらかじめ初日のみ出場と決まっていたためである。終戦後はじめて行われた、11月場所。食料難で皆体調など最悪、さらに進駐軍の圧力で土俵が16尺に拡張されたといわれる混乱の場所。双葉山もアメーバ赤痢で休場し9日目引退を発表。16尺土俵への抗議と噂された。無敵双葉の引退は日本の敗戦ムードを象徴した。 打っ棄り双葉の頃は二枚蹴りなど動き回っていたが、連勝に入る頃は右四つの完成された型で磐石の相撲。左上手を取って右おっつけ、差して返す。こうなると誰もが勝負の先を見通せた。隙のない寄り身、そして上手投げと自由自在。立合いは生涯一度も待ったがなく常に受けて立った。実は双葉山は右の視力がほとんどなく立合い右に動かれると対応できないためにいつでも受けるということで弱点を隠したと伝わる(本人は心の眼を開いたと述懐する)。時間制限など甘い時代、何度でも仕切りなおし、竜王山が一度目で立った奇襲にも動じず受けた。ただし受けるとは言っても相手より踏み込みは鋭かったという。まさに後の先を制する立合い。櫻錦に蹴手繰られて落ちたときは騒然となり、右目が悪いのではとの説が流れたが、誰も確証は持てなかった。実際右目はやや白濁してしたそうだが、逆に相手が神眼だと恐れたというからおもしろい。
第36代横綱羽黒山 優7 双葉山の弟弟子、立浪三羽烏と謳われた。序ノ口から各段を優勝して突破、史上初の全階級制覇を成し遂げた強豪横綱。大双葉の陰に隠れたが、その引退直後の混乱期に4連覇、足掛け12年38歳まで横綱を張った鉄人である。 あっと言う間に番付を駆け上がった羽黒山は幕内でも大活躍。6場所目に早くも大関へ。16年連続14勝と充実し、夏は初優勝、横綱昇進へ。 横綱羽黒山は13勝以上の好成績を挙げるが対戦のない双葉山がそれを上回る成績で17・18年を4連覇。19年夏10戦全勝でようやく横綱初優勝。そして終戦後、双葉引退の20年11月から羽黒山の時代が開く。連続で全勝優勝し、3年越しに32連勝を記録。22年も連勝こそ止まったが6月11月と制し4連覇。6月には初めて優勝決定戦制度制定され、いきなり4人で決定戦となったがこれを勝ち抜いた。しかし羽黒黄金時代はアキレス腱断裂の大怪我で瓦解した。3場所連続休場し、復帰後も思うような成績が残せず実に4年間賜杯から遠ざかったが、27年突如として復活、千秋楽1敗の千代の山に貫録勝ちで全勝優勝。その後は燃え尽きたように休場を繰り返して引退した。 羽黒山は双葉とは正反対の剛の力士として名を残す。初期は向こうずけの体勢で寄ることが多かったが、次第に横綱らしく胸を出して怪力でねじ伏せる豪快な相撲になった。胸を出しても「一枚あばら」と恐れられた厚い胸板は非常に固く相手もなかなか頭から当たれなかった。突き押しも強烈、上手を引きつけて寄り、吊り、投げと自在。弱点は体が硬いため下半身のケガが多く、柔の双葉山のような安定感には欠けたことか。 第37代横綱安芸ノ海 優1 双葉山の69連勝を止めた英雄として一躍名を馳せ、勢いに乗って横綱にまでのぼりつめた。近代スピード相撲のはしりとしてその取り口は語られている。戦争による欠乏の影響をモロに受けて活躍できなかった悲劇の横綱でもある。 13年入幕し好成績で上位へ。運命の14年1月は前頭3枚目に躍進し上位初挑戦だった。打倒双葉を狙う名門出羽海部屋の秘密兵器と目される。初日小結羽黒山を破るが2日目、3日目と連敗。いよいよ第4日目、初顔の双葉山戦。双葉山は場所前この新鋭に稽古を付けようとしたが諸事情で相見えずぶっつけでの対決。そして世紀の番狂わせを起こして70連勝を阻んだのだった。この場所こそ負け越したが、翌場所から連続10勝、15年夏14勝で優勝。大関昇進となった。17年、13勝を続けて大関4場所で横綱昇進。 安芸ノ海は横綱としてより、やはり双葉を止めた力士としての印象が強い。勿論その殊勲の衝撃の大きさもあるが、横綱としての実績が期待に沿うものではなかったからであろう。太刀山の連勝を止めた栃木山のように名人横綱を期待された安芸ノ海だが、戦時下で大陸を巡業した際マラリアを患い再発に苦しむ。右足、腰も痛めて本来の相撲が取れず休場勝ちで、20年6月は1敗で惜しかったものの優勝を争ったのはこの場所くらいで、11月はやせ細って負け越し(以後横綱の皆勤負け越しは平成の大乃国までない)。21年11月を全休し引退した。 安芸ノ海は、のち三重ノ海がそっくりの相撲(顔、四股名も)をとったとして伝えられる。立合い突っ込んで突っ張り、前傾で左右から片方差しておっつけたり前褌を取って寄り、出し投げ。スピードが身上で動いて機を見て外掛けを繰り出した。得意は左差しで下手投げも武器。「動」の相撲で、「静」の双葉山には結局1度しか勝てなかった。 昭和14年1月4日目 双葉山戦 立合いから突っ張り合いから左四つ、上手の取れない双葉山は右から掬うが、その刹那安芸ノ海は左外掛け。出羽の稽古で参謀笠置山が分析した双葉のウイークポイント・右足を狙い通り攻めた。双葉山は右目が悪いこともあったのだろうかこの強襲に反身になり、それでもなお体を入れ替えようとしたが及ばず崩れ落ちた。 第38代横綱照国 優2 「動く錦絵」、「桜色の音楽」、などと形容された人気横綱照国。平蜘蛛型の立合いから重心低くリズム感あふれる取り口で前へ出る名人芸。戦中戦後の混乱期に横綱を張り、長く「優勝のない横綱」の汚名を背負ったが、力士生活晩年に悲願を達成した苦労人。 入幕から2ケタ勝利を続けて6場所目に大関。入幕早々からこの好成績は年2場所時代とは言え今の白鵬をしのぐ。大関も12,13番と勝って双葉山と並ぶ2場所突破。双葉山を下手投げに破った一番が評価された。17年5月場所後安芸ノ海と同時昇進となった。 新横綱で14勝するなど安定して連続2ケタを続けたが、戦争の激しくなった19年から調子を落とす。故障や病気が出だして休場がち。7年あまり優勝のない横綱に甘んじたが、25年9月に決定戦で吉葉山を破り初優勝。すると続く26年1月はまたも吉葉山とデッドヒートの末、全勝優勝。優勝できないダメ横綱が一転して連覇、しかも戦後15日制下初の全勝である。翌年依然痛めた左に加え右の膝も故障してまた病気も出ては老横綱には苦しく28年1月限り引退した。 下からモチャモチャと押して出て、さっと二本差したり前褌を取ったりして寄る。流れが良くて、さらに重心低く前傾であり思わず相手は引いてしまう。押されても柔かく暖簾に腕押し、廻しも伸びて相手としてはこの上なく取りづらい力士だっただろう。音楽のように快い流れの中から吊り、外掛けも飛び出した。 昭和26年1月千秋楽 東富士戦 立合い、いつもより頭を下げずに体当たりのようにぶつかった照国、頭で当たった東富士に当たり負けせず二本差し。速攻で一気に寄って快勝。巧さだけでなく立合いの強さをみせつけて連覇を全勝で飾った。
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