新・名力士データ
新パラメータ版
大横綱、強豪横綱には及ばないが、
一定期間強さを発揮した横綱を中堅力士としてカテゴライズ。
本章では、そのうちでより上位と評価した4人を
中堅横綱「A」として取り上げる。
基本データ |
四股名(最盛期のもの)、横綱代数、出身地、所属、参考年号(最盛期) 取り口:相撲の取り方を独自の分類で表記(⇒相撲解体新書のページ参照) 型 :得意とする形(一例) 得意技:公式のものに近い表記で 体格 :身長は1cm刻み、体重は5kg刻みで掲載前後の平均的なもの、体格分類は解体新書参照 |
パラメータ
持ち技リスト 特性 |
体格:スケール、重量など体格面の総合値 |
解説 | 略歴・後世の評価・実績・引退後/取り口解説・パラメータの評価とスキルの解説・現代との比較 /四股名・締め込みについて |
柏 戸 47代 山形出身 伊勢ノ海部屋 昭和41年 | |||||||||
取り口:前進型 | 型:左前褌右押付 | 得意手:寄り,突押 | 188cm/135kg 長身中肉 | ||||||
体 格 |
B12.0 | 懐 | 12.5 |
<決め技>のど輪 6a 左前褌寄り5c 左四つ寄り3b 左上手投げ3b 突き落とし3b モロ差寄り2c がぶり寄り3c 出し投げ 2d 小手投げ 3c 掬い投げ 4b |
<崩し技> 右おっつけ5a ハズ押し 5b 吊り寄り 3c 引き付け 4c 浴びせ倒し3c突っ張り 4c ひねり 2d 極め 3c 鯖折り 2d はたき 3c |
<立合> 左前褌 5b 右おっつけ4b 左おっつけ3c モロ手突き4d のどわ 4c ぶちかまし3d 体当たり 3c
頭c肩b胸d 手b変化e |
<心> 速攻 強引 詰め× 取りこぼし シンプル 玄人好み 早熟型
|
<技> 電車道 挟み付け
|
<体> 腰高 体質硬い サラブレッド 瀬戸物 右肩・肘 |
重 | 10.5 | ||||||||
力 | A13.0 | 馬力 | 13.5 | ||||||
怪力 | 13.0 | ||||||||
足 腰 |
C10.0 | 安定 | 9.5 | ||||||
粘り | 10.0 | ||||||||
速 | B11.0 | 出足 | 12.5 | ||||||
敏捷 | 10.0 | ||||||||
技 | C10.0 | 技巧 | 10.0 | ||||||
キレ | 10.5 | ||||||||
離 | B12.5 | 突 | 12.0 | ||||||
押 | 13.0 | ||||||||
引 | 9.5 | ||||||||
組 | B12.0 | 寄 | 12.5 | ||||||
投 | 10.0 | ||||||||
吊 | 10.0 |
★略歴 トントン拍子に番付を上げ所要3年で新十両。3場所連続で優勝を争う活躍(優勝1回、「7人の侍」による決定戦で決勝進出など)で、33年9月、19歳にして新入幕を果たし、若秩父らと「ハイティーントリオ」で売り出した。34年3月、伊勢ノ海部屋継承者が代々名乗る「柏戸」へ改名。早速期待に応えて13勝。9月には上位で12勝して三役に躍進。小結で迎えた35年1月、新入幕大鵬の12連勝を阻み、技能賞。以後4場所連続三賞。7月は早々に3敗も終盤2横綱2大関戦を悉く破って猛追し、11勝。3場所30勝で大関の声が掛かった。初優勝は大鵬に先を越されたが、その翌場所36年1月、ライバル大鵬を圧倒、若乃花を振り切り、琴ヶ濱との相星決戦を制して雪辱。「柏鵬時代」への期待の声が高まる中、綱取りレースが開幕。3月、大鵬、優勝した朝潮を破るが12勝で見送り。翌場所は中盤で脱落し、10勝止まり。続く7月は14日目1差の大鵬との直接対決で敗れて11勝。9月も12日目に3敗を喫したが、綱取りに王手をかけた大鵬を引きずり下ろして優勝決定戦に持ち込む。巴戦では明武谷を破るが大鵬に惜敗。連覇の大鵬が横綱昇進を決めたが、「柏鵬時代」のムードも手伝って、実力は互角以上(対戦成績7勝3敗)と評価から、横綱同時昇進となった。 甘い昇進との評価を払拭したかったが、新横綱同士の相星対決で敗れて雪辱ならず。益々強味を増す大鵬とは対照的に11勝程度が続き、さらに38年は右腕を壊すなど4場所連続休場。独走する大鵬と残酷なくらい明暗が分かれてしまったが、復帰場所の38年9月、あれよあれよと言う間に14連勝した柏戸、栃若決戦以来、史上2度目の楽日全勝横綱相星決戦を制して、横綱として初、自身初めての全勝優勝を飾った。翌年3月にも再び千秋楽全勝決戦を演じ、その翌場所も無傷で走ってようやく柏鵬時代の看板に追いついてきたかに思われた中、今度は左腕を故障。6場所連続休場の憂き目に遭った。愈々進退危機の声も出たが何とか乗り切り、9月は3敗から追い上げ上位陣総なめで巴戦進出、連勝で復活優勝。41年から42年は1場所除いて安定して2ケタを勝ち、うち優勝2回。大鵬の前に屈することが多かったが、ほぼ毎場所場所優勝を争った。最後の優勝となった42年7月は独走で14勝、うち寄り切り・寄り倒しが13番に上手捻りが1番だった。その後は糖尿などで衰え、若手大関陣にも苦戦して良くて二桁。それでも休場に逃げることなく土俵を務め、44年7月序盤で連敗したところで決断。足掛け9年に及ぶ横綱在位を終えた。 ★評価 時代の期待に応えて若くして横綱になったものの、好敵手大鵬の独走を許し、自身は相次ぐ怪我に泣いて大差をつけられた。「柏鵬」という時代の看板に背負った力士として見られると、どうしてもその成績は見劣りする。長期休場や二桁に届かない場所も多いが、それでも長きにわたって綱を張り、昭和41年頃にはようやく安定した成績を残して、却って晩年期に皆勤率を高めている。豪快な勝ちっぷり、惜敗や、僅差の準優勝などの成績に現れない奮闘ぶりと、大鵬との好対照。その存在感が、実態を反映していないと言われながらも「柏鵬時代」を定着せしめた所以だろう。 ★実績 優勝は5回。大鵬の32回には遠く及ばず、同時代の後発横綱・佐田の山も下回る。在位は史上7位の47場所をマークするが、その分優勝率は1割を切っている。年間勝利勝2回、最後に5連敗するまでは、大鵬との対戦成績も16勝16敗と互角だったのが最大の美点で、優勝は無理でも無敵大鵬に土をつける期待は常に持たれていた。 ★引退後 年寄・鏡山のまま独立。昭和57年に先代が亡くなったが、伊勢ノ海部屋は弟弟子の藤ノ川が継承した。主に審判を務めていたが、体調を崩して58歳で死去。鏡山部屋からは7人の関取が誕生、そのうち昭和59年に平幕優勝を果たした関脇多賀竜が継承したが、令和3年限り二代で幕を閉じ、本家伊勢ノ海に合流した。 |
★取り口 長身を活かした突き押しか上手を取って一気に運ぶ、爽快な出足相撲。のど輪、おっつけで圧倒する取り口が、剛の柏戸と言われる所以だ。反面、腰高のまま出て覆いかぶさるので、決まり手も案外寄り倒し、押し倒し、浴びせ倒しが多いが、突き落とし、うっちゃりなど逆転を食うことも多く、逆転を許したり、大きな怪我にもつながった。そこで増加したのが、左で浅く上手を引いて、右でおっつけて挟み付ける相撲。大鵬との全勝決戦で逆襲に成功した展開で掴んだとも言われる取り口は、横綱中後期の安定期を支えた。イメージよりも手堅い四つ相撲を取っていた時期が長いのは、曙など多くの突き押しの横綱と同様だ。 ★パラメータ・スキル 総合値11.5。主に横綱後期の41年を参考にしたこともあり、一般的な印象ほどに突き押し、速攻に偏ってはおらず、パラメータのバランスが整っている。初期の頃なら、もう少しパワー、出足型になっていただろうが、通算の決まり手でも意外なほど寄りが多く、突き出しや叩き込みなどは少ないあたり、近い距離で相撲を取っていたことの現れだろう。立合いは、前褌を引く速さが目立つ。サラブレッドと呼ばれたのは出足の鋭さゆえだが、壊れやすさも同居していた点も否めず、その点に特化した「瀬戸物」というありがたくない異名もあった。 ★現代との比較 大鵬と共に、大型化時代の象徴のように言われるが、身長はともかく体重は最盛期で140キロ強。日馬富士を一回り大きくしたくらいだ。大鵬戦しかり、一発があるので、どの時代にいてもそれなりの存在感は示しただろうが、この体躯で現代の超大型力士をまともに持っていけるか、うまく崩してという器用な取り口を取る方ではないので、苦戦するかもしれない。立ち合いは手を付かないどころか腰も割らずに中腰のまま立った。立合い正常化(自らは棚に上げて熱心に説明していたがー)以降なら、出足が削がれていたのか、それとも腰が下りて安定感を増していたのか、気になるところだ。 |
★四股名 入幕後も冨樫で取っていたが、順調に勝越しを続け、部屋伝来の柏戸を名乗る。高砂部屋における朝潮同様に由緒ある四股名ならではの慎重な襲名だ。ちなみに大関朝潮は名前負けしたかのように改名後不調をかこって先代を悩ませたが、柏戸はいきなり優勝争いに加わるブレイクぶりで、師匠を安心させた。代々柏戸を襲名した力士が部屋を継承していたが、固辞した経緯、理由などはあまり話が出てこない。 ★締め込み カラー写真もいくつか見られるが、あまり鮮明ではなく判別困難。当時一般的だった紺色系統のものと思われる。 ★その他 長らく一門に横綱がいなかったため、土俵入りは元栃錦らに指導された。そのせいか、長身ながら小さく柏手を打つ姿が窮屈そうに見えるのは筆者だけか。蓄膿があったせいか、取組中には口を開けて苦しそうな姿が見受けられる。 |
佐田の山 50代 長崎出身 出羽海部屋 昭和40年 | |||||||||
取り口:突押型 | 型:左差し右上手/突張り | 得意手:突張り | 182cm/125kg 均整筋肉 | ||||||
体 格 |
D 8.0 | 懐 | 9.0 |
<決め技>突っ張り 6a 右四つ寄り3c 吊り 3d 上手投げ 3c モロ手突き4c モロ差寄り3d はたき 3c 突き落とし4c 打っ棄り 3d |
<崩し技> 上突っ張り5a のどわ 3c 右おっつけ3b ハズ押し 4b 外掛け 2d 引きつけ 2d 出し投げ 2d 右下手投げ2c |
<立合> モロ手突き4a ぶちかまし3c カチ上げ 3c 左のどわ 3b 右差し 2d 左差し 2d
頭b肩d胸d 手a変化e |
<心> 闘魂 速攻 対上位× |
<技> 回転○ 右半身 前捌き
|
<体> リーチ○ 体質硬い 粘り腰 スタミナ○ 腰痛 調整×
|
重 | 7.0 | ||||||||
力 | B11.0 | 馬力 | 11.5 | ||||||
怪力 | 10.5 | ||||||||
足 腰 |
B12.5 | 安定 | 12.0 | ||||||
粘り | 12.5 | ||||||||
速 | B12.0 | 出足 | 12.0 | ||||||
敏捷 | 11.5 | ||||||||
技 | B11.0 | 技巧 | 10.5 | ||||||
キレ | 12.0 | ||||||||
離 | B12.5 | 突 | 13.5 | ||||||
押 | 12.0 | ||||||||
引 | 11.0 | ||||||||
組 | C10.0 | 寄 | 10.0 | ||||||
投 | 10.0 | ||||||||
吊 | 9.0 |
★略歴 佐田の山の幕内力士としてのキャリアは、入幕3場所目の平幕優勝に始まる(当時は佐田ノ山)。下位力士はノーマークの時代とは言え、今なお戦後最速記録である。36年5月、栃若から柏鵬への過渡期、上位潰し合いで優勝ラインが下がる中で、唯一3敗を守って逃げ切った。翌場所も上位で11勝、2横綱を食った。新関脇となって3場所は何とか地位を保っている印象だったが、37年3月、大鵬を決定戦で破って2度目の優勝。小結知らずのスピード出世で、一躍大関に昇進した。
新大関でも13勝するなどすぐにも横綱を期待されたが、2横綱5大関充実の時代で上位との潰し合いが厳しく、終盤星を落として優勝に手が届かない場所が続いて息切れ。腰を痛めるなど2年ほど停滞する。39年後半からようやく実力を発揮。9月、11月とあと一歩で大鵬に優勝をさらわれたものの、連続13勝して綱取りに臨む40年1月。一門別から部屋別総当たりに移行する。早くも4日目、同門で長くライバルとして凌ぎを削り、先に横綱に昇進した栃ノ海との初対決。難しい一番だったが、これをうっちゃりで破って勢いに乗る。やはり初対決の大関栃光に土をつけられ、14日目には天敵大鵬に敗れ1差に迫られたが、千秋楽豊山を下して逃げ切り、念願成就。
横綱2場所目で優勝を飾るなど、順調に滑り出した。昇進前後は毎場所優勝争いに絡み、やや大鵬が不調の中で存在感を発揮していたが、41年に入ると乱調が続き、3場所連続休場と不振に陥る。復帰後、42年1月には14勝したが、それ以外は復調した柏鵬を前に、準優勝にも届かない場所が続いた。42年11月、大鵬の休場で転がり込んだ好機をものにして、2年半ぶりの優勝を果たすと、翌場所も大関時代の北・玉の追い上げを振り切って連覇した。ところが、続く43年3月場所、初対戦の高見山に初金星を献上して序盤で3敗となったところで引退。大鵬の休場が続き、柏戸も衰えて好機到来とも思われる中、突然土俵を去った。 ★評価 横綱としては、柏鵬より4年遅れて昇進し、先に引退。在位18場所に留まり、柏鵬時代に収まってしまった点で、どうしても存在感で見劣りする。しかし、太く短くというほどの好成績ではないが、まずまずの結果を残した。 目を引くのは引き際の潔さで、初の連続優勝を果たした翌場所に引退。全盛期に去ったことで晩年期がなかった。同時代でネームバリューで上回る柏戸とはよく比較対象となるが、実は通算優勝回数では1回多く、曙と武蔵丸との関係にも似ている。在位中の勝率でも優位だが、在位期間、勝利数が倍以上違うことを勘案するとその勝率差は小さく、全体として上回るとは言い難い。早すぎる引退にも思えるが、その後30歳代で横綱を務めていれば、まだ若い大鵬がいる中で優勝を積み重ねるよりは、休場が増えたり、勝率を下げて中堅Bくらいの評価になった可能性も高く、引き際の鮮やかさという価値を残したのは英断とも言える。 ★実績 横綱としても大関としても幕内力士としても、初めと終わりが優秀という面白い成績の残し方をしている。入幕3場所目は昭和以降最短。三役経験なしでの優勝は朝乃山まで出なかった。関脇以下で2回優勝は朝汐以来。横綱在位中の優勝は3回、率にして.158と高くないが、12勝以上を5割超の場所で記録し、これはトップ10に入る好成績だ。通算準優勝は10回。 ★引退後 30歳にして各界の盟主・出羽海の名跡を継ぎ、同じく引退後間もなく時津風を継いだ豊山共々、幹部候補と言われる間もなく理事に就く。横綱昇進後に先代の娘婿となり、継承が予定された時点で九重独立騒動が起こり、土俵に集中できない面もあったのかもしれない。師匠としては横綱三重ノ海を育て、不文律を改め独立を認めたことでも知られる。理事としても長年実績を積み、栃若に続いて理事長に就任。年寄名跡問題や巡業改革などタブーに切り込んで政権崩壊となったことの評価は分かれるが、戦前から問題視され、それ以後も20年以上解決していない問題に敢えて挑んだことは特筆に値する。 |
★取り口 カチ上げるように当たってからのど輪、突っ張りで起こし、左四つに組み止める。出足を止めずに左を返して右上手を引き付けての速い寄り。嵩にかかって外掛けや、残すところを右上手投げで仕留める。先手を取っての突っ張りからの引き技、出足の勢いに任せた外掛けいった取り口は、従来の横綱像には当てはまらないものとして批判もあった。ただ、左四つの寄り、上手投げの堂々たる型もあり、イメージで語ることは公正ではない。 ★パラメータ・スキル 総合値11.0。横綱千代の山を代表格として、当時の出羽海部屋は突っ張りの力士が多数。筋肉質でスピードがあり、当時としてはリーチのある方だったので、自然と突き押しが武器になった。流れでの引き技のタイミングも良かった。足腰が硬いことから四つ相撲向きではなかったとも言われるが、強靭な足腰で土俵際のうっちゃりもあった。 ★現代との比較 大型化時代に軽量力士の突っ張りがどこまで通じるか。当時でも巨漢ぞろいの上位力士には苦戦していたので、モデルチェンジは迫られるだろうが、動きの良さや差しても食いついても取れる万能性を活かしつつスピード勝負に持ち込めば、昭和の香りのする力士などと独特の存在感を発揮していそうだ。 |
★四股名 五島列島出身力士は「五ツ」を冠することが多かったが、単純に本名の佐々田から取って佐田ノ山。「ノ→の→乃→の」と改名し、大関時代の39年1月に平仮名に戻して最終場所まで通した。片仮名は幕下時代の改名後1場所だけだったが、その後は不振の場所後に気分転換を図ったものと思われる。北の富士さん曰く、当時の出羽海(常ノ花)は、適当にしこ名を当てがってきたらしい(北の富士は、竹沢から竹美山)。ただ、当人は案外気に入ったのか、佐田の海など弟子にもその名を引き継がせ、後には同郷の弟子である元小結両国が興した境川部屋にも「佐田」が引き継がれた。
★締め込み カラー写真では、紺色の締め込み姿が見られる。当時はほぼ色のバリエーションがなかった。 ★その他 闘魂の横綱と呼ばれた風貌の厳つさは、若くして名門を率いるに十分な迫力。土俵入りは雲竜型。 |
二代若乃花 56代 青森出身 二子山部屋 昭和53年 | |||||||||
取り口:本格型 | 型:左下手右上手 | 得意手:上手投,吊り | 188cm/130kg 長身中肉 | ||||||
体 格 |
B11.5 | 懐 | 12.5 |
<決め技>右上手投げ6b 左下手投げ5a 左四つ寄り4b 外掛け 5b 上手出投げ3d 下手出投げ3d 打っ棄り 4b 吊り 3b 掬い投げ4c 小手投げ 3c |
<崩し技> 波離間投げ2e ひねり 4c 張り手 3c 左上手投げ3d 掛け投げ 2e 肩透かし 3b 切り返し 3c 突き落とし4c 突っ張り 2c 浴びせ倒し2d
|
<立合> 左差し 4b カチ上げ3b 右前褌 2c 右上手 3c 体当たり2c 張差し 3d 両差し 2c
頭d肩b胸b 手c変化d |
<心> 安定感 勝負弱い 相撲勘 投げ多用 美剣士 早熟型 |
<技> 打合い○ 合わせ技
|
<体> 体質柔軟 二枚腰 カタフン 首・腰痛 |
重 | 10.5 | ||||||||
力 | C 9.5 | 馬力 | 10.0 | ||||||
怪力 | 9.0 | ||||||||
足 腰 |
B13.0 | 安定 | 11.5 | ||||||
粘り | 14.0 | ||||||||
速 | C10.0 | 出足 | 10.0 | ||||||
敏捷 | 10.5 | ||||||||
技 | B12.5 | 技巧 | 11.0 | ||||||
キレ | 13.0 | ||||||||
離 | C 9.5 | 突 | 9.0 | ||||||
押 | 9.5 | ||||||||
引 | 9.5 | ||||||||
組 | B12.5 | 寄 | 12.0 | ||||||
投 | 14.0 | ||||||||
掛 | 12.0 |
★略歴 昭和43年、隆の里とともに上京し二子山部屋に入門。48年11月に若三杉の四股名で入幕を果たす。49年9月、初の上位で技能賞を獲得すると、翌場所の新三役では優勝争いを演じる。上位戦を終えながら最後に連敗して叶わずも、3場所連続の技能賞を獲得する。その後故障で三役を陥落し、1年半ほど停滞するが、51年9月に関脇へ復帰すると、3場所連続で11勝をマークし大関取りに成功。大関までの若三杉は北の湖に勝越すなど上位には健闘するが、あと一歩での取りこぼしが目立った。52年は輪湖の後塵を拝したが、5月、両横綱の追撃を振り切って大関2場所目で初優勝。53年に入ると衰え始めた輪島に代わって北の湖の対抗馬に浮上。1月は全勝の北の湖に挑戦するも吊り出されて13勝2敗。3月は千秋楽同点決勝に持ち込むも逆転はならず。再挑戦の5月も北の湖を1敗で追う展開、14日目の直接対決で土をつけて並ぶが、この時肋を骨折。執念で決定戦まで持ち込んだが、またも退けられた。しかし13,13,14勝の好成績、連続優勝同点の実績が評価され、直前の優勝はないものの、横綱昇進が決まった。
横綱二代目若乃花となり、7月は11勝止まり、9月も千秋楽で北の湖に賜杯をさらわれたが、11月にようやく2度目の優勝を飾る。13日目輪島との全勝対決を制すと、6連覇の消えた北の湖も下して全勝優勝。ついに一矢報いた。その後毎場所安定して優勝争いを繰り広げるが、やはりライバルの壁は厚くてなかなか優勝には手が届かない。横綱になってからの千秋楽は7連敗を含む7勝15敗、あと一歩の場所が続いた。54年5月は全勝で走り、追う1敗勢を退けて優勝。55年9月は、ようやく浮上してきた同期の平幕隆の里が1差で追う展開で、両者中盤戦から一歩も譲らず勝ち続け、若乃花が逃げ切った。56年は頚椎の故障に悩まされ4場所を休場。57年は持ち直したが、公私に騒がれる逆境で体調不十分で、往年の力は戻らず。休場明けの58年1月場所中、30歳を前にして引退した。 ★評価 北の湖と好不調が重なってしまう不運もあり、通算優勝4回で20代での引退には不完全燃焼の印象が強い。しかし、横綱在位28場所中、優勝・準優勝を記録したのは13場所。5割弱だが、歴代11位タイで初代よりも高い。また準優勝は通算16回で史上2位。成績面でも安定感の高さが現れている。在位数や勝率が近いのが、北の富士、北勝海の九重師弟。彼らよりも大崩れが少なかった反面、同時代のライバルの差、勝負強さ、運といった要素で優勝回数で倍以上の差をつけられ、カテゴリー上、強豪と中堅の違いとなってしまった。やはり横綱は優勝しないと評価されない。また、同い年にして最大のライバル・北の湖とは初顔時に大関と平幕だったにも関わらず、横綱昇進時には対戦成績五分。年間完全制覇も阻止し「北若時代」到来と期待されたが、横綱対決では7勝14敗。輪湖時代の看板を破ることはできず、時代を担ったという印象を残せなかった。 ★実績 優勝回数は物足りないが、安定感は抜群。年間最多勝こそないが、ピーク時にあたる昇進前後の昭和53年には、年間78勝。大横綱クラスがクリアした年80勝に迫り、隆の里と並ぶ7位タイ。連続二桁勝利は24場所で現在でも4位の快記録。昭和56年春に途中休場して途切れるまで、大きな故障もなく、かつ大きく崩れることがなかった。晩年期が短かったこともあり、横綱勝率.751は強豪横綱に匹敵する。 ★引退後 独立して間垣部屋を創設。4人の幕内力士を輩出、ロシア出身の若ノ鵬は初の三役力士誕生が期待されたが、大麻所持で逮捕され解雇。自身の病気もあって平成25年に部屋を閉鎖。一門外だが同郷の縁で伊勢ヶ濱部屋に吸収された。この時移籍した若三勝が照ノ富士と改名し、2年後には大関となる。平成10年の理事選では反出羽海派の急先鋒として理事選で当選。平成22年の貴の乱では、盟友の鳴戸(元隆の里)ではなく強行出馬の貴乃花を支持して一門を離れ、貴乃花派の長老となる。積極的な動きを見せたが、年寄生活晩年は自身の体罰や弟子の不祥事で処分を受けたりと散々で、健康状態の悪化を理由に停年まで5年を残して退職した。 |
★取り口 左四つを得意とし、鮮やかな上手投げで魅了。反対の下手廻しも最後まで離さずに、捻りを効かせることで見事な切れ味を発揮した。流れの中での外掛け、切り返しも多用し、大関、横綱になってからは吊りも増えた。懐が深いので右四つでも十分力を発揮。相四つの輪島、北の湖にも格下だった時期から通用した。 ★パラメータ・スキル 総合値11.2。均整の取れた長身体型に甘いマスクで「美剣士」の異名も取った人気力士。柔軟で懐が深く、反身になっても粘りがあり、絶体絶命の体勢から頭越しの廻しで放った波離間投げが象徴的。本人も認めるとおり腕力には弱みがあり、力でねじ伏せる相撲は取れず、重さもないので、廻しに届かず一気に持って行かれると脆い面もあった。 ★現代との比較 188センチの長身に驚異的な柔らかさを備えた体躯は現在においても懐の深さを発揮できる。左四つに組み止めれば、芸術的な投げ技も決まるだろう。ただ、パワーとスピードを備えた巨漢揃いの現代においては、苦戦する可能性もある。富士櫻を苦手にしたように廻しを取れない展開で苦労し、不調時は腰から落ちたりもしていた。突き押しをどう捕まえるかが懸念される。体を大きくするのも一つだが、大食漢ながらそれほど太らない体質で、持ち味の柔らかさを活かすためにも無理な増量や筋肉の増強は上策ではない。 |
★四股名 幕下時代に朝ノ花、さらに十両目前で改名し、大関時代までは、花籠部屋ゆかりの若三杉を戴いていた。先代の花籠親方の三杉磯と若乃花にちなんだ「若三杉」の元祖は、昭和35年に平幕優勝したのちの関脇大豪。師匠の義弟で部屋付きの荒磯親方。「若三杉幹士」だった時期もあり、のちの若乃花襲名は既定路線だったのかもしれない。若乃花改名に続いて先代の娘婿にもなったが、本人はどちらも乗り気ではなかった様子で、1年ほどで花田ファミリーを離れた。 ★締め込み 映像を見る限り、入幕当初から新三役ごろは紺色。海老茶か小豆色の廻しを経て、紫紺の時代に番付を上げ、最後はくすんだ青色。50年代のカラー映像は画質に差があり、青〜紺〜紫の間の判別をしづらい。 ★その他 51年7月の荒勢戦、待った6回を重ねて審判が土俵に上がり、異例の公開説教を食らっている。気が合わないのかと思いきや、その後間垣株を譲り受けている。土俵入りは師匠譲りの雲竜型。順調なら二子山を受け継ぎ、貴ノ花の藤島も合併せず、平成の土俵も少し違うものになっていたのかも。 |
日馬富士 70代 モンゴル出身 伊勢ケ濱部屋 平成24年 | |||||||||
取り口:スピード型 | 型:右差左前褌 | 得意手:寄り、突き | 186cm/130kg 軽量筋肉 | ||||||
体 格 |
D 8.5 | 懐 | 9.0 |
<決め技> 右のどわ 5b 前褌寄り 5b 上突っ張り4a 上手出投げ5b モロ差寄り4c 左上手投げ4b 右下手投げ4c 小股 3c 首投げ 2d 吊り落とし1e |
<崩し技> 張り手 5a 巻き替え 3c 突き放し 3b 足取り 3d とったり 5c うっちゃり2e 裾払い 2e はたき 2d 小褄取り 1e ひねり 2e |
<立合> ぶちかまし5a 右のどわ 5c 前褌 2d 左上手 4c 左おっつけ2c 張差し 3b 突き落とし2e 頭a肩d胸e 手c変化d |
<心> 気迫 勝負強い スロ-スタ-ト 尻上がり 対小兵○ ダメ押し 荒技 逆境○ 取りこぼし チョン立ち |
<技> 差し身○ 電車道 食下がり 膝払い 多彩 足取り 足癖 髷つかみ ずらし 連続技 |
<体> 前掛かり リーチ○ 怪我× 両肘 右膝 両足首 腰痛 |
重 | 7.0 | ||||||||
力 | C10.5 | 馬力 | 11.5 | ||||||
怪力 | 9.5 | ||||||||
足 腰 |
B11.5 | 安定 | 10.0 | ||||||
粘り | 12.0 | ||||||||
速 | A14.0 | 出足 | 14.0 | ||||||
敏捷 | 14.0 | ||||||||
技 | A13.0 | 技巧 | 12.5 | ||||||
キレ | 13.5 | ||||||||
離 | B11.5 | 突 | 11.0 | ||||||
押 | 12.0 | ||||||||
引 | 11.0 | ||||||||
組 | B11.5 | 寄 | 11.0 | ||||||
投 | 12.5 | ||||||||
掛 | 11.0 |
★略歴 小兵ながら着実に番付を上げ、平成16年九州で入幕。入幕3場所目に早速技能賞。18年1月には朝青龍の8連覇を阻む初金星。翌場所2度目の技能賞を得て新三役となった。110キロほどの体格で、抜群の運動神経で小技も駆使しながら力戦する姿が人気。120キロを超えると、鋭い出足が上位にも通用し、19年には三役に定着。横綱に昇進した同門の白鵬の太刀持ちを断り、自ら大関を狙う意思を示すと、19年9月からは3場所続けて白鵬に勝ち殊勲賞。なかなか大勝ちはなかったが、20年9月に12勝、11月は13勝で決定戦まで進み、白鵬の力技にねじ伏せられたものの、大関に昇進した。殊勲4敢闘1技能5と三賞の常連だった。 大関3場所目の21年5月には初優勝。両横綱と三つ巴の争いの末、決定戦で白鵬を破った。しかしその後は膝、足首などの故障にも悩まされ、9勝程度で先輩4大関共々停滞。1人横綱となった白鵬に独走を許した。23年7月、突然の復活で14連勝でV2、白鵬新記録の8連覇を阻止したが、これも単発に終わった。翌24年9月、再び14連勝して白鵬との楽日全勝対決を制す。翌場所も無傷で勝ち進み、今度は1差で追う白鵬との楽日決戦を制した。大関での連続全勝は双葉山、貴乃花以来。完全無欠の綱取りを果たした。 横綱2場所目にまたも全勝優勝。白鵬と合わせて4場所連続全勝優勝を記録して二強時代到来と期待されたが、その前後は9勝どまりと波があり、次第に故障が多発し、復調した白鵬に水を開けられる。だが進退を問われるような乱調はなく、不調なりに稀勢の里ら大関陣に対しては要所で立ちふさがった。白鵬との相星決戦に勝った25年11月以降はしばらく賜杯から遠ざかったが、27年11月に2年ぶりの優勝。その後も年1回優勝を記録、29年秋には5勝4敗から追い上げ、一時3差をつけられた豪栄道を楽日連勝で逆転。目標の優勝回数二桁に王手をかけた。ところがその翌場所、巡業中の酒席で幕内貴ノ岩に対して暴行を働いたことが明らかになり、初日から連敗して休場。場所後に責任を取って引退。33歳、満身創痍で先は見えていたが、あまりに残念な幕引きとなった。 ★評価 通算優勝9回は、強豪横綱とした北の富士、北勝海の間。通算・幕内勝利数や横綱での皆勤場所数でも10傑入りと、短命横綱との予想を覆した。足を引っ張ったのは勝率の低さで、在位中.727は、伊勢ヶ濱の中興の祖・照國.728、師匠・旭富士.710クラス。柏戸.735と同じく晩年期も皆勤が多かった点は一定評価されるが、強みという点では印象が弱い。乱調は少なかったが、10勝、11勝が多く、12勝以上の場所がわずか7回(.220)。在位中優勝5回の横綱にしては非常に少なく、準優勝の多かった柏戸、二代目若乃花とは対象的だ。勝負強いとも言えるだろう。引退につながった事件は政争の具と化して泥沼化。横綱になった当初は、過度なダメ押しで負傷させたり土俵内外での品位を問う声もあったが、だんだんヒールと化していく白鵬と反比例するように力士の模範を示すような言動で評価を高めていた。それだけに晩節を汚して評価を下げたことは遺憾だった。 ★実績 瞬発力に優れた力士らしく、成績の上でも瞬発的な実績は見事。全勝3回、32連勝は大横綱級。ただし、これはほぼ大関時代の実績。持久力を要する年間最多勝などはなく、70勝に届いた年はない(連続6場所だと昇進前後に74勝)。 ★引退後 引責して土俵を去る。引退勧告相当との決議はされたものの解雇ではなかったが、朝青龍同様日本国籍を取得していなかったため、横綱の特権でも協会には残れなかった。国技館での断髪式は行われた。その後モンゴルに帰国して学校法人などを経営している。 |
★取り口 「突き刺さる」と形容された低く鋭い立合いの当たりで軽量のハンデを克服。リーチのある喉輪から、張り手混じりの激しい突き押しや、もろ差しに入っての速攻が武器。上背はあり、格下には得意の右四つ、左浅い上手の形を作っての寄り、投げで退けていた。白鵬ら大きな上位力士には、小兵時代からの食い下がる形で対抗。左でも右でも前褌を掴むと、出し投げ、下手投げの連発で崩した。決まり手も多彩で、朝青龍を刈り倒し悶絶させた外掛けなどの足技から、足取り、小股掬いの芸もあれば、首投げや吊り落としといった大技まで。横綱昇進前には、左手首を痛めて突きを減らし、左上手を先に取る相撲を増やしたことが功を奏し、以来幅が広がって安定感を増した。 ★パラメータ・スキル 総合値11.5。最高で130キロ台の体で重みはないものの、最大の武器の俊敏さを活かしたスピード相撲を展開。馬力にも磨きをかけて、しばしば稀勢の里ら重量級を電車道に運んだ。土俵際の驚異的な身体感覚も見事だったが、早いうちから下半身の怪我を抱え、うっちゃりなどで粘ることは減った。動き負けないので、小兵力士に合口が良かった。 ★現代との比較 上位陣に大型力士が揃う中、スピードと技を身上とする稀有な存在として君臨。現代における軽量力士の目標となった。しかし、ただ速いだけでなく、運動神経、瞬発力が尋常ではなく、これだけ動ける筋肉は、誰もが備えられるものではない。モンゴル勢も1部屋1人となってからは即戦力タイプに厳選されがちで、体のできていない軽量力士にとっては入門すら難しく、後継者は簡単には出てこないだろう。ひと昔前に登場していたら、体格のハンデもなく、俊敏な動きで攻撃型の横綱として君臨したかもしれない。 |
★四股名 入門時の四股名は、当時の安治川部屋に因んで安馬。19年に伊勢ヶ濱部屋となって多くは改名したが、安美錦ら関取衆はそのまま。同期のモンゴル出身力士の安虎は虎の山になったが、「馬の山」は免れ、大関昇進時に日馬富士(はるまふじ)に改名。馬の字は残しつつ、師匠から富士を引き継ぎ、難読の「日」を頭につけた。伊勢ヶ濱部屋ゆかりの「照」の字も候補に挙がったというが、こちらは弟弟子に譲ることになる。 ★締め込み 入幕当初はスカイブルーの廻しで躍動感があった。黒、銀鼠と移り変わり、以後この2色で回したが、横綱としてはほぼ黒廻し。千代の富士、朝青龍に連なるスピードのある横綱の系譜である。 ★その他 師匠同様不知火型の土俵入り。史上初めて白鵬との不知火型二横綱時代となった。真っ向勝負が代名詞のようになっていたが、変化を見せることもなくはなかった。土俵外でも多才で、趣味の油絵では入選を果たしているほか、博士課程も修了している。 |