昭和名力士 |
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第39代横綱前田山 206勝104敗39休 優1 闘志の権化と呼ばれ、張り手論争を巻き起こすほど荒々しい相撲。大関在位苦節9年にして横綱昇進。異例の但書付免許で有名、不安的中で不祥事から引退に追い込まれたお騒がせ横綱だった。年寄高砂としては、高見山を育てて相撲国際化の道を開いた。 佐田岬の四股名で取った若いころから狼藉を繰り返し、脱走して革新力士団に加わったりもした。十両時代右腕に骨髄炎を患い、骨を削る大手術を成功させた前田博士にちなんで前田山と改めた。三段目に落ちて荒れ、喧嘩で破門されたりもしたが、本気になると一気に躍進、入幕3場所目新小結で11勝2敗、関脇を飛び越して大関という歴史的なスピード出世を果たす。安定して2ケタを勝っていたが苦手も多くて星は残せず、双葉山時代にあって優勝は遠かった。戦争で興行日数が短縮されると急に好成績を残し始め、19年11月初優勝。スタミナが不足していたのだろうか。20年は体調が整わず綱とりは失敗したが、21年11月、22年6月と好成績を続けて戦後初の横綱となった。 大関には昭和最長の9年余り在位したが、横綱在位はわずか6場所。勝ち越した皆勤場所が2場所、4場所が途中休場と奮わなかった。24年10月大阪場所、5連敗を喫して途中休場中に、年寄高砂との二枚鑑札の身でありながら東京・後楽園に野球観戦、大リーグ・シールズ監督と握手。新聞に載って大問題となり、再出場の意向も却下されて詰め腹を切らされる形で引退。 前田山は細身の体ながら持ち前の気迫で激しい突っ張り、のど輪。張り手に入って相手を威嚇した。16年はこの張り手からの攻めでで立浪三羽烏を総なめ。組んでは吊りや派手な投げもあり、打っ棄る腰も粘り強かった。双葉山にも組み負けない差し身の良さで、再三もろ差しを果たして慌てさせた。 昭和16年1月13日目 双葉山戦 前日羽黒山に猛烈な張り手を見舞って勝ち、この日も大横綱に対して全く遠慮せず張りまくり、自分得意の左四つに組むと、「玉砕的な吊り」で反り身のまま振り捨てる。微妙な判定だったが軍配を受け(死に体ではない)、優勝争いを盛り上げたが、連日の容赦ない張り手の是非を巡って論争が巻き起こった。双葉山戦はこの1勝だけだが、水入り、取り直し各2回と打倒双葉の執念を見せた。 第40代横綱東富士 261勝104敗2分54休 優6 当時としては圧倒的な体力を誇った巨豪横綱。気風の良い「江戸っ子横綱」と呼ばれて人気があった。引退の時もまだ地力がありながら栃錦の横綱昇進のため、譲るように去った好漢。部屋を転々としたが、双葉山に目をかけられて強くなった。 13歳での入門とあって番付に乗るまで2年もかかったが、その後は順調に番付を上げる。19年11月横綱双葉山に最後の黒星をつける恩返し。20年11月大関。成績はムラがあったが23年優勝・優勝同点と続けて横綱に推挙された。まさにとんとん拍子の出世。 24年1月は新横綱で優勝。その後も横綱として文句ない活躍を見せた。群雄割拠の時代にあって、優勝はきっちり年1回のペース。実力は一番上と見られたが、結局連覇も全勝もなく、一時代を築くという期待には及ばなかった。晩年はもともと良くなかった下半身に故障が続き、6回目の優勝の後は4場所連続休場で、29年9月を最後に引退。程なく廃業してプロレスに転向した。 「怒涛の寄り身」と称された左四つ出足早の寄りが武器。巨体で胸を合わせてのがぶり寄り、さらに相手が踏ん張るところをつぶすような右上手出し投げを覚えて幅が広がった。当時の最重量横綱のがぶり、上透かし気味の「重い」出し投げは破壊力抜群。 江戸っ子気質でムラが大きく淡泊なところがあると言われているが、吉葉山との死闘は有名。高熱を出しながらの強行出場で、取り直しの後水入りの大熱戦、またも同体取り直しとなったが東富士の状態を見た検査役の判断で勝負は預かりとなった。東富士の闘志と預かりを了承した吉葉山の男気が賞賛される名取組だが、審判部こそこういう柔軟な判断を教訓としなければならない。近年一方力士が負傷しながら取り直しに挑む場面が何度か見られている。 第41代横綱千代の山 366勝149敗2分147休 優6殊1敢1金3 激しい突っ張りで魅せ、戦後の角界を支えた人気横綱。横綱返上騒動など不振の時期もあったが晩年は膝の故障にも苦しみながら8年間綱を張った。引退後も出羽海からの独立騒動を乗り越えて横綱北の富士を育て、千代の富士をスカウトする名伯楽ぶりを発揮した。 終戦直後の昭和20年11月、千代の山は鮮烈なデビューを飾る。新入幕で10戦全勝。羽黒山の上位者優勝となったが、その存在を十分アピールした。三役で少しもたついていたが24年関脇で準優勝の12勝、小結は1度もなく大関昇進となった。新大関としていきなり優勝、翌場所も制して連覇。現在なら即横綱の声がかかりそうだが、前田山問題など横綱に対する批判が高まっていた時期と重なって、運悪く見送られてしまった。少し低迷したが、26年5月大内山に敗れただけの14勝の優勝で晴れて横綱昇進となった。 ムラが大きく、またなかなか横綱として優勝できないプレッシャーからか不振に陥る。28年は3場所連続休場となって横綱降格も願い出るほど。これは退けられたが大きな話題となった。四股名も「ノ」を「の」に改めて心機一転の29年ようやく安定しだし、30年1月、時津山との決定戦を制し横綱4年目でようやく優勝を果たした。波に乗って翌場所も今度は大内山との決定戦の末連覇を飾る。その後は膝の故障に苦しんで休場が増えたが32年1月には初めて全勝優勝した。しかし怪我持ちのベテランには酷な年6場所制(九州、名古屋の本場所昇格)もあって故障が頻発、34年1月引退となった。 190センチの長身、筋肉質の体は鉄骨やぐらの異名を取った。猛突っ張りが武器で、相手を寄せ付けない激しさ。同門の稽古相手栃錦はおかげで歯がボロボロになったという。立合いからの突きで吹っ飛ばす出足で圧倒する取り口は、太刀山の「四十五日の突っ張り」を越えたと呼ばれた。体で当たりながらの突き放しも強烈だった。また、いっぺんに突き切れなくても、左上手から長身を生かした上手投げも強かった。ところが、あと一番というところで取りこぼすなどもったいないV逸が多かった。気があまり強くないことと、あまり太れなかったことで、期待された大横綱には成り切れなかった。
第42代横綱鏡里 360勝163敗28休 優4殊1敢1金2 自慢の太鼓腹を活かしたどっしりした相撲で活躍した、双葉山道場仕込みの横綱。その引き際にも気風の良さが表れている。 応召されたが戦後十両昇進、22年入幕して徐々に力をつけ、24年10月は2金星を挙げ12勝の大活躍。殊勲敢闘を得た。小結を飛び越して新関脇、4場所で大関に推挙された。ずっと2ケタの安定した成績を残し、大関6場所目の28年1月14勝1敗で初優勝、横綱に昇進となった。昇進を巡っては否定的な意見もあってゴタゴタした。 横綱となって2年間は不調で優勝がなかったが30年9月から連覇。31年9月にも4度目の賜杯。このころが全盛期か。32年は、2度の休場など優勝なく、そろそろ晩年とささやかれていた。鏡里は休場明けの33年1月「10勝できなければ引退」と公言して奮戦。13日目6敗となるが、横綱相手に連勝。しかし公約どおりに潔く引退した。 巨体を活かしての寄りが横綱らしい。もともと突っ張りで出世したが、若いうちに右膝を痛めてこれは晩年まで響いた。そのため激しい動きを避けて四つに転向。左四つから右四つに変えてどっしりした相撲を取るよう心掛けた。横綱時代はその取り口の印象に反してムラのある成績。多少慌て癖があって自分の相撲が取り切れないきらいがあったようだ。が、良い時は横綱相撲で、4度の優勝全て14勝の好成績。栃若に強かったことも有名。 第43代横綱吉葉山 304勝151敗1分85休 優1殊3金2
色白の美男子、悲運の力士として人気の高かった大型横綱。豪快な取り口が魅力だったが、横綱としては優勝できずに「悲運の横綱」となってしまった。 順調に出世しながらも十両目前で召集されて大事な時期を棒に振ったばかりか右足に貫通銃創を受けた。胃袋と呼ばれるほど大食して痩せた体を回復させ、22年ようやく入幕。照国から2金星を挙げるなど上位キラー振りを発揮。25年に入って急成長。3連続殊勲賞を受賞した。9月新関脇で同点決勝まで進む。そして26年1月、連続の13勝を挙げて晴れて大関昇進。大関としても好成績を続け28年5月は自己最高の14勝、しかし平幕時津山が全勝(当時は下位力士が好成績でも割りは崩されず上位力士と対戦させなかった)で初優勝ならず。翌場所は11勝に留まり綱取りならず。が、29年1月 初日から勝ちっぱなしで千秋楽。1差の鏡里を下して全勝優勝。横綱に推挙された。 横綱吉葉山は、なかなか調整がままならずいきなり連続休場という不安なスタートを切った。30年に入っても故障がちで休場続き。31年9月は2敗で千秋楽を迎え、鏡里との横綱決戦にもつれ込んだが及ばず。これが横綱として最も優勝に近かった場所で、不振が続いていた。そして33年1月黒星が先行して9日目無念の引退。故障が尾を引いて相撲ぶりも安定感を欠いた。栃錦に強かったのがせめてもの綱の意地だった。 豪快な取り口。突き押しで先手を取り、上手を取って寄り、吊り、投げ、捻りと力強い。立合い、体に似合わない器用な蹴返しも持っていた。 昭和29年1月千秋楽 鏡里戦 全勝対一敗の決戦。吉葉山は得意の左四つとなって腕を返した吉葉山、腰の重い鏡里懸命に残す。廻しを与えず、再三寄りに寄った吉葉、苦しくなった鏡里が右巻き替えを狙うところをついに寄り切り。力相撲を制した吉葉山、全勝で初優勝を飾り、横綱昇進を決定づけた。大雪の中のパレードは大盛況、大勢のファンが苦労人の開花を祝福した。第44代横綱栃錦 513勝203敗1分32休 優10殊1技9金1 近代相撲の開祖とされる名人横綱。しぶとく多彩な技の数々でマムシの異名を取り、30近くなって師匠栃木山譲りの技能相撲を身に付けて横綱へ駆け上がり、栃若時代を築いた。潔い引き際や、理事長としての功績なども称えられる。 戦争中の混迷を乗り切り、初土俵から8年目の昭和22年新入幕。体は小さかったが、多彩な技で技能賞の常連となる。巨漢揃いの上位ではなかなか三役定着とはいかなかったが、26年1月、7連敗8連勝という珍記録で三役復帰をすると、続く年5月からは三役で5場所連続技能賞の活躍ぶり。27年9月は初優勝を飾り、大関昇進を決めた。 勢いに乗って大関2場所目で2度目の優勝(この場所、伝説の栃若水入りの大熱戦、元結が切れた)。翌場所13勝2敗の好成績を挙げたが、全勝に平幕時津山、1敗吉葉山といたため不運にも横綱昇進は見送られた。しばらく不振に陥ったが、29年5月9月と14勝で連続優勝。ついに横綱昇進を決めた。時に29歳、入門から16年。すでに4横綱がいたが、東富士引退で5横綱とはならなかった。 ところが、新横綱場所は体調を崩し途中休場、4場所2桁に届かない有様で、年齢も30歳、ダメ横綱のまま引退の危機を迎えた。ようやく横綱として初めての優勝を飾ったのは昇進から9場所目。まだ安定しているとは言い難かった。33年、若乃花が横綱に昇進、一方の栃錦は苦しい土俵を強いられていたが、34年には復調。栃若時代という相撲黄金期を築いていく。34年3月からの7場所で90勝10敗と大横綱級の安定感を発揮、ハイレベルな優勝争いを繰り広げた。ところが、栃若全勝楽日相星決戦に敗れた翌場所、栃錦は初日から連敗すると、突然引退を発表。35歳とは言え、黄金時代の真っ只中、「桜の花が散るが如く」惜しまれながらの引退劇だった。特例として二枚鑑札で春日野部屋師匠となっていたが、親方職に専念、早々と横綱栃ノ海を育てるなど隆盛を誇り、理事長としても両国新国技館建設という夢を実現した。 栃錦は出し投げの名人として知られる。浅い上手から、アゴを使って相手の差し手を極め、体を開いて出す。さらに頭を押さえ付けるから、相手はたまらず土俵下まで転がり落ちるほどの威力だったという。相手の懐に入れば多彩な技を披露。二枚蹴りなどの足技も冴えがあった。たすき反りまで決めている。平幕のころはマムシらしい機敏な動きから、このような変幻自在の技能で活躍していたが、大関横綱へ駆け上がる頃には体が大きくなり(最終的には140`くらいまで)、正攻法の相撲でその技能を発揮。師匠栃木山はおっつけで出る押し相撲の名人だったが、同じように廻しに手を掛けず、スピードと押しの技能で前へ出る相撲が中心となっていった。近代相撲の開祖と呼ばれる由縁は、昔ながらのゆったりした四つ相撲に代わって、栃錦以降このようなスピード相撲が相撲の基本として中心に据えられるようになった事にある。栃錦一人で完成させたというよりも、先代栃木山、弟子栃ノ海の3代に渡って熟成させたといった方が良いかもしれない。 昭和30年3月千秋楽 大内山戦 すでに優勝が決まっている栃錦だが、この状況で伝説の死闘となった。巨人大内に対し、もぐりこむことに成功した栃、モロ差しになったが、大内、閂に極めた。これでは苦しい栃、二枚蹴りを見せて掬い投げで両者の体が離れた。今度はリーチの長さを活かした大内の攻勢、アゴのあたりへ上突っ張りを繰り出し、たちまち栃、正面土俵に詰まるがしぶとく跳ね上げ、回り込むとふたたびモロ差しを狙う。嫌った大内、右からハズに起こしにかかったところ、栃思い切って左で首投げ。虚をつかれた巨人、小兵の腰に乗り上げて、大きな放物線を描いて背中から落ちた。小よく大を制すの好一番。両者の持ち味が如何なく発揮され、攻防のある名勝負として語り草になっている。一度カラー映像で見てみたい。 第45代横綱若乃花 546勝235敗4分55休 優10殊2敢2技1金6 様々な伝説を残した土俵の鬼。小兵ながら豪快な技で人気を集め、栃若黄金時代を築いた。昭和、平成の相撲界に燦然と輝く花田家の元祖である。 「栃若」とは言われるが、若乃花が入門したのは7年も遅れた戦後の昭和21年。25年昭和生まれ第一号の新入幕。しばらく平幕の上位につけていたが、栃錦が技能賞を常連だったのに対し、若は敢闘賞2回殊勲賞2回で技能賞は1度だけ、と対照的。小部屋で勢力が弱かったため、横綱戦が多くて金星は多いが、三賞は少ない。28年1月は3横綱から金星を奪いながら見送られた。29年30年と三役定着。成績は大したことはなかったが、安定感と1年で3引き分けという内容の濃さも評価され31年から大関へ。直前3場所28勝2分という大関昇進時の最低成績を、のちの名横綱がマークしている点に、近年の厳しい基準への疑問が浮かぶ。地位が力士を作るとは言うが、若乃花は新大関場所で自己最高の13勝。その後、大関在位10場所全てで2ケタ勝利を挙げている。毎場所優勝争いに加わった若乃花は、5月、ついに初優勝。ところが綱取り場所を前に愛児を失い、数珠を身につけて場所入り。鬼神のごとく12日間勝ちっぱなしたが、高熱に倒れて好機を逸した。このあたりから土俵の鬼という異名が定着したようだ。33年、2度目の優勝。前場所12勝でこれまた成績は微妙ながらも横綱へ昇進した。 大関としては安定していた若乃花だが、13勝2回が最高だった。だがやはり横綱という地位にふさわしい成績を収める。3場所目の33年7月には早くも優勝を飾ると、自身初の14勝で連覇、第一人者の地位に躍り出た。この優勝から14場所間のうち8回を制するという圧倒的な強さを発揮した。34年になると栃錦が復活、ハイレベルな優勝争いとなったが、やはり身体的に充実期の若乃花が優勢だった。栃錦の突然の引退で若乃花の強さは益々極まるかと思われたが、全盛期は長く続かなかった。連覇の後、腰の故障などで衰え始め、柏鵬の台頭に押されて賜杯から遠のいた。そして37年5月引退を発表。その後は二子山部屋を率いて、弟・大関貴ノ花ら2横綱2大関を輩出し、理事長としても活躍した。 若乃花は「異能力士」の称号どおり、100キロそこそこの小さい体ながらも豪快な力技を得意とした。特に頭をつけるようなこともせず、胸を出して受け止めての相撲。「技の栃、力の若」と比較された。軽量を突かれて後退しても、土俵際「かかとに目がある」と呼ばれたしぶとさで、俵に足が掛ければテコでも動かなかったという。栃錦によると、若乃花の膝はどんなに攻められても必ず曲がって余裕があったという。絶体絶命からの打っ棄りで行司を泣かせるのは一族の家系。得意は左四つ、上手を取れば十分で、引きつけての上手投げが十八番。やぐら気味に振り回したり、吊り気味に強烈な二枚蹴りも見舞った。あまりにも有名な呼び戻しは、実は右の差し手からの技である。呼び戻しが決まるときはいつもと反対の右四つとなって決めていたのである。真っ向勝負の力技・大技が目立つが、勝負どころでは立合い変わって上手を取り様の投げも有効だった。 昭和35年3月場所千秋楽 栃錦戦 史上初めて全勝横綱同士が千秋楽相星決戦を戦うことになった。それもまさに栃若と呼ばれた両雄の決戦。しかもこれが栃若最後の対決となったのだから、本当に最高の決戦といえる。相撲は両者十分の左相四つがっぷり。激しい動きの応酬にはならなかった。こうなっては「力の若」が有利である。若乃花は十分と見て動かない。栃、内掛け、吊りと牽制するが体勢変わらず。土俵中央動きが止まる。パリ帰りの栃錦、14戦全勝とはいえ稽古量では分が悪いのを自覚している。長引いてはさらに苦しい。一か八かの勝負に出た。左差し手を抜いて上から若の右上手を切りにかかったのだ。賭けは凶と出た。豪腕若、廻しを離さず、モロ差しとなって2度3度持ち上げるように寄り、ついに雌雄決した。若乃花、生涯唯一の全勝優勝である。 第38代横綱朝潮 431勝248敗86休 優5殊4金7 太い眉毛、胸毛、仁王像のような風貌。人呼んで「大阪太郎」。成績にはムラがあって「強い朝潮、弱い朝潮が二人いる」と言われてしまうほどだったが、3月大阪場所では抜群に強く、優勝5回中4回を浪花の春に飾っている。 占領下の奄美から密航して入門という物凄い経歴。大物との期待通りスピード出世し、26年1月本名の米川で入幕。高砂部屋伝統の四股名(男女ノ川以来)・朝潮を受け継ぎ、三役定着。28年には大関目前に迫ったが、伸び悩む。上位キラー振りを発揮するが、取りこぼしも多くて星が安定しなかった。「朝汐」とした31年には大阪で初優勝。しかし8勝どまりが続いて関脇に据え置かれ、1年後の大阪場所、再び賜杯を手にした。ここに大阪太郎伝説が始まった。現在なら当然の見送りだろうが、1年越しの合わせ技で大関に推された。 大関として安定感を増した朝汐は、33年3月大阪場所3連覇。最初の綱取りは腰痛で逃したが、同年11月九州でも優勝、これを起点に34年3月大阪、4連覇は逃したが期待通りの活躍で横綱昇進となった。29歳。 横綱となっては腰の具合が悪く、早速3場所連続全休するなど不本意な土俵が続いた。栃若の陰に隠れ、2ケタ勝つのがやっとであったロートル横綱が突如復活したのは、36年、やはり大阪場所であった。ようやく横綱初優勝を、思い出の場所で果たした朝潮だが、すでに限界だった。37年1月引退となった。 肩幅広く、胴長の体形、大きな手と力士の素質抜群の体格。長身ながらよく腰が下りて重心低く、前傾体勢で右上手を取って左ハズで出るのが必勝の型。「ニワトリを追うような」と表現された相撲で横綱にまで昇りつめた。突き押しも強烈で、押し相撲の力士としても評価される。のどわ、はず、おっつけで押し込みながら右上手を掴む流れが力強い。上手からの投げもまた強烈。これで安定感があれば恐ろしく強い横綱だったに違いない。 昭和36年3月場所13日目 大鵬戦 すでに栃錦引退。若乃花休場で一人横綱の朝潮だが、実力は大関の柏鵬が上と見られていた。しかし大阪太郎は健在だった。1敗で単独トップに立ち、2敗の大鵬戦。張差しにも動じず得意の右上手を引いた朝潮は、大鵬の右も封じる。そして巨体を屈めて頭を付け、最後は左ハズで出て豪快に押し倒し。横綱の意地を見せて新鋭に快勝、柏鵬を振り切って最後の栄冠を手にした。
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