大相撲解体新書

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三賞分析

毎場所選考委員会により受賞者が決められる殊勲・敢闘・技能の三賞。

戦後始まったこの表彰は、優勝を争う上位力士以外にも励みとなる。

歴史を重ねた三賞。その受賞回数は、名脇役達の活躍ぶりを図る物差しにもなっている。

ここでは、その表彰制度について分析しながら、選考の問題点にも言及、あれこれ提言したい。

★SANSHO LEGENDS

 安芸乃島     最多19回 

琴錦  5場所連続含む18回

 鶴ヶ嶺      技能賞10回 

貴闘力     敢闘賞10回 

朝潮・魁皇   殊勲賞10回  


一 三賞制度史

戦後間もない昭和22年、11月場所から制度開始。混乱期に関心を集めるための必死の取り組みの一つ。

国技館は接収されて舞台は神宮外苑、羽黒山4連覇の場所。

最初の場所では、負け越し力士や大関も候補に挙がった。

確かに場所を盛り上げたという意味では、彼らに賞が渡っても不自然ではない。

しかし、その後判例法的に関脇以下の幕内力士で勝ち越していることが条件となっている。

第1回の選定結果は現在からすると違和感があるものとなった。

殊勲賞には、出羽錦。新入幕で千秋楽まで1敗で羽黒山と並走、

優勝争いを盛り上げた点は殊勲だが、上位との対戦はなし。

覇者羽黒山に唯一の土をつけた前頭1・千代の山は受賞しなかった。

敢闘賞・小結輝昇も1横綱3大関を倒したが、7勝4敗と星は平凡、しかも不戦勝がある。

現在なら出羽錦に代わって殊勲賞だ。

技能賞には横綱前田山を破り8勝3敗の平幕増位山。これは順当か。

各賞に一人選ぶという本来の形を守っていたが、

制度開始2年にしてダブル受賞者が初登場。

同じ賞を二人が分け合うのは昭和46年11月敢闘賞の輪島・富士桜が最初。

以後も各賞1人は堅持されたが、50年代半ばからは珍しくなくなった。

以後、三賞独占もあれば該当者なしもあるなど、弾力的な運用をしている。

 

二 三賞の運用

関脇以下の幕内力士で活躍した力士に与えられる三つの賞。

記者クラブの投票によって受賞者が決まる。

一概に勝ち星が多いだけではなく、印象に残ることが重要。

当然横綱・大関を倒す機会の多い番付上位での好成績の方が評価される。

平幕下位でも、優勝争いに絡んで上位と対戦したり、

新顔の気風の良い相撲、鮮やかな技が目立てばチャンスあり。

ひとりが複数の賞を受賞する場合は、活躍の度合いに応じて2つ、3つと検討される。

該当すると認められても、2つ受賞するほどでないと判断されれば一つは削られる。

●敢闘賞

その名の通り、敢闘精神を評価する賞。平たく言えばがんばった人に与えられる賞。

現状、勝ち星の多い力士が獲得しやすく、「敢闘」の本来の意味からは乖離してきている。

8勝7敗でも真っ向勝負で激しい相撲であれば受賞できそうだが、8勝での受賞例は殆ど無い。

悪く言えば、成績は優勝だが特別に評価する点がない場合に該当する。

その他優秀力士賞。

もちろん、「敢闘」の基準が完全に失われているわけではなく、

立合い変化が目立ったりする時は外されやすい。

また、殊勲や技能に該当する場合に、

敢えて2つも与えなくて良いと判断される時にも外されやすい。

10勝4敗でも条件付きになるなど、近年求める成績も厳しくなっている。

実力者のイメージがついた力士には特に厳しい。

新入幕で二桁勝てば敢闘賞という印象があったが、最近はそうでもない。

●殊勲賞

上位陣を倒したり、優勝争いに絡む程の目立った活躍があった力士に与えられる賞。

近年は、「上位を倒すこと」に受賞理由が偏っており、

さらに最近は「横綱に勝つこと」が唯一無二の条件のようになっていて、

先日も、5大関を破った把瑠都がいるのに該当者なしとなった。

いかに大関が不振とは言え、これはあまりにも柔軟性に欠ける。

横綱が強くて少ない最近は該当なしが目立ち、平成21、22年で一つだけ。

殊勲の1勝が決め手となるので、千秋楽勝ち越せば、という条件がつくことも多い。

●技能賞

技能が特に優れた力士に与えられる。技能が素晴らしければ、8勝7敗でも十分対象。

技能が素晴らしいというのは、舞の海のような奇手だけでなく、

教科書通りの押し相撲なども該当する。

逆に押し相撲の方が評価されやすく、本格的な四ツ相撲を評価されることは稀。

ただ、注目度の低い近年、余程技が美しくないとそれだけでは目立たない。

好成績や上位連破など、殊勲・敢闘賞的な要素も求められる傾向にある。

技能に定評のある力士が活躍すれば敢闘賞との比較となる。常連さんが多い。

 

三 三賞常連力士

受賞回数上位を見ると、平成の力士が多いことがわかる。

昭和時代はまだ大関昇進の基準が甘く、対象となる関脇以下にとどまれなかったこと。

そして複数力士の同時受賞があまり多くなかったことが、

昭和の力士の受賞回数劣勢の原因と考えられる。

昭和の三賞常連といえば、関脇鶴ヶ嶺。両差しに定評があり、技能賞は最多の10回。

そして大関朝潮。

本来ならさっとと大関として活躍するはずが、三役で三賞荒稼ぎ。

北の湖キラーらしく、殊勲賞10回を数える。

殊勲賞10回は、他に魁皇(計15回は3位)。

やはり上位キラーとして名を馳せ、大関候補時代が長かった。

敢闘賞は貴闘力が10回。

波に乗れば大勝ちし、「敢闘」という言葉がぴったり来るキャラクターから。

現役では、土佐ノ海が7位タイの受賞計13回で魁皇に続く。

日馬富士、安美錦、若の里がそれぞれ10回。

殊勲賞は魁皇の10回、土佐ノ海7回、日馬富士、安美錦、若の里が4回。

敢闘賞は5回で魁皇、把瑠都、旭天鵬、土佐ノ海、雅山、玉乃島が並ぶ。

技能賞は日馬富士と鶴竜、安美錦がやはり5回(22年7月現在)。

 

(一) 殊勲賞物語

昭和20年代は、第1回の選考の流れを受けて、優勝争いを盛り上げた力士が受けることも多かった。

しかし基本的には上位を破った力士に与えられている。横綱の数が多くてあまり強くなかった時代。

25年春に1横綱4大関を倒した吉葉山は、そのまま3場所連続受賞。大関へ突進した。

さらに三根山が5回、朝汐が4回の受賞を飾っている。大いに上位を苦しめて大関を勝ち取った。

26年夏の若葉山のように、2金星を挙げ8勝7敗で受賞するケースも出てきてはいるが、

各賞一人の時代は成績も重要だった。

上位に強いが取りこぼしが多く「バカの花」と評された若ノ花は、

今なら常連だろうが、受賞は2回のみ。

27年春の栃錦は、技能賞とのW受賞となったが、関脇で10勝の成績。

4大関を倒すも3横綱に全敗。大関の価値は高かったようだ。

栃若時代には、時津山、安念山、北の洋が常連となる。

柏鵬時代になって、初代殊勲賞の出羽錦が実に14年ぶりの復活受賞。

さらに3回目も獲得するという奇跡。

豊山が3場所連続敢闘賞とのW受賞を果たすなど、

この時代は大関への通過点となっていて「上位キラー」は多くない。

大関までが長かった玉乃島や琴櫻、清國、

麒麟児(のち大麒麟)、前乃山が回数を伸ばしたほかは、

潜航艇岩風や開隆山、明武谷、後期には栃東が目立つ。

北玉、輪湖の時代にも、やはり上位に上り詰めた力士が数回受賞していく傾向が強い。

三重ノ海は5回目の受賞を手土産に大関となったが、

金星史上1位を記録した高見山が受賞回数を6回に更新。

48年の大受が3場所連続受賞するなど、連続受賞も目立つ。

大関に上がった力士の他、金剛や北瀬海、

通算4度の麒麟児、黒姫山、栃赤城も記録。

凄いのは、北の湖を得意としたのち大関の朝潮。

55年の3連続を皮切りに、毎年連続受賞を記録し通算10度。

千代の富士の時代にも派手な活躍を残して大関に上がっていく力士が多かった。

大乃国と北尾5回、小錦4回。いずれも3場所連続を記録。

上位に対して猛威を振るったが、昇進してから大人しくなった。

鮮烈な印象を残した益荒雄は、62年の3、5月で

4横綱6大関を食う活躍、連続殊勲賞もその2回だけ。

逆鉾は関脇に定着し1年間に4度の受賞、通算5回とした。

平成に入っては、大関取りが難しくなり、三役が強豪の吹き溜まりになる。

安芸乃島、琴錦ともに7回。

これを魁皇が最多タイの10回と抜き去る。土佐ノ海も追い上げて7回。

横綱が朝青龍、白鵬と少数精鋭だった平成10年代後半、

それでも若の里、安美錦、安馬と受賞4回の常連が出たが、

平成も20年代に入っていよいよ受賞者が枯渇。

21年は年6場所とも該当者なしと寂しい状況。

(二) 敢闘賞物語

初代受賞者は小結の殊勲力士輝昇、2場所目は新入幕で準優勝大蛇潟。

3場所目はまた殊勲力士千代の山、4場所目は下位で準優勝國登。

5場所目は下位で決定戦進出の羽嶋山。6場所目は殊勲賞と同時受賞の準優勝鏡里。

7場所目は新入幕で準優勝若ノ花。8場所目は14枚目まで落ちた元大関名寄岩が9勝ながら受賞。

9場所目、幕尻で1差の時津山、10場所目、平幕中位で優勝争いをした若ノ花が2度目。

しばらくは、受賞の傾向がバラバラ。

殊勲の色合いが強い「活躍重視」、上位戦がなくても大勝ちした「成績重視」、

名寄岩のように成績も上位戦も関係なく頑張りが認められた「敢闘精神重視」。

各賞一つの制限から言って、殊勲賞や技能賞から漏れた力士が流れてくる傾向は今もある。

このように当初から受賞の基準は曖昧だったが、

徐々に大勝ちした力士、特に下位で進境著しい力士が選ばれる傾向になっていく。

初期の力士では、やはり「涙の敢闘賞」名寄岩の印象が強い。

大勝ちの多い時津山は4回受賞。全勝優勝との同時受賞もあった。

やはり平幕優勝した玉乃海3回、富士錦も4回受賞。

33年には若前田、38年には豊山が3場所連続受賞を記録。

一発屋の多い賞だが、40年代には敢闘賞専門の常連さんも登場。

激しい相撲の大豪、福の花、龍虎、陸奥嵐がこれに当たる。

福の花の7回がダントツと思いきや、大関陥落後に4度の受賞という離れ業で魁傑が並ぶ。

50、60年代では、高見山、隆の里、小錦、出羽の花が5回まで伸ばす。

麒麟児の6年ぶり4回目受賞も見事だった。

平成では、琴ヶ梅4回、水戸泉6回と敢闘型の力士が出る。

これを安芸乃島らが塗り替えてついに福の花に並んだが、敢闘賞専門家の貴闘力が上回る。

もうここまでかと思われた12年3月は幕尻で初優勝し、敢闘賞も10回に乗せた。

その他平成10年代にも敢闘賞専門家が多く、

琴ノ若、玉乃島、旭天鵬、把瑠都、大関陥落後に2回加えた雅山が5回を記録。

(三) 技能賞物語

技能賞力士の歴史は、そのまま技能派力士の系譜となる。

初代受賞の増位山は、個性的な突っ張りでこの場所を風靡。最初から芸や妙技重視ではない。

程なく、栃錦が常連になる。初受賞から12場所中9場所と独占状態。

最後は5場所連続で獲得して「卒業」した。

栃錦以後は、両差し名人の信夫山(6回)と、内掛け名人琴ヶ濱(5回)の時代。

息の長い活躍の若瀬川も3回。鋭い出足の柏戸、北の洋、

栃錦以上の巧さと讃えられた栃ノ海は6度と回数を重ねた。

やはり両差しで有名な鶴ヶ嶺は、柏鵬時代になって円熟味を増し、

初受賞から10年目の41年に栃錦超えの10回を記録。37歳だった。

40年代では、清國、麒麟児、貴ノ花、大受(6回)、若三杉らのちの大関。

彼らも相撲の基本型を評価されて何度も受賞した。

巧さという点では藤ノ川(4回)、そして栃東(6回)が目立つ。

50年代には、旭國、増位山、千代の富士が技能賞を重ねて大関に。

小兵の鷲羽山や天覧相撲で有名な押し相撲の麒麟児、富士桜も名を連ねるが、

53年頃から候補が枯渇。該当なしが目立つ。

平成の初めにかけて、受賞5回の保志、旭富士、4回の霧島を除けば、

三役以下で常連力士と呼べるのは出羽の花、逆鉾くらい。

しかし、戦国時代と呼ばれる時代になって技能賞争いは華やかになる。

平均体重が150キロを超える大型化の中、

小さい部類の琴錦、安芸乃島、若花田、舞の海などが大いに土俵を沸かせた。

大関昇進前の武双山、出島、千代大海ら武闘派も顔を並べる。

栃東は二代にわたる常連力士に。父を超える7回目の賞を手土産に大関を勝ち取った。

スピードと技の琴光喜も7回目の受賞で念願の大関へ。

モンゴル勢の時代になって、技能派の勢力はやや回復傾向。該当なしは減りつつある。

殊勲賞常連でもある安馬、安美錦は5回。時津海4回。

鶴竜も既に5回、豊ノ島や栃煌山もまだまだ伸ばせそうだが、大関となり卒業できるか。

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