新・名力士データ
新パラメータ版
強豪横綱とまでは呼べないが、まずまずの成果を残し、時代の一翼を担った横綱たち。
本章では、そのうちで総合的には強豪とはやや差があるが一定の実績を残し、
中堅クラスと認めた5人を、中堅横綱「B」として取り上げる。
戦後の横綱が並んだクラスに新手が加わった。
基本データ |
四股名(最盛期のもの)、横綱代数、出身地、所属、参考年号(最盛期) 取り口:相撲の取り方を独自の分類で表記(⇒相撲解体新書のページ参照) 型 :得意とする形(一例) 得意技:公式のものに近い表記で 体格 :身長は1cm刻み、体重は5kg刻みで掲載前後の平均的なもの、体格分類は解体新書参照 |
パラメータ
持ち技リスト 特性 |
体格:スケール、重量など体格面の総合値 |
解説 | 略歴・後世の評価・実績・引退後/取り口解説・パラメータの評価とスキルの解説・現代との比較 /四股名・締め込みについて |
照 國 38代 秋田出身 伊勢ヶ濱部屋 昭和18年 | |||||||||
取り口:技能/堅牢型 | 型:両差し/右差し左押付 | 得意手:寄り,吊り | 174cm/165kg 肥満肉厚 | ||||||
体 格 |
C10.5 | 懐 | 9.0 |
<決め技>前褌寄り 5b 吊り寄り 5b 左四つ寄り5b モロ差寄り6c がぶり寄り4c 右差し寄り4c モロハズ 4c からみ投げ1e 上手投げ 4c 下手投げ 3d |
<崩し技>ハズ押し 5b 突っ張り 4a 外掛け 4c腕返し 4c いなし 4c 打っ棄り 3d おっつけ 4c 巻き替え 5c 浴びせ倒し3c 蹴返し 2e |
<立合> 前褌 4b 右差し 3c ぶちかまし3b モロ手突き3b モロ差 3c カチ上げ2d 体当たり 2d 頭a肩d胸d 手b変化e |
<心> 上位キラ- 後の先 人気者 平蜘蛛型 朝日将軍 慎重 |
<技> 体質柔軟 足腰柔軟 付け込み 前捌き 差し身〇 桜色の音楽
|
<体> 博多人形 ユルフン 重心低い 前傾〇 左膝痛 |
重 | 11.0 | ||||||||
力 | C10.5 | 馬力 | 11.0 | ||||||
怪力 | 10.0 | ||||||||
足 腰 |
C10.5 | 安定 | 9.5 | ||||||
粘り | 10.0 | ||||||||
速 | C10.5 | 出足 | 10.5 | ||||||
敏捷 | 11.0 | ||||||||
技 | B12.0 | 技巧 | 12.0 | ||||||
キレ | 11.0 | ||||||||
離 | B11.5 | 突 | 10.5 | ||||||
押 | 12.0 | ||||||||
引 | 10.0 | ||||||||
組 | B12.0 | 寄 | 12.5 | ||||||
投 | 11.0 | ||||||||
吊 | 12.0 |
★略歴 記録的なスピード出世で、初土俵から所要9場所で入幕。当時の最年少記録にも関わらず、新入幕から5場所2ケタ勝利を続けて大関昇進。大鵬、白鵬もびっくりの怪童ぶりだった。新序で黒星先行。序ノ口は5分の星。新十両では負越して転落と、挫折も味わったが、各段1場所突破、再十両でも優勝すると1場所突破するなど幸運も呼び込んだ。新入幕は、14年夏、前場所双葉山を破った4枚目の安芸ノ海を倒し11勝。翌場所2枚目で単独次点の12勝で旗手に。西方の横綱男女ノ川を吊り、大関前田山を破った。関脇に上がっても11、12勝と上位力士と互角。16年夏、羽黒山に1差の13勝で大関の声が掛かった。 大関でも12,13番と勝って双葉山と並ぶ2場所突破。17年5月は片屋を替えられて初顔ばかりの試練。その内の輝昇、玉ノ海に敗れて苦しくなったが、双葉山を下手投げに破り相星に持ち込み、優勝同点の13勝で並んだ安芸ノ海と横綱同時昇進となった。 だが双葉、羽黒と反対の片屋に移った不利は昇進後も尾を引き、優勝にはあと一歩の場所が続く。新横綱では14日目に双葉山と全勝決戦、水入り熱戦の末に敗れて14勝ながら優勝を逃した。そして戦争の激しくなった19年から調子を落とす。故障や病気による休場もあり、気がつけば昇進後7年も優勝のないまま。ただ、その間も黒星が先行して休んだのは1度しかなく、羽黒山や東富士との直接対決に敗れて1差で逃した準優勝もあった。25年9月に決定戦で吉葉山を破り初優勝。すると続く26年1月も吉葉山とデッドヒートの末に全勝優勝。優勝のない横綱が一転して連覇、しかも戦後15日制下初の全勝である。その後は左右の膝の故障が悪化し、3場所連続休場となった28年1月限り、34歳で引退した。 ★評価 「優勝のない横綱」との評に長らく甘んじ、晩年近くに何とか優勝したイメージがあって低い評価になりがちだが、ワースト10に入るのは通算優勝回数のみ。それも開催場所数や優勝制度によって大きな不利がある。一方ベスト10に入る項目もないので、まさに中堅クラスの横綱といえる。東西制などで役力士との対戦が少ない面はあるが、在位中勝率は.728とまさに中堅クラス。入幕後全て11勝以上で横綱になったため、通算勝率.740は輪島に次ぐ11位。現在も史上最年少横綱で大横綱の北の湖も上回る。在位中の勝率、優勝・準優勝率、12勝相当率で柏戸と近似値を示しており、年6場所15日制下だと同程度の成績を残せたものと予想できる。中堅の中でも上に置きたいくらいだが、優勝の少なさが惜しまれる。10傑に迫る出場率をマークしつつ混迷の時代に10年綱を張った(在位年数ではもちろん10指に入る)実績は、もっと讃えられて良い。 ★実績 10年横綱にして優勝2回は寂しいが、開催も不安定な戦中戦後に綱を張っており、ライバルも強力、上位者優勝制度による不利もあった。円熟期の双葉山と5戦して勝ち越していることが実力を示している(準場所でも圧倒していた)。幕内、三役、大関と最年少の出世記録を次々塗り替え、23歳4ヶ月での横綱は、柏鵬に塗り替えられたものの、リカバーの効かない年6場所制以前の出世記録では1位の記録である。 ★引退後 年寄荒磯を襲名。師匠の元清瀬川から伊勢ヶ濱部屋を引継いで荒磯部屋を創設。師匠の退職時に名跡交換して、再び伊勢ヶ濱部屋となった。大関清國、関脇開隆山、淺瀬川らを育てて一門を築き、立浪一門との連合関係を構築、理事としても活躍した。昭和52年、在職中に死去。部屋付きになっていた清國が継承、停年後は和晃が数ヶ月引き継いだが、後継者不在で平成19年に幕を閉じた。なお、同年に元横綱旭富士が伊勢ヶ濱を襲名し、率いていた安治川部屋を改称し復活させている。以降横綱が誕生し、伊勢ヶ濱一門の名も蘇った。 |
★取り口 低い当たりから下からモチャモチャと押して出て、さっと二本差したり前褌を取ったりして寄る。攻めの流れが良くて、重心低く前傾であり思わず相手は引いてしまうが、前に落ちないことに関しては絶対の自信を誇った。腹を活かした吊り、外掛けも得意とした。足腰に不安のあった晩年は、前傾で待ち構えて右差しを狙う戦法を取るようになった。土俵と平行になるくらい低い姿勢の立ち合いは、平蜘蛛型と形容された。 ★パラメータ・スキル 総合値11.1。連続優勝した円熟期をイメージしているが、本当の最盛期は新横綱に駆け上がる頃かもしれない。終戦前後の混乱や糖尿病の影響で一時60キロも萎んだというが、ようやく本来の体躯を取り戻すと、絶対的な王者不在の昭和20年代半ばに栄光が訪れた。流れの中でスムーズに巻替えての両差しなど、非常に前捌きが良く、玄人好みの技能的な取り口。押しても柔かい肉質で暖簾に腕押し、固く締めているのに伸びやすい廻しも柔らかさゆえで、この上なく取りづらい力士だっただろう。攻めの流れが非常にスムーズで心地よく、色白の体に血色が増した様子と合わせて「桜色の音楽」と称された。 ★現代との比較 肥満体型にして万能型。いそうでいないタイプだ。体型や取り口は千代鳳が近いような気もするが、ひと回り小さく体質が柔軟で、四つ相撲寄り。上背はないが、腰が低くかいなの返し方も良いので、あっさり長身力士の懐に収まることはないだろう。前田山は10勝1敗と圧倒、突っ張って叩く相手はおあつらえ向きだ。ただ、圧倒するような出足、怪力ではなく、飛び道具があるわけでもないので、ここぞの場面での凄みを発揮するイメージはないが、双葉山に勝ち越し、羽黒山、安藝ノ海、東富士にもほぼ互角、上位力士に苦手はいなかった。安定しつつも意外性があり、どの時代にいても最後まで優勝争いを盛り上げる存在となっただろう。 |
★四股名 同郷の兄弟子國光から。時勢にも合致した愛国心を唆るしこ名だが、戦後にも神風のように改名させられることはなかった。國の字を引き継いだ力士に清國、桜國がいる。現在の伊勢ヶ濱部屋は歴史的には全く別系統ながら名門のブランドを引き継ぐ意思を表し、継承後に加入した照ノ富士や照強に、伊勢ヶ濱部屋所縁の横綱から一字を授けた。大関2場所突破の実績を持つ、照の字を冠する横綱が復活するか。 ★締め込み もちろんモノクロ時代の人。写真でもカラーの廻し姿となると見当たらない。地味な色には違いないだろう。ユルフン代表のように言われるが、これでも湿らせて硬く締めているつもりだったらしい。材質や体質のせいか。 ★その他 相撲人形、動く錦絵と称された古典的な力士体型がせり上がる雲龍型の土俵入りは、なかなかに評価が高い。白い牡丹に喩えられることもあり、異名の多さは人気の証。 |
東富士 40代 東京出身 富士ヶ根→高砂部屋 昭和26年 | |||||||||
取り口:前進型 | 型:左差し右上手 | 得意手:寄り,出投げ | 179cm/175kg 巨漢肉厚 | ||||||
体 格 |
B13.0 | 懐 | 11.0 |
<決め技> 怒涛の寄り6c がぶり寄り5c 上手出投げ5b 上手投げ 4b 両差し寄り4c 右差し寄り4d 吊り寄り 3c 掬い投げ3d モロ手突き4c 素首落とし3d |
<崩し技> 上突っ張り4c のどわ 3c 右おっつけ3c 浴びせ倒し3c 外掛け 3c 引きつけ 4b 腕返し 3b 極め 4c 鯖折り 2e 切り返し 2d |
<立合> 体当たり 4b 左差し 3b 張差し 3c 右上手 2c カチ上げ 2d モロ手突き3c 右抱え込み3c
頭c肩a胸b 手c変化e |
<心> 強行 調整× 水入相撲 江戸っ子 |
<技> がっぷり〇 電車道
|
<体> アゴ上がり 重い腰 巨腹 両足首
|
重 | 13.0 | ||||||||
力 | B12.5 | 馬力 | 13.0 | ||||||
怪力 | 12.0 | ||||||||
足 腰 |
C10.0 | 安定 | 10.0 | ||||||
粘り | 10.0 | ||||||||
速 | C 9.5 | 出足 | 11.0 | ||||||
敏捷 | 9.0 | ||||||||
技 | C10.0 | 技巧 | 10.0 | ||||||
キレ | 10.5 | ||||||||
離 | C10.5 | 突 | 11.0 | ||||||
押 | 11.0 | ||||||||
引 | 9.0 | ||||||||
組 | A13.0 | 寄 | 13.5 | ||||||
投 | 12.0 | ||||||||
極 | 10.5 |
★略歴 13歳で入門し、前相撲で2年揉まれたが、番付に乗ってからは順調で、十両も3場所突破。18年夏21歳で新入幕を果たすと、トントン拍子に番付を上げ、19年11月の新関脇では、目を掛けられていた横綱双葉山を上手投げ、最後の黒星をつける恩返し。上位優勝の前田山と同点の9勝1敗。続く20年6月の非公開場所でも羽黒山ら役力士に全勝、平幕十勝岩に不覚を取って優勝は逃すも大関に昇進した。 戦後初開催の11月も全勝優勝の羽黒山に敗れただけの9勝1敗。戦後晴天ジプシー興行時代、成績に波があって綱取りには時間がかかったが、頻繁に優勝争いに絡み、初開催の決定戦にも進出、23年5月の神宮外苑では過去4戦4敗の照國との1敗対決を制し、初優勝。続く10月も3横綱不在の中10勝1敗。決定戦は落としたが、場所後横綱を免許された。 24年1月は新横綱で10勝2敗1分ながら優勝。先輩3横綱が休場がちの中、一時代を築くことを期待された。ところが、きっちり年1回のペースで優勝はするが、群雄割拠の時代を制圧するには至らず。実力は一番上と見られたが、安定感を欠いて連敗や途中休場が多かった。晩年はもともと良くなかった下半身に故障が続き、6回目の優勝の後は腰椎捻挫で不調、4場所連続休場となった29年9月を最後に引退。程なく廃業してプロレスに転向した。 ★評価 戦後、双葉の後継者として新時代を引っ張ることを期待され、混乱期に綱を張って苦労したが、栃若黄金時代に至る相撲復興期を支えた。実績よりも江戸っ子らしい気風の良さで人気があり、高熱をおしての熱戦で預かりとなった吉葉山戦の奮闘、昇進のかかる栃錦に横綱の座を譲るように身を引いた潔さ、といったエピソードで語られることが多い。優勝率.250、乱調率.250と両極端。興行が混迷を極めた時期、他の横綱も休場がちで、不調でも休めず全休は1場所だけ。4場所も再出場した横綱は空前絶後。在位中勝率が7割を切っているが、こうした事情は考慮されるべきだろう。最後の優勝の翌場所も3勝1敗で休場しながら、終盤出てきて横綱大関相手に5連敗。仮に全く再出場しなかった場合の勝率は.732と照國、日馬富士を上回る。数字では測れない時代の横綱だが、その他データ面でも、与金星率ワースト5位を除けばベスト10、ワースト10に入る項目はなく、少なくとも中堅どころの横綱と評価できる。 ★実績 通算6回(他に同点3回)、在位中5回の優勝は、当時の年間場所数を考えると立派な数字で、在位中の優勝率.250は輪島、北の富士レベル。最も勢いのあった時期が終戦前後の不定期開催期にあたり、それがなければさらに実績を重ねていたものと惜しまれる。全勝を逃すこと7度、取り直しの大相撲で落としたり、雨天中止と早合点という当時ならではの惜敗?も。連覇や全勝、大型の連勝がなかったことも、第一人者という印象は残せなかった原因と言われる。 ★引退後 年寄錦戸を襲名したが、小部屋の富士ヶ根部屋出身だった上に戦時中の混乱期に高砂か出羽海かで所属先で揉め、後ろ盾が双葉山の時津風という複雑な人間関係に苦労したようで、早々に廃業してプロレスラーとなる。元横綱の異種格闘技転向は例がなく、注目は集めたが大成功とはいかず。格闘家転向した横綱では、のちに輪島、双羽黒、曙の例がある。 |
★取り口 「怒涛の寄り身」と称された左四つ出足早の前進が真骨頂。巨体で胸を合わせてのがぶり寄り。相手が潰れて寄り倒しになることも多かった。さらに相手が踏ん張るところをつぶすような右上手出し投げを習得して幅が広がった。右差しで寄り進む形もあった。胸を出して体で当たりつつ、突き押しをあてがって左四つに組み止める安定感があった。 ★パラメータ・スキル 総合値11.2。当時史上最重量横綱のがぶり、上手透かし気味の重い出し投げは破壊力抜群。豊かな腹で相手を乗せそうだが、意外と吊り出しの決まり手は少ないのは、体質的に不向きだったのか。大関時代に痛めた左足首の怪我の影響や、諦めの良い気質もあってか、ムラの大きさは否めず。 ★現代との比較 重量級の四つ相撲。怒涛の寄り身といえば新しいところでは琴奨菊だが、脈々と同じタイプは登場している。当時としては吊り出しが少ないのも現代に近い。 |
★四股名 当初所属した富士ヶ根部屋より「富士」。のち高砂部屋所属となり、後輩に富士錦や富士櫻がいるが、彼らは出身地に因んでいる面が大きい。当初の東“冨“士から、横綱中期の27年1月から東富士。富士錦や北の富士、千代の富士も当初は”冨“の字から改名しているのは、これに倣ったものだろうか(根拠はない)。「富士」は高みの象徴であることから、所属部屋や時代を問わず一定数現れるが、横綱に昇り詰めたのは東富士が最初。その後に4人が続いている。
★締め込み もちろんモノクロ時代の人。化粧回し姿はあっても、廻し姿のカラー写真となると見当たらない。地味な色には違いないだろう。 ★その他 土俵入りは雲竜型。淡泊と言われるが、吉葉山との死闘は有名。高熱をおしての強行出場ながら、取り直しの後水入りの大熱戦、またも同体取り直しとなったところで、東富士の状態を見た検査役の判断で勝負は預かりとなった。令和になってやっと審判の判断で取り直しをさせないことができるよう制度が固まったが、それでも不戦敗という理不尽な扱い。当時の方が合理性があると思うが、なぜか前例として採用されない。 |
千代の山 41代 北海道出身 出羽海部屋 昭和30年 | |||||||||
取り口:突押・本格型 | 型:突張り・右差し左上手 | 得意手:突き,上手投 | 190cm/125kg 長身筋肉 | ||||||
体 格 |
B11.0 | 懐 | 12.5 |
<決め技> 猛突っ張り6b 左上手投げ5b 右四つ寄り4c はたき 5b モロ手突き6b 小手投げ 4c 掬い投げ 4c 素首落とし3d 上手出投げ3d 櫓投げ 1e |
<崩し技>張り手 4b 右突き放し5b のどわ 5b ハズ押し 4c 引きつけ 4b 右腕返し 4c 下手投げ 3d 外掛け 2d 吊り 2d うっちゃり 2d |
<立合> モロ手突き6b 体当たり 4b かちあげ 3d 右差し 2c 上手 2d かっぱじき2d はたき 3d 張差し 2d 頭d肩b胸c 手a変化d |
<心> 勝負弱い 調整× 連敗癖 水入相撲 早熟型 青年横綱 |
<技> 右堅い 重い突き 変化技○
|
<体> 鉄骨櫓 リーチ長 腰痛 右膝
|
重 | 9.5 | ||||||||
力 | A13.0 | 馬力 | 12.5 | ||||||
怪力 | 12.5 | ||||||||
足 腰 |
C10.0 | 安定 | 10.0 | ||||||
粘り | 10.0 | ||||||||
速 | C 9.5 | 出足 | 10.0 | ||||||
敏捷 | 9.0 | ||||||||
技 | C10.5 | 技巧 | 10.5 | ||||||
キレ | 11.5 | ||||||||
離 | A13.0 | 突 | 14.0 | ||||||
押 | 12.0 | ||||||||
引 | 11.5 | ||||||||
組 | B11.5 | 寄 | 11.5 | ||||||
投 | 11.5 | ||||||||
吊 | 9.0 |
★略歴 長年双葉山ら立浪勢に席巻された名門・出羽海部屋の至宝。新十両から連続優勝で入幕。終戦直後の昭和20年11月、新入幕で10戦全勝。対戦のなかった横綱羽黒山が上位者優勝となったが、鮮烈なデビューを飾った。不定期開催となり、出世のチャンスが限られたが、24年関脇で準優勝の12勝で大関昇進。そして新大関から連覇。現在なら即横綱の声がかかりそうだが、前田山のシールズ事件や不安定な横綱陣に対する批判が高まっていた時期と重なり、13勝、12勝と成績も微妙で、運悪く見送られた(師匠が時期尚早と勝手に辞退したという話もある)。その後しばし低迷したが、翌26年5月、大内山に敗れただけの14勝で優勝すると、晴れて横綱免許となった。 いよいよ主役への浮上が期待されたが、なかなか横綱として優勝できずプレッシャーからか不振に陥る。28年には、途中休場・再出場で4勝4敗。翌場所2日目から4連敗して休場。「横綱返上」を願い出るまで思い悩んだが、徐々に復調して優勝を争うようになり、30年1月、中盤3連敗から立て直して12勝、時津山との決定戦を制し横綱4年目でようやく優勝を果たした。波に乗って翌場所も、大内山との決定戦の末連覇を飾る。その後は膝の故障に苦しんで休場が増えたが、32年1月は独走で全勝優勝を記録し地力健在を誇示した。しかし、その後も休場がち、同年秋には8敗を記録して休んだ。33年前半3場所は若乃花に3連勝、優勝も争うが、本場所の増加が老体にこたえたか、栃若時代が隆盛する中、34年1月場所中に引退となった。 ★評価 長身を利した突っ張りは太刀山の再来と期待された、戦後相撲界のニューヒーロー。横綱となり通算優勝6回を記録したが、遂に時代の主役となるまでには至らず、惜しい印象が強い。力士寿命は長かったが、後年は故障と付き合いながらの土俵だったことから、元気な頃に本場所開催が限られたり、外的要因で横綱昇進が遅れた点が惜しまれる。 ★実績 連覇を横綱と大関で記録、全勝優勝も記録しているが、活躍が長続きせず、12、13勝の優勝も多くて、王者の貫禄を示すには至らず。活躍時期の近い東富士とは、在位中勝率.699、通算優勝6回で並び、横綱としてそれなりに結果は残しながら、通算勝率より在位中勝率が低いという特徴も同じ。照國も連覇、全勝ありで優勝2回、優勝率1割弱なので、やはり同クラスか。 ★引退後 年寄九重を襲名、出羽海継承が有力視されていたが、中継ぎと見られた出羽ノ花から佐田の山への継承が既定路線となると、当時の出羽海部屋では許されていなかった独立の道を選ぶ。結果的には大関北の富士らの移籍まで認められたが、破門、委員降格とダメージも大きかった。高砂一門へ加入して迎えた最初の場所、九重部屋で出場した北の富士が初優勝、松前山が十両優勝と活躍し、歓喜の涙。さらに同郷の千代の富士をスカウト。昭和52年に早世したことで、独立していた元横綱北の富士の井筒が統合する形で継承し、その後の隆盛に至る。あと10年生きていれば、九重の千代の富士、井筒の北勝海として並び立っていたかもしれないし、どちらも横綱になっていないかもしれない。 |
★取り口 立合いからの相手を圧倒する突きの迫力は凄まじく、あるときは相手を一発でひっくり返して、太刀山の「四十五日(一月半=一突き半)」を超えたと恐れられた。モロ手だけでなく、体で当たりながらの突き放しも強烈だった。いっぺんに突き切れなくても、前にのめったところを叩き込んだり、捕まえて長身を活かした右四つ左上手。上手投げも強かった。後年は自分から四つに組むことも増えて、復活優勝の30年初場所は投げ技で12勝中10勝。しかし翌場所は6勝を突き出し、突き倒しで稼いで連覇。最後まで最大の武器は健在。通算の決まり手で、突き出しが1位という力士は横綱に限らず滅多にお目にかかれない。 ★パラメータ・スキル 総合値11.1。190センチの長身、「鉄骨櫓」の異名を取った筋肉質の体で、腹も出ていない力士らしからぬ体躯。猛突っ張りが武器で、相手を寄せ付けない威力。稽古相手だった同門の栃錦は、おかげで歯がボロボロになったという。巨人タイプにありがちな鈍さもなく、たまに変化技も見せた。一方で体形の割に吊りは少なかった。気があまり強くなく、ここ一番で落として優勝を逃すことも。27年春などは全勝で並走しながら再出場してきた東富士に土をつけられたりしている。また、新入幕の時で体重の増加が止まってしまい、重みには欠けた。脆さを拭いきれず、期待された大横綱とまではいかなかった。 ★現代との比較 現代から見ればソップ型。その突っ張りの威力はどこまで通用するか。長身かつワキが堅いので、突っ張りで先制して右四つ左上手で怪力を発揮すれば、現代の巨漢力士も圧倒できるかもしれない。 |
★四股名 四股名を「ノ」を「の」に改めて心機一転の29年にようやく安定した。そのためか、北の富士、千代の富士を初め九重部屋の力士は伝統的にひらがなの「の」が用いられる。例外は孝乃富士、富士乃真、千代ノ皇くらいだ。 ★締め込み もちろんモノクロ時代の人。化粧回し姿はあっても、廻し姿のカラー写真となると見当たらない。地味な色には違いないだろう。 ★その他 筋肉質の体が迫り上がる雲竜型土俵入りは力感があり、仁王像にも例えられた。 |
鏡 里 42代 青森出身 時津風部屋 昭和32年 | |||||||||
取り口:堅牢型 | 型:右差し左上手/極め | 得意手:寄り,吊り | 174cm/160kg 肥満肉厚 | ||||||
体 格 |
B12.5 | 懐 | 11.0 |
<決め技>右四つ寄り5c ガブリ寄り4c 上手投げ4b 掬い投げ3c 極め倒し3c 上突っ張り4b モロ手突き4c 打っ棄り 4c 出し投げ3c 突き落とし4c |
<崩し技>泉川 5c はたき 4b 吊り 4b 切り返し 2d 渡し込み2d 素首落とし3c 閂 5d ハズ押し4b 腕ひねり 2e 鯖折り 1e
|
<立合> 抱え込み4b 右差し 3b モロ手突き3b 左上手 2c 体当たり3c 張差し 2c はたき 2e
頭d肩d胸a 手c変化e |
<心> 横綱相撲 慎重 引き癖 力技 ジョッパリ 番付運〇 対小兵〇 対上位〇 |
<技> 打合い○ 合わせ技 呼び込み 引張り込み
|
<体> 太鼓腹 ケガ〇 重い腰 重心低い 足腰硬い 体入替え 右ひざ |
重 | 12.5 | ||||||||
力 | B12.0 | 馬力 | 11.0 | ||||||
怪力 | 12.0 | ||||||||
足 腰 |
C10.0 | 安定 | 9.0 | ||||||
粘り | 10.5 | ||||||||
速 | D 8.0 | 出足 | 8.0 | ||||||
敏捷 | 7.5 | ||||||||
技 | C 9.5 | 技巧 | 9.5 | ||||||
キレ | 9.0 | ||||||||
離 | B11.0 | 突 | 10.5 | ||||||
押 | 10.5 | ||||||||
引 | 9.0 | ||||||||
組 | B12.5 | 寄 | 12.5 | ||||||
投 | 10.0 | ||||||||
掛 | 13.0 |
★略歴 元大関鏡岩の粂川部屋に入門するが、程なく師匠が部屋ごと双葉山道場に譲り渡したことから、偉大な現役横綱を師匠に戴くこととなった。十両目前で応召されたが、戦後すぐ十両昇進、22年入幕後は地道に力をつけ、24年10月2金星を挙げ12勝の大活躍。師匠を破って潮時を悟らせたという東富士から金星を得て殊勲・敢闘W受賞。小結を飛び越し新関脇、在位4場所11、9、8、11勝で大関に推挙された。大関でも6場所、常に2ケタと安定した成績を残し、28年1月、14勝1敗で初優勝、横綱に昇進となった。前の場所優勝した栃錦に唯一土をつけ2差の12勝、直近場所は四横綱壊滅の中で逃げ切った。 横綱となって2年半は不調で優勝がなかったが、30年9月、11月と14勝で連覇。9月は関脇松登を退けて逃げ切り、11月は大関若ノ花に敗れて迫られたが逃げ切り、決定戦で元付け人の平幕鶴ヶ嶺を下した。このころが全盛期か。翌年9月に4度目の賜杯。1差で若ノ花を追っていたが、直接対決は相手の発熱で不戦勝。首位に立った千秋楽は1差の横綱吉葉山を退けた。翌32年は優勝なく、8勝のあと全休してそろそろと囁かれた。33年1月場所中に吉葉山が引退し、同じく不振の横綱に群がるマスコミに「10勝できなければ引退」と公言。13日目にデッドラインの6敗となるが、その後横綱相手に連勝し9勝。実力を示したが公約通り潔く引退。晴れ晴れと風呂に浸かる表情が爽快である。 ★評価 大関、横綱昇進ともに成績不十分、時期尚早との反対意見が出たが、栃若時代前夜の横綱として5年近く君臨し、地位に恥じない足跡は残した。相撲ぶり、キャラクター、成績ともに上位陣の中では地味な存在だったが、栃若ら小兵に強く、やられ役以上の存在感はあった。成績を紐解くと、横綱勝率6割9分台は東富士、千代の山、鶴竜らと同等だが、優勝回数で劣り、他の項目も何とかワースト10を免れたという数字が多い。優勝争いに絡むことが少なく、二桁に届かない場所も多くてあまり褒められたデータはないが、酷い乱調は少なく横綱の体面は保った点を評価、中堅横綱とした。 ★実績 優勝は4回、うち在位中3回。12勝以上が5場所なので決定力は高い。年4場所時代だが在位21場所中皆勤18場所と堅牢で、出場率.911は玉の海を除けば1位。栃若を破っての9勝6敗で終えて引退した最終場所が象徴的だ。栃若に勝ち越しているのが小兵キラーたる所以。 ★引退後 部屋付となり、双葉山没後は一時時津風を継承。しかし遺族の意向に従ってこれを返上、師匠の直弟子の豊山に譲ると、弟子も連れずに同じく粂川部屋時代からの弟弟子・大内山ら部屋付親方だけを従えて、立田川として独立した。複雑な思いを堪え、角聖亡き後をお家騒動で汚さなかったことは評価できる。高齢にして一からの独立は当時は無謀とも言われ、停年までに関取は十両・高道(森乃里)1人に留まった。部屋付だった同郷の青ノ里(自らが勧誘したが、独立時に移籍させず時津風のまま)を後継者に指名し、退職。立田川部屋は平成12年に陸奥部屋に吸収されて消滅するが、敷島、十文字が幕内に、陸奥部屋移籍後に豊桜が幕内、白馬が小結に昇進している。脳卒中を患ったため還暦土俵入りはできなかったが、元横綱としては初代梅ヶ谷以来となる80歳の長寿を全うした。 |
★取り口 代名詞でもある貫禄の巨腹を活かした寄り、上手投げ。重厚堅実な右四つの相撲が持ち味。もともとは突っ張り、左差しの攻めの相撲で出世したが、若いうちに右膝を痛めたことをきっかけに、激しい動きを控えて四つ中心に転向。組手も左四つから右四つに変えてどっしりした相撲を心掛けると、目方が増えるとともに本格化した。うるさい相手は引っ張りこんだり、泉川に抱え込んで封じる力技も得意とした。 ★パラメータ・スキル 総合値10.8 。横綱時代は手堅い取り口の印象に反してムラのある成績。慎重な取り口だが、多少慌て癖があって苦手相手には自分の相撲が取り切れないきらいがあったようだ。良い時は安定した横綱相撲で、4度の優勝全て14勝の好成績。引っ張り込んで小兵を封じるのがうまかった。足腰は膝に不安があったとされるが、意外な粘り腰を発揮してうっちゃりもよく決めている。 ★現代との比較 巨漢横綱の代表格だが、全盛時で160キロ余りと東富士より10キロ以上軽い。今の幕内平均ほどだ。同じ相撲を取っていては現代では通用しないだろうが、それならもっと太るだろうか。それとも膝をテーピングで固めて、消耗覚悟で若き日の激しい攻めの相撲を貫くだろうか。 |
★四股名 入門時に師匠鏡岩から一字。双葉山門下にあっても同じく。「鏡」を継ぐ力士はいなかったが、「里」の字は弟弟子で立田川部屋の後継となった青ノ里、直弟子の森乃里らに引き継がれた。近年「里」は減少傾向だったが、一時下火になったが、隆の里・稀勢の里師弟が横綱になっている。 ★締め込み モノクロ時代で判然としないが、十両昇進時に、引退直後の師匠双葉山から紫の締め込みを譲られたという逸話がある。 ★その他 色白で太鼓腹が迫り出す雲竜型土俵入りは「相撲人形のごとし」と形容され、評価が高かった。渋好み。当時のあんこ型力士の代表であり、筆者の祖母も妊娠中に産科医にその名を出されて憤慨したそうだ。 |
鶴 竜 71代 モンゴル出身 井筒→陸奥部屋 平成30年 | |||||||||
取り口:技能型 | 型:突張り/右差し/両差し | 得意手:寄り、突張り | 186cm/155kg 均整中肉 | ||||||
体 格 |
C10.0 | 懐 | 10.5 |
<決め技> 突っ張り 5a モロ差寄り5b はたき 6a 上手出投げ5c 下手出投げ4c 突き落とし5c 右下手投げ3c 右差し寄り4c 肩透かし 5c 左上手投げ3c |
<崩し技> 巻き替え 5b のどわ 3b 外掛け 3d たぐり 3c 引き落とし4c 引っ掛け 3d いなし 5b 裾払い 2d 両前褌寄り3c 張り手 3d |
<立合> ぶちかまし4b モロ手突き3b 右差し 3b 張差し 3c モロ差し 2d 左前褌 3b はたき 4d 頭b肩d胸d 手b変化d |
<心> 引き癖 尻上がり ポ-カ-フェ-ス チャンス○ 晩成型 |
<技> まわりこみ 差し身 前捌き 連続技 逆四つ○ 変化技○ 俵伝い 呼び込み |
<体> 上体柔軟 体質柔軟 立ち腰 両足首 左肩 怪我× |
重 | 10.0 | ||||||||
力 | C10.0 | 馬力 | 10.5 | ||||||
怪力 | 10.0 | ||||||||
足 腰 |
B11.5 | 安定 | 11.5 | ||||||
粘り | 12.0 | ||||||||
速 | B12.0 | 出足 | 11.5 | ||||||
敏捷 | 13.0 | ||||||||
技 | A13.0 | 技巧 | 13.0 | ||||||
キレ | 12.0 | ||||||||
離 | B11.5 | 突 | 11.0 | ||||||
押 | 11.0 | ||||||||
引 | 13.5 | ||||||||
組 | B11.5 | 寄 | 11.5 | ||||||
投 | 12.0 | ||||||||
掛 | 8.5 |
★略歴 入門時は体が小さく師匠は「床山にでも」と考えたというが、所要4年20歳で十両昇進。1度は跳ね返されるが再十両からは4場所連続9勝して21歳で入幕。地味ながら着実な足取りで、平成20年1月を皮切りに技能賞の常連となる。130キロ程度の身体にそれ以上を期待する声は多くなかったが、突っ張りも磨いて徐々に本格化。21年からは上位に定着し、やがて三役定着。琴奨菊、稀勢の里とのハイレベルな大関取りレースでは遅れを取り、すでに5大関の飽和状態となったが、これまで勝てなかった白鵬に連勝。24年春は13勝1敗の首位で千秋楽を迎え、惜しくも逆転優勝を許したが、決定戦では巻き替えて両差しになって白鵬の寄りを凌ぎ、あわやと思わせる善戦だった。通算9個目となる三賞を手土産に、史上初めての6大関体制を誕生させた。 大関昇進後は平均クンロクの停滞ぶりだったが、26年1月は黒星スタートから14連勝。本割で破った白鵬にまたもや決定戦で屈したが、3月も1敗で終盤を迎えると、全勝日馬富士に土をつけ、14日目白鵬との相星決戦で雪辱。そして千秋楽琴奨菊を寄り切って初優勝。平成に入って連覇以外での横綱昇進例はなかったが、連続14勝がモノを言って満場一致での昇進となった。 横綱昇進後は幾分勝率は上がったものの、王者白鵬の前に楽日1差で挑むも二度返り討ち。昇進後初優勝は、横綱白鵬が初めて休んだ27年9月。全勝で走りながら怪我で急失速した大関照ノ富士を逆転、1差をつけての千秋楽対決。本割では不覚を取ったが、決定戦を制し、昇進1年半にして優勝を果たした。その後も毎場所立派な成績とは言い難いものの年1回ペースで優勝していたが、29年は3月の10勝しか皆勤がなく、進退問題が取り沙汰された30年1月は初日から10連勝で危機脱出。さらに翌場所からは自身初の連覇を果たした。腰痛などに悩まされ以後も休場ばかりだったが、コンディションさえ良ければそこそこの成績を残し、34歳目前の令和元年7月には6回目の優勝を記録。さらに3場所休場が続いたあとも、準優勝で一息。しかしその翌場所初日、横綱では初の腰砕けで負傷休場してから歴代ワースト2位の連続休場となり、横審からも注意。進退かけると明言した3年初、春と新たな故障で休むに至り、場所中に観念して引退を発表した。 ★評価 ワンチャンス活かして横綱に昇進した不安の声をよそに、在位中優勝5回。休場が多かったが何度も窮地を乗り切り、35歳目前まで横綱を張った。大きくはない体ながら、突っ張りや井筒伝統のモロ差し、出し投げも駆使してついには頂点を極めた。大型化した平成の終わりに技能派横綱が誕生したのは意義深い。地味ではあるが、モンゴルの先輩3横綱に比べて土俵内外での態度で批判を受けることがなかった。在位中勝率は.695と同ランクの東富士、千代の山、鏡里と数厘差。優勝回数も近くまさに同ランク。横綱を期待される力士でなかったのはワースト10に入る通算勝率.612が物語っているが、早くから次代の主役と期待された通算7割台の東富士、千代の山と同等レベルに頑張ったと言える。白鵬には決定戦で2度、相星決戦2度、1差ビハインドの楽日決戦で2度敗れており(1勝したが決定戦敗退)、終始引き立て役に甘んじたのは残念。 ★実績 優勝6回。全勝はないが、連覇は1度。長く幕内を務め、通算勝利や幕内勝利数はベスト10入り。在位40場所は歴代10位だが、うちフル出場は22場所、全休や序盤の休場が多く、出場率6割台は短命横綱級で、差し引く必要がある。 ★引退後 引退直前に師匠が急逝し、井筒部屋は閉鎖。陸奥部屋へ、横綱としては異例の移籍となった。横綱特権で一代年寄鶴竜となったが、将来的には師匠急逝で途絶えた井筒を受け継ぐのか、注目されている。いずれにしても時津風一門としては霧島以来の大関、優勝力士、柏戸以来の横綱であり実績は圧倒的。徐々に一門内で存在感を増しそうだ。 |
★取り口 井筒部屋伝統のモロ差しを継ぐ技能派として注目され、技能賞7回。公式には下手投げが得意技と称しているがそれほど武器にしていたわけではなく、どちからといえば出し投げの名手だった。巧さに加えて、突っ張りで前に出る力を磨き、躍進。最終的には、突き放すか押し上げてから右四つに入る型が定まった。本格的な技能相撲で、大技、小技に走らなかった。そのため、休場こそ多かったが致命的な故障はなく35歳まで地力を保つことができたのだろう。時に欠点にもなったが、史上10位の横綱在位を支えたのが、引き技。休場明けなどで生命線の鋭い立ち合いができなくても、逆転で何度も危機を脱しながら優勝争いに残ることができた。 ★パラメータ・スキル 総合値11.2。 組んでも離れても技があり、バランスの良い体躯を誇るが、能力的にも万能タイプ。やや軽量で上がってきて、体を大きくしながら三役から上に昇っていく理想的な成長ぶり。元来は柔らかく土俵際で残せるタイプだが、年々故障が重なって引き技の巧さに頼るようになった。大型化する時代の中、何とか標準的な大きさまで体重を増やし、巨漢と真向渡り合える体を作った。反面、妙義龍、栃煌山といった差し身が良く、出足の鋭い相手には引いて呼び込んでしまい、軽い印象を与えた。左肩の故障もあり、腕力に頼らない相撲を心掛けた。いつも淡々と表情を変えないポーカーフェイス。ドカベン山田太郎になぞらえる向きもあった。 ★現代との比較 絶対王者には合口が悪く、朝青龍には7戦して1度も勝てず。相四つの白鵬とは熱戦も多かったが、8勝42敗の大差。初顔から20連敗、さらに11連敗。その間、大関、横綱に昇進する直前2場所ずつだけ勝つ奇跡。技能派といえども相撲がまともで一発もないため、歴代の大横綱に通用するかは微妙だ。日馬富士、稀勢の里にも大きく負け越している。 |
★四股名 先代井筒が名乗った鶴ヶ嶺から「鶴」。下の名の「力三郎」もゆかりの源氏山力三郎から。こちらは寺尾が新十両時に名乗ったことがある。井筒の横綱といえば西ノ海三代がいるが、四代目という話は挙がったかは、あまり聞かない。伝統ある井筒のしこ名がこのまま消えていくのは寂しい。いずれ復活を期待。 ★締め込み 緑色で入幕し、青色で躍進し大関へ。大関時代の25年から暗めの紺に変えて翌年横綱昇進。以後はそのまま通した。オーソドックスかつ変遷の少ないタイプ。 ★その他 朝青龍引退で昭和以降最長の4年間も途絶えていた雲龍型の土俵入りを復活。指導役となる一門の先輩横綱となる柏戸、鏡里は故人。そこで白羽の矢が立ったのは、なんと貴乃花。新一門を率いる総帥は、快く引き受けた。 |