昭和名力士
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第47代横綱柏戸 優5 柏鵬時代の一方の雄、攻めの柏戸。剛の柏戸。「角界のサラブレッド」と称された、鋭い出足の速攻相撲で人気があった。大鵬とともに栃若時代の後を期待され、怪我が多くて実績では水を開けられたが横綱を47場所の長きに渡って務めた。 十両では「七人の侍」の優勝決定戦にも進出して未来の横綱と期待を集め、昭和33年9月、19歳で幕内デビュー。若秩父らと「ハイティーントリオ」で売り出した。34年3月、その名を富樫から伊勢ノ海部屋所縁の「柏戸」(以後この四股名を名乗った力士はいない)に改めると、名前負けどころか13勝の大活躍。9月には上位で12勝して三役に躍進、そして35年を迎える。1月、新入幕大鵬の12連勝を阻み、見事ストッパーの役割を果たす。この一番が柏鵬時代の幕開けとなる。翌場所関脇に上がった柏戸は、9・10・11勝と積み重ねて大関に推挙された。初優勝は大鵬(2場所遅れで大関に)に先を越されたが、その翌場所36年1月、ライバル大鵬を圧倒、若乃花を振り切り、琴ヶ濱との相星決戦を制して初優勝を成し遂げた。綱取りの3月、大鵬・優勝した朝潮を破るが12勝で見送り。翌場所は中盤で脱落してしまった。続く7月は14日目1差でトップの大鵬に破れ11勝どまり。そして9月、3敗から巻き返すと大鵬を引きずり下ろして優勝決定戦に持ち込み、巴戦で惜敗。連覇の大鵬が横綱昇進を決めたが、この時、大鵬が上がるなら実力は互角以上(対戦成績7勝3敗)の柏戸も、との声が上がり、すでに定着した「柏鵬時代」のムードも手伝って同時昇進となった。5場所から優勝、準優勝から2ケタを下っていないということで安定感が評価されたのか、その辺りの事情はわからないが、世論が大きく昇進に関わっていた時代だったのだろう。今日からは考えられない、10・11・12勝で優勝の含まれない綱取り成功である。 期待された地力で甘めの昇進との評価を吹き飛ばしたいところだったが、青年横綱柏戸は安定して二ケタは残すけれども大鵬の充実振りの前に全く賜杯に見放された。さらに38年は右腕を壊して4場所連続休場。独走する大鵬と残酷なくらい明暗が分かれてしまった。ところが、信じられないドラマが休場あけの柏戸に待っていた。あれよあれよと言う間に14連勝した柏戸、千秋楽栃若決戦以来史上2度目の楽日全勝横綱相星決戦も制して横綱として初、自身初めての全勝優勝を飾ったのである。翌年3月にも再び千秋楽全決戦を演じるなどようやく柏鵬時代らしくなってきたかと思われたが、その翌場所全勝街道の中突今度は左腕を故障。6場所連続休場の憂き目に遭った。40年5月、ようやく皆勤したが9勝どまり。7月も序盤で2敗して愈々前途が危うくなってきたが、良く粘って大鵬を下すなど12勝。9月は上位陣総なめの12勝で巴戦進出、連勝で復活優勝を果たした。ここからがようやく柏戸の全盛期と言えるかもしれない。41年から42年は1場所除いて安定して2ケタを勝ち、優勝2回。ほぼ毎場所場所優勝を争ったが、大鵬の前に屈する廻しに手をかけての寄り身を多用して安定感が増し、故障も減った。このあたり、後の曙とよく似ている。43年に入ると、急に衰えが見られてクンロク横綱化、若手大関陣に苦戦し、2ケタがやっとという感じになってしまった。それでも横綱の晩年は休場がちになるものだが、しっかり皆勤を続け、44年7月序盤で連敗したところで長い横綱時代に終止符を打った。晩年は怪我よりも糖尿病などの病に苦しんだ。ここに柏鵬時代は終焉。大鵬戦は16勝21敗。 柏戸の持ち味は豪腕を活かした怒涛の突き押し。突っ張りからのど輪押し、おっつけで一気に走る豪快な速攻で相手に相撲を取らせなかった。出足に任せての寄りも鋭かったが、体が硬いこともあって腰高で強引に出るため、打っ棄りもよく食った。粘り腰の北葉山などによくやられた。そして、それは同時に故障も呼び込こんだ。まさにサラブレッド。後年、絞りやのどわを多用していた左で前褌を引き、右おっつけ・ハズの形での速攻を多用して円熟の相撲を取った。投げ・引きに頼らない前進相撲は、近年の押し相撲全盛時代でもなかなか見られない。しかし決して技がなかったわけではなく、大鵬との初顔では熱戦の末にタイミング良く下手出し投げを決めている。大鵬に外掛けを決めたこともあった。勝ち負けを度外視した、とまでは言わないが、あえて真っ向勝負の「剛」の相撲に徹したのだろう。 昭和38年秋場所千秋楽 大鵬戦 4場所連続休場、連続全休明けの柏戸は、まさかの14連勝。対するは6連覇を達成した大鵬、こちらも全勝で千秋楽決戦となった。史上2度目の全勝横綱千秋楽相星決戦。攻めの柏戸守りの大鵬。しかし柏戸の出足を受け止め、前に出たのは大鵬。あっという間に西溜りに詰まった柏戸だが、下がりながら左上手に手が掛かった。これを引きつけて残した柏戸、逆に俵をキックブロックのように反動を使い、左上手ひねり気味に正面土俵へ反撃、一気に寄り切った。これまで13勝が最高だった柏戸は、絶体絶命の窮地で初の全勝優勝で大復活を遂げた。 第48代横綱大鵬 優32 今も燦然と輝く32回の優勝を記録した大横綱中の大横綱。巨人大鵬玉子焼、と流行語になるなど人気も絶大。10年近く第一人者の座にあり、45連勝も記録。年少記録から最多記録まで、大記録を一通り塗り替えた。 入門時の細い体があっという間に大きくなり、4年弱で入幕。新入幕の35年1月、19歳の若者が初日から11連勝。一気に注目が集まった。柏戸ら三役陣に敗れたが、千秋楽まで横綱栃錦と優勝を争った。翌場所4日目栃錦(年の差15歳)と最初で最後の対戦、出足に圧倒されるなど上位の壁に苦しんで1点の負け越しだったが、これが生涯2度目にして、最後の皆勤負け越し。翌場所からは負け越しどころか10勝以下さえなくなる。11勝で三役昇進、さらに11,12と積み重ね、11月場所は混戦を14日目抜け出すと、千秋楽北葉山を豪快に吊り出して初優勝。見事なスピード出世で35年中に大関昇進を決めてしまった。36年は柏戸に合口が悪く、速攻の房錦・富士錦や開隆山、岩風にも苦しめられて取りこぼしていたが、7月・9月と連覇。13勝、12勝での優勝だから横綱昇進時の成績としては低い部類に入る。昇進基準を厳しくすることが強い横綱を生むことにはつながらないという好例である。前年栃錦の引退に続き、若乃花・朝潮の横綱陣も衰えを隠せず、時代が柏鵬を待ちきれなかったこともあって柏戸との同時昇進となった。初土俵からわずか5年。 新横綱場所も柏戸・若乃花を退けて制した大鵬は4連覇を成し遂げた。しかし取りこぼしもまだ多く、まだ14勝以上していない。37年7月、初めて14勝を挙げて6回目の賜杯を手にすると、ここから史上初の6連覇。6連覇目は全勝で圧倒的な強さを見せ付けた。39年1月から連続全勝、34連勝を記録。39年、40年は故障などもあって少しスキが見えたが、20代後半に入った41年3月からは再び6連覇。最後の2場所は連続全勝でまた34連勝を記録。ますます強みを増していた。しかし左肘を故障して苦しむ。連続途中休場のあと、稽古中に左膝を故障してこれが重傷で長引いた。43年9月が5場所連続休場明けの再起の場所だったが、初日栃東に電車道に寄り切られる惨敗。力士生命の大ピンチに立たされたが、以後半年に渡って大鵬は負け知らず。鬼門の35連勝目もクリアすると、8度目の全勝(史上1位)で44連勝。44年3月、初日藤ノ川を下して45連勝。しかし2日目、新鋭戸田の突き押しに後退、叩いて土俵を飛び出した。軍配は大鵬、が、物言いがついて行事差し違えの判定。しかし戸田(のち羽黒岩)の右足が叩かれた拍子に蛇の目を掃いていた。審判長春日野曰く「ご飯が炊けるくらい」の抗議の投書が殺到した。この事件をきっかけに他のスポーツに先駆けてビデオ判定を導入したのは有名な話。体調を崩していた大鵬はこの場所途中休場。翌場所30回目の優勝をしたあたりはさすがに休場明けに強い「不死鳥・大鵬」だったが、以降は故障がちで力は衰えていった。それでも北玉時代と言われる中で十分存在感を示した。45年5月は北の富士の全勝を阻み、11月、46年1月は玉の海の全勝を阻んだ。玉の海戦はいずれも1差で追いかけており、1月は決定戦も水入りの熱戦の末に制して逆転で32回目の優勝。翌場所もまた1差で玉の海を追ってこれは敗れたが準優勝。まだまだ活躍できそうだったが、5月5日目小結貴ノ花の外掛けからの寄りを突き落としでしのいだが、尻餅。この一番が最後の取組となり、引退を発表した(本人は翌日も取るつもりだったという説もあるが)。 大鵬の相撲は負けない相撲。いわゆる横綱相撲で、相手に十分取らせてから自分十分に持込み、盤石の形を作ってから攻める。相手がいい形なら無理に攻めず、じっくりと自分有利になるまで守りに徹する。その苦しさを本人も認めるが、「横綱は負けられない」の信念で負けない相撲を取り続けた。立合いは腕を交差するほどにワキを固めて当たり、モロ差しに入るのが良い形。一方でも両方でも差してしまえばガバッと返して掬う。187センチの長身で柔かい横綱に腕を返されては相手はなすすべない。柔軟な体つきで相手の勢いを吸収してしまう受けも見事だった。意外と上体が硬いので、一気に押してくる相手には不覚を取ることもあった。しかし四つ相撲の力士にとってはとてつもなく重い壁、自信の稽古量で持久戦に持ち込んで制す。技能派力士顔負けの相撲の巧さで差し負けず、小兵力士は前捌きの良さで寄せ付けない。この前捌きの巧さで晩年は引き、叩きも多くなり、「アンチ大鵬」がその取り口がおもしろくないと批判する根拠となっているが、「捌き」の技が膝を痛めた横綱大鵬を延命したとも言える。また、大鵬の相撲には型がないとよく批判されたが、「コンピュータ」と呼ばれるくらいの研究熱心さで相手に合わせた相撲を取っていたためである。「負けない相撲」をベースにした「柔」の大鵬の相撲は、現在白鵬と重ねあわされる。 昭和46年1月場所千秋楽 玉の海戦 大横綱になるほど、「この人はこの一番」とは選びにくいものである。ここではあえて全盛期ではなく、最後の優勝を決めた一番を選んでみた。本割で大鵬がモロ差しでじっくり料理して、両者1敗で並び、決定戦。玉、突っ張りを見せて差し手争い。左四つから右四つとなっての攻防のあと、水入り。再開後、大鵬が上手を切る。有利な形を作った大鵬、慌てずに右下手から捻りつつ左上手投げで土俵際に運び、ついに寄り切り。決定戦に水が入ったのはこの時だけ。最晩年になってもスタミナ負けしない大鵬、円熟の相撲で青年横綱を連破。最後の優勝を勝ち取った。寄り切った後、一息ついて腰に手をあて、土俵の外を向いて遠くを見るような仕草が印象的。見つめた先は長い土俵生活の道程か。 第49代横綱栃ノ海 優3 技能派横綱として名を残す栃ノ海。小兵ながらライバル佐田の山、豊山に先んじて最高位を射止めた技能は、兄弟子であり師匠であった栃錦を凌ぐとも評された。怪我が響いて横綱としては実績を残せずに若くして引退したが、柏鵬時代にあって光る個性で土俵を沸かせ、優勝3回を記録している。 35年、本名の花田で入幕。大鵬に1場所遅れ、ちょうど22歳だった。再入幕してから実力を発揮。全休を除くと、横綱になるまで負け越し知らずの安定感だった。36年後半には三役定着。新三役で技能賞の常連となる。このころ三役には佐田の山、羽黒山、若羽黒、そして同部屋の栃光など実力派が揃い、次の大関を目指して激しい争いを繰り広げていた。37年3月、佐田の山が優勝を果たし先に大関に。栃ノ海は関脇としてはなかなか2ケタ勝てなかったが、翌5月に初優勝。この場所は大鵬、佐田の山、栃ノ海、栃光が優勝争いに絡み終盤へ。12日目、栃ノ海と1敗で並ぶ本命大鵬を、2敗栃光が破って単独トップに。そして13日目、栃ノ海は大鵬を下して大きく前進。残り2日は豊山、若羽黒を退け、1差で追いすがった佐田、栃光を振り切った。場所後、栃光と同時に大関に。 大関になって1年あまり、栃ノ海は、なかなか横綱を狙える成績は残せず、横綱昇進争いでは佐田の山や豊山、栃光の方がチャンスを迎えていたが、大鵬が6連覇中で誰も抜け出せずにいた。しかし38年の九州、見事2度目の賜杯を手にする。他の上位陣が星を落とす中、初日から10連勝の快進撃。13日目は2差の柏戸、14日目は1差の大鵬と両横綱を圧倒しての優勝。初めての綱取り場所、栃ノ海は明武谷に敗れて黒星のスタート。ところが、ここから奮起して12連勝。全勝の大鵬、平幕清國をピタリと追走。柏戸との1敗対決も制して、大鵬との決戦に挑んだ。この挑戦は退けられたが、千秋楽豊山を倒して13勝。横綱に推挙された。 新横綱栃ノ海は、いきなり2連敗と危なっかしたが、2場所目で横綱初優勝。全勝で走る柏戸が突如休場して、1敗の栃ノ海に転がり込んできたチャンス。14日目北葉山に直接対決で1差と迫られたが、千秋楽大鵬を下手投げに下して優勝決定。横綱として順調なスタートを切ったかに思われたが、翌場所は前半で4敗。持ち直して11勝したものの、2横綱休場で回ってきた一人横綱の重責に応えられず。以後、腰痛が出てひどい不成績の場所が続く。40年1月からは3場所連続で8勝に終わるなど、以後は10勝が2場所あるだけ。41年になっても状態は上向かず、3場所連続休場明けの九州場所。6日目義ノ花に敗れて4敗となって休場。引退を発表した。 惜しくも栃錦のような大輪の花は咲かせられなかったが、技能相撲で魅了し、近代相撲の開祖の位牌を継ぐ大きな役割を果たした栃ノ海。スピード相撲という点で、立合いの鋭い当たりは大きな武器となった。懐に飛び込んでのモロ差し、前褌取っての拝み寄り。速攻で体格差のハンディを乗り越えた。一気の攻めあってこそ上位で通用したと言える。もちろん小兵らしい技能も冴えたが、よどみない動きの中での出し投げ、蹴返しなどスピードに乗った中での切れ味鋭い技、という点でそれまでの業師とは一線を画す。 第50代横綱佐田の山 優6 柏鵬時代にあって、柏戸を上回る6度の優勝を飾った実力派横綱。気迫の相撲で活躍、全盛期は短かったが、その潔い引き際も印象に残る。若くして出羽海の大所帯を率い、のち理事長。 入幕3場所目。なんと佐田の山は平幕優勝を飾る。下位の好成績者はノーマークの時代とは言え、いまもなお戦後の最速記録である。36年5月、栃若から柏鵬へ時代が変わる間隙を突いて、番狂わせが起こった。優勝争いを演じていた若乃花、大鵬が終盤に星を落とすと、3敗でついていた前頭13枚目の23歳が勝ち残ったのである。前場所は全休、序盤で十両力士(十両優勝の清ノ森)に負けたという点でも珍記録だった。翌場所も上位で11勝、2横綱を食った。一気に関脇に上がった佐田の山、その地位を保って4場所目、早くも2度目の優勝で大関に。小結知らずのスピード出世である。 新大関で13勝するなど安定しており、横綱は時間の問題かと思われたが、もたついた。「乃」の字に変えるなど試行錯誤するも、終盤に上位の壁が厚く優勝に手が届かない。2年ほどの停滞を経て、39年後半にようやく実力を発揮する。9月、11月とあと一歩で大鵬に優勝をさらわれたものの連続13勝、そして40年1月。綱取りの大事な場所に、一門別から部屋別総当たりに以降するという試練が待ち受ける。早くも4日目、同門で長くライバルとして凌ぎを削り、先に横綱に昇進した栃ノ海との初対決。難しい一番だったが、これをうっちゃりで破って勢いに乗る。やはり初対決の大関栃光に土をつけられ、14日目天敵大鵬に敗れて1差に迫られたが、千秋楽豊山を下して優勝決定、悲願の綱取りが成った。 横綱2場所目で優勝を飾るなど、順調に滑り出した佐田の山だが、41年に入ると乱調、3場所連続休場と不振に陥る。復調するが、42年1月には大鵬との全勝対決に破れ14勝しながら優勝を逃すなど、長く賜杯が遠のいたていた。42年九州、2年半ぶりの優勝を果たすと、翌場所も連覇。大鵬が不在の間、柏戸を押さえてしっかりと横綱の責任を果たす。これから佐田の山が優勢な時代が来るかとすら思えた続く43年3月場所、初対戦の高見山に初金星(のちに金星最多記録を作る)を献上するなど序盤で3敗したところで突然引退を発表。連覇の翌場所になぜ身を引かなければならなかったのか。いまだに驚きの引退劇である。過去の不振の時期があったことを理由にあげているが、それほどの大不振が続いたわけでもなく、綱の責任の重さを感じてか、或いは継承問題が影響したか。潔すぎる身の引き方だった。年下の大鵬の全盛期に重なった不運もあって準優勝が多く、優勝回数こそ6回に留まったが、安定感は十分で横綱勝率はかなり上位に数えられる。引退後は若くして名門出羽海を率い、理事長に。年寄名跡などの急進的な改革を目指すが、抵抗に遭い失脚。10年以上が経ち、公益法人化が急務となった今日、ようやくその方向性の正しさが証明された。 筋肉質の体から繰り出す激しい突っ張りが武器。当時の出羽海部屋は千代の山以降突っ張りの力士が多く、武器が磨かれた。突き押し一辺倒ではなく、差して中に入っての攻めも出来たが、体がないので大鵬ら大型力士に組み止められると、健闘むなしく最後はねじ伏せられてしまった。あまり手の込んだ技はなく、突き離すか懐に入っての寄り、投げ、吊りが主な攻め手。
第51代横綱玉の海 優6 完成された右四つの型を作り上げ、双葉の再来と期待されながら、時代を作る途上で急逝した悲運の横綱。盟友北の富士とは好対照で、健在なら柏鵬に続く北玉時代が築かれるはずだった。未だに惜しまれる名横綱である。 玉乃島(新入幕場所まで玉乃嶋)の四股名で順調に出世し入門5年で入幕。40年1月には新三役。この場所から部屋別総当りとなり、初日、これまでの制度だと対戦することのなかった横綱大鵬を内掛けで破る大波乱。新制度の申し子と一躍その名を上げるが、あまり規模の大きくない部屋の力士としては、かなりのハンデとなった。その後1年で金星4つを挙げるなど上位を食って人気を得るが、体も小さく跳ね返された。41年1月、8枚目に落ちると地力を発揮し柏戸と争いに敗れるが13勝。これで自信をつけると関脇に戻って10,9,11勝。3連続三賞で大関を勝ち取った。 大関1年目は二桁にも届かない停滞期だったが、43年に入ると体も厚みを増し、優勝争いに名を連ねる。そして5月場所、横綱不在のチャンスを生かして初優勝を飾った。大鵬の長期離脱の間に綱取りを狙ったが、まだ地力不足で安定感がなく、届かず。そのうちに大鵬が復活してしまい、なかなかチャンスはこなかった。44年9月に2度目の優勝、11月は10勝に終わるが、当時は綱取ち白紙とはならなかったようで、翌場所北の富士との決定戦に持ち込むと、実力が評価されて連続優勝のライバルと横綱同時昇進となった。現代ではあり得ない昇進だが、比較対象を得て総合的な判断がなされた。 昇進を機に、四股名を昭和に入り3人目の「玉の海」に改める(先代は主に乃やノを使っていたので表記上区別される)。期待を込めた横綱昇進だったが、見事その地位にふさわしい力士になってみせた。4場所目に横綱初優勝を飾ると、以降1年を平均14勝と驚異的な成績。大鵬、北の富士とのハイレベルな争いが続いたが、北の富士はムラがあり、大鵬が46年の5月で引退。7月、初めての全勝優勝を果たした玉の海が今後抜け出すとの見方が強まった。無理が祟って9月は12勝に終わる。場所後、大鵬の引退相撲では土俵入りも務めていたが、直後虫垂炎の手術から肺血栓を生じて、あっけなくこの世を去った。不知火型は短命であるというジンクスも、この事件で決定的になった。存命なら70年代の相撲史は明らかに違ったものになっていただろう。 突っ張りも得意としたが、右四つの型を磨いて本格化。体格はちょうど双葉山と同じくらいで現代から見れば小兵。当時としても平均以下だったが、胸を合わせれば豪快な吊りを繰り出す腰の強さを発揮。投げ、掛けと自在だった。胸を合わせる自信があり、体の割に肩幅があったので、ワキは堅い方ではなかった。北の富士との取り組みでも大抵相手十分の左四つに渡り合っているが、まず組み止めることを第一に考えていたのだろう。
第52代横綱北の富士 優10 幾多のエピソードと異名を持つ横綱。朝青龍ばりの不良ぶりもあれば、泣かせる話までともかく話題の多い異色の存在、それでいて双葉山、栃若、大鵬に続いて二桁の優勝を重ねた実績を持つ。 新弟子検査に落ちる程の細い体で出世は遅かったが、6年かけて十両昇進、38年11月15戦全勝で優勝し新入幕。以後十両で15戦全勝は把瑠都まで40年以上も出なかった。その勢いを駆って新入幕で13勝の大活躍で敢闘賞。2場所目にして三役、さすがに家賃が高く跳ね返されたが、すぐに三賞・三役の常連となる。三役で10、9、10、8、10、10と大勝ちはできなかったが、本人もびっくりの大関の使者が来た。42年3月、現役時代に自分をスカウトした千代の山が独立、出羽海部屋の恵まれた環境を捨ててこれに同行した北の冨士は、不退転の覚悟で初優勝、十両優勝の松前山共々、一門から破門された新生九重部屋の旗揚げに大きな勇気を与えた。のちに大きく反映する九重部屋の第一歩である。ところが、翌場所は5勝10敗の大崩れ、翌々場所も負け越してカド番に追い込まれるなど(当時は3場所連続負け越しで大関陥落)不安定さが目立ち、2年余り平凡な成績でライバル玉乃島ともども停滞。4横綱が引退していき大鵬の一人横綱となった44年後半からようやく力を発揮し始め、連続優勝を果たして45年1月場所後玉乃島と同時に横綱昇進(大関在位は横綱昇進力士の当時の最長記録)。 このころは復調した大鵬、抜群の安定感を誇る玉の海との三つ巴の争いとなる。北玉時代と期待された昇進前後の1年は優勝4回、準優勝2回と北の富士のキャリアで最も安定した時期だった。その後11勝が4場所続いてイレブン横綱と揶揄され、玉の海有利に傾くが、46年5月初の全勝優勝。翌場所は玉の海が全勝に対して8勝と大暴落するも、9月は再び全勝とV字回復。安定感の玉の海に対し、ムラはあるがハマれば強い北の富士といった好対照で、大鵬も遂に引退して名実ともに北玉時代到来となるはずだった。ところが、玉の海の急死という悲劇が訪れる。知らせを聞いた北の富士は号泣。玉の海が倒れて巡業を休場となった際、雲龍型の北の富士が代役で不知火型の土俵入りを行うなど、親友の不在を補っていたが、突然一人横綱となってしまった。翌場所責任を果たして8度目の優勝。しかし、その後は高血圧や不眠症という変な理由で途中休場したり、休場中にハワイで発見されたりと崩れていく。たまに全勝優勝したりと復活するも長続きせず。4場所連続休場明けの49年7月、連敗したところで引退。玉の海というライバルがいればもっと全盛期が続いていただろうと残念がられた。 当時の出羽海部屋らしく、突っ張り、叩き、肩透かしの相撲で出世。細い体をカバーしていたが、体ができてからは左四つでの速攻、上手投げ、外掛けを得意とした。じっくり取る力士が多かった中で、前にも後ろにもスピードに乗って動く相撲は時に淡泊とも言われたが、その相撲で10回の優勝を記録した。当時として大鵬、双葉山に次ぐ3位タイ。
第53代琴櫻 優5 入門から4年、昭和38年3月に新入幕。9月には12勝で敢闘賞、11月は3大関を破って殊勲賞と勢いに乗り、新三役を掴む。ところが晴れの場所で足首を痛めて休場、十両まで陥落した。これがケガに悩まされ続けた苦闘の始まりだった。再起して三役に定着するが、成績は不安定、下の名を毎場所のように改名するなど苦闘の様子が窺える。42年の後半にやっと二桁が続き、九州場所。連敗スタートとなるが、2横綱を破って勢いに乗り、11勝で大関昇進を決めた。北玉には1年あまり遅れての昇進である。 大関5場所目の43年7月、上位不振の中で好調を維持、追う平幕勢を突き放し、14日目玉乃島を吊り出しに破り初優勝。綱取り場所は途中休場するなど故障に悩んだが、44年3月に2度目の優勝。この場所も他の上位陣が不振で平幕との争い。12日目龍虎との1敗対決に敗れて後退したが、上位戦を勝ち進むと相手が自滅し逆転優勝が転がり込んだ。以降取りこぼしは少なかったが、北玉の台頭に押されて優勝争いを早々に脱落。46年からは故障休場が目立ち始める。3年以上も10勝がやっとの状態で、もう終わった大関と誰もがみなし始めた47年の暮れ、突然爆発する。自身初の14勝で3年半ぶりの優勝、さらに48年初場所も14勝と独走し、連続優勝で横綱昇進を決めてしまった。北玉時代が終わり、貴輪もまだ力不足で毎場所優勝力士が変わった47年。加えて無気力相撲が取り沙汰されて序盤から大関戦が組まれる混乱期に、樹齢32年の姥桜が冬に突然開花したのである。 北の富士との2横綱となり、3場所目の48年7月。14勝1敗同士の横綱決戦を怒涛の攻めで制し横綱として初、5回目の優勝を果たす。その後は不振が続いて49年7月場所前、引退。横綱在位は9場所に終わる。完全燃焼したが、「不知火型は短命」のジンクスを覆すことは出来なかった。横綱としては短命だったが、引退から間もなく師匠の急死により佐渡ヶ嶽を継承、停年までの長きに渡り精力的なスカウトで数多くの関取を輩出した功績は大きい。 猛牛のニックネームは平成に入り豊響によって復活したが、迫力ある大きな額で巨体が突進、のどわで豪快に押し倒すところから名付けられた。そのため押し相撲のイメージが強いが、根は四ツ相撲で、櫓投げなど豪快な技もあった力士。組んでは吊りを得意とした。
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