平成名力士 三役に定着し、大関候補とも呼ばれた面々。息の長い活躍を見せた力士が多い。 |
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関脇 逆鉾
昭和の終わりから平成にかけて9場所で関脇に在位した技能派力士。父・鶴ヶ嶺譲りのモロ差し名人で技能賞4回。上位にも強く殊勲賞5回、金星7個。個性派で人気もあった。引退後は井筒部屋を継承、低迷期を経て大関鶴竜を両差しの技能は脈々と受け継がれている。 入門から5年弱で57年11月新入幕。59年には上位へ食い込み。隆の里からは3つの金星を挙げて3場所連続三賞の快挙。その後はしばらく平幕で停滞が続く。61年後半からやや復調。「新小結」で久しぶりの三賞(関脇経験がありながらしばらく小結在位がなかった。弟寺尾も同様なのが面白い)。62年には天敵千代の富士をモロ差しの攻めで破るなど、4つの金星。62年11月からは関脇でずっと勝ち越し、9場所連続在位の記録を作った。その間横綱大関とも互角に取り、三賞は4度ある。一方で2ケタ勝利はなく、大関候補とは言われながら大関取りのチャンスはなかった。元来大勝ちできない力士で、これだけの実績を残しながら幕内で二桁は中下位で3度しかなく、しかも11勝以上はなかった。寺尾と史上初の兄弟同時関脇となった平成元年春場所、千秋楽に惜しくも負け越して連続在位が途切れた。1場所で戻るが、7月肩を痛めて2勝13敗の惨敗。以後若手が台頭する中徐々に後退していった。3年7月、平幕優勝した琴富士とともに場所前半盛り上げたのが最後の活躍で、翌場所右足を痛めて休場すると、以降急速に衰えて4年には十両落ち。あっという間に引退した。 モロ差しの速攻が冴えた。軽量の部類だったが、立合い肩で当たって肩からさっと入れる差し身。巻き替えの妙技もあり、「千代の富士はワキが甘い」と豪語するとおり、連勝中の横綱にもよく二本差しているが、強引に力で封じられている。よく指摘されたのがアゴが上がる癖。天井向いて相撲を取っていると揶揄されたが、構わず出る馬力があった。 昭和59年1月 隆の里戦 稽古場で厳しく鍛えられた隆の里に対して恩返し、いや仕返しを試みる。二本差して攻め、強引な小手投げに外掛けを浴びせて重ね餅に倒すと、立ち上がって横綱をまたいだままガッツポーズ。そんなに派手にやったわけでもないが、当時としては目に付いたようでこっぴどく叩かれたが、逆にその存在感を示した一番だった。 関脇 琴ヶ梅 昭和60年代から平成初期、関脇に定着したアンコ型力士。重心の低い押し相撲で上位力士を悩ませた実力派。敢闘賞4回が光る。 順調に出世し、60年新入幕。年内には初三賞も得て、三役に昇る。61年は3度目の小結で敢闘賞の活躍、新関脇となって大関候補と期待させた。右足首の故障で1年ほど低迷したが、63年1月前頭7枚目ながら初金星を含む12勝を挙げる活躍で復活。以後13場所の間、1場所を除いて三役に定着した。同時期に活躍した逆鉾同様大勝は少なかったが、平成元年の7月9月と連続10勝。最も大関に近づいた。しかし糖尿病などで体重が落ちて一気にしぼんでしまった。平成4年以降は幕内下位と十両を往復していたが、9年まで頑張って引退。数年間部屋付きで指導した後退職した。 どっしりした押し相撲向きの体型。出足と、重心低く粘り強い押しは上位陣に嫌がられた。頭を下げて押すので引きたくなるが、めったに前には落ちず、乗じて出るのが必勝パターン。そのためいつも取組後、髷はグチャグチャ、勝ち名乗りで首を振り上げて垂れた髷を直している姿が印象的だった。上位陣には、右へ回っての突き落としで殊勲の星を挙げている。これだけの重量級で、かつしぶとい押し相撲を取るタイプは、なかなか出て来ないだろう。 63年5月 千代の富士戦 休場明けながら5連勝スタートの千代の富士に対し、まともに当たって出ると、横綱の引きに付け入って一気に押し出し。最初で最後の千代の富士撃破。千代の富士はこの翌日から53連勝。連勝中も琴ヶ梅は大横綱をかなり苦しめ、物言い差し違えの縺れた一番もあった。
関脇 栃乃和歌 栃錦の「清隆」を本名に持つ春日野の精鋭。筋肉質の長身で、怪力を活かした攻めが強烈。全盛期は大関へあと一歩と迫った。息の長い力士で、新入幕以来13年間幕内の座を守った。名門春日野の4代目師匠として、新たな時代を築く。 明大で活躍して幕下附出デビュー。意外と十両昇進には苦労したが、62年1月入幕。以来一度も陥落しなかった。2場所目に敢闘賞、とんとん拍子に三役昇進、その場所2大関を破る活躍で殊勲賞、新関脇となる。三役に定着するが、なかなか星は上がらず膝を痛めて低迷したが、平成3年ごろから力を出し始め、9月自己最高の11勝で三役復帰、翌場所小結で10勝。8勝を挟んだ4年3月、大関霧島を半身の体勢ながら馬力で寄り切ると、小錦、関脇貴花田・曙にも完勝。2敗でトップ集団4人の中に名を連ねて千秋楽へ。栃乃和歌勝てば決定戦進出の一番、水戸泉に土俵際惜しくも投げ捨てられて脱落。三役で12勝して大関を狙うも、張り切りすぎたか故障してしまい絶不調、結局途中休場に追い込まれた。以降、30代を超えると上位で勝ち越せなくなり、2ケタ勝利や三賞もなく三役も1場所だけだったが、幕内の古参力士として壁になって存在感を示した。綱取りの曙に唯一の土をつけた後は、9年1月、貴乃花を立合いの叩きで沈めた4つ目の金星が久しぶりの活躍。地力はなかなか衰えず、十両落ちのピンチもなかったが、37歳の11年7月、怪我で途中休場しスパッと引き際を決めた。 押しても組んでも強かったが、最も自信のあったのは左の褌を引き付けての寄り。あまり勝ち味の速い方ではなかったが、型にはまれば引き付け、おっつけで速攻を見せた。最大の武器はかいな力。たまに見せる投げも力強いものがあった。膝が硬くて前に落ちがち、また体質的にも硬くて長身のわりに懐の深さは感じなかったが、がっぷりでも上位に健闘した。 平成5年1月11日目 曙戦 綱取りをかける曙、ここまで1敗で優勝争いを引っ張る。立合い曙は張り差しを狙うが、栃乃和歌ワキを固めて当たり、二本差しかける。差し手争いから、曙が突いて出た。後退した栃乃和歌だがサッと左上手をとって出し投げ、右を差して寄り、上手投げと攻める。曙、残して左をこじ入れる。が、栃乃和歌両上手浅く引き付けたため、曙窮屈で左を抜くと上手に手をかけた瞬間、右で巻いて再度の左上手投げ。2メートルの巨漢がゴロリと転がった。曙は結局この1敗だけで連覇し、横綱に昇進した。栃乃和歌の力強い相撲が見られた。 関脇 寺尾 いつまでも若々しい突っ張り一筋の相撲で土俵に「タイフーン」を巻き起こした鉄人・寺尾。父は鶴ヶ嶺、兄の逆鉾とは江戸時代の谷風以来と言う同時幕内、さらに同時関脇も記録した。38組の中で最後まで土俵で頑張り、39歳まで頑張った。史上2位の幕内在位93場所と、通算黒星史上最多が鉄人の偉業を物語る。 兄・鶴嶺山、逆鉾に続いて、父・鶴ヶ嶺の井筒部屋に入門。5年で十両。史上初の3兄弟関取。十両優勝して22歳の昭和60年入幕を果たす。陥落したが1場所で戻り、以後15年半も幕内を守る。再入幕場所10勝して上位進出、以後平幕上位で健闘するが軽量に泣き、昭和時代は以後2ケタ勝利もなく、三賞(逆鉾と同時受賞)・金星も1つだけ。三役に届かず同期生に差をつけられた。 寺尾が活躍し始めたのは平成に入ってから。まず元年初場所、2大関に続き、千代の富士に外掛けを見舞って金星、殊勲賞。新三役となる関脇へ躍進。7月は大乃国から金星で10勝、初の技能賞。関脇復帰すると、以後8場所連続三役、1場所おいてもう2場所と三役に定着。この時には大関も期待されたが兄逆鉾同様大勝ちできなかった。三役力士として貴花田の11連勝を止められず、下がりを叩きつけて悔しがった一番は有名だ。6年5月・7月と貴ノ花・貴ノ浪の2大関を続けて破る活躍で連続三賞。7年3月貴乃花を逆転の投げで下して取った殊勲賞が最後の三賞だった。また、初土俵からの連続出場記録も注目されたが、9年旭鷲山に足を取られて土俵下に落ち、足の親指骨折でストップ。以後満身創痍ながらハツラツとした土俵を展開、11年11月には横綱武蔵丸を寄り切り、7つ目の金星を挙げた。12年に幕内から落ちたが、現役にこだわり翌年戦後最年長再入幕。14年9月、十両下位で途中休場も強行出場。やはり引退危機の貴闘力との一戦は感動を呼んだ。。錣山部屋を旗揚げ、豊真将を育てて兄の井筒と競っている。 寺尾の持ち味は何と言っても激しい突っ張り。立合いから、突っかけ気味に先制のモロ手突きで突き放し、相手の喉下をバシバシと弾く。長身細身の体でリーチを活かして主導権を取ると、常に距離を保って絶妙のタイミングでのいなしで捕まえさせない。このいなしのタイミングの良さで白星を稼げたことが、力士生命を大きく伸ばした。回り込みも速くて飛び跳ねるようで若々しかった。突っ張り自体は重くはないが、とにかく手数が多く、引き手が早いので手繰られにくい。自分のペースで取れることも体力以上に活躍できた要因だろう。若い頃は井筒部屋伝家の宝刀のモロ差し、右下手を引いてのしぶとい相撲も取ったが、後年は突っ張りに徹した。 平成11年11月9日目 武蔵丸戦 36歳の大ベテラン寺尾は幕内中位から下位が多くなっていたが、この場所は前頭4枚目。6日目貴ノ浪から銀星。そして9日目、この場所年4回目の優勝を果たす横綱武蔵丸に対して素早く立って猛然と突っ張り。220キロが反撃に出たが引き足よく下がって離れてかわすと、武蔵丸が泳ぐところ横まわしを出すようにして斜め後ろに食いつき、俵伝いに回って振り向こうとする武蔵丸を必死に寄り切った。鉄人執念の金星。ベテランらしからぬスピードと年季の入った相撲勘が出た一番。 関脇 安芸乃島 上位に強く下位に弱い、金星・三賞獲得数史上最多の記録を持つ、史上最強の関脇の一人。史上2位タイの幕内連続在位90場所数を誇り、最後の昭和新入幕力士となる。伝説の猛稽古で、黄金時代を築いた藤島・二子山部屋を引っ張った功績も大きい。 20歳で新十両。63年3月藤島部屋から初の入幕の場所は千秋楽で負越すなど、若い頃は要所要所でもったいない星を落としていたが、地力は折り紙付き。再入幕で11勝して敢闘賞。9月上位に躍進し、さっそく初金星を挙げて殊勲賞、あっさり三役に駆け上がった。最初の犠牲者は大乃国、これを皮切りに金星の山を築く。横綱・大関は例外なくこの176センチのずんぐりした若手に恐れおののいた。何しろ平成初期の4横綱には通算17勝25敗。ただ横綱乱獲が祟ってみんな辞めてしまい、次代の横綱は同部屋の貴乃花と、苦手の曙になって金星記録は一気にペースダウンした。大関には通算47勝。小錦には初顔から7連勝した。 平成元年は5つもの金星を挙げながら殊勲賞0。それもそのはず、金星をあげた3場所は全て負け越しで年間40勝のうち16勝が横綱大関から。すっかり上に強く下に弱いイメージが定着した。頻繁に登場するインタビュールームでの無口ぶりも有名に。2年に入ってキラーぶりはそのままに安定感を増し3場所連続三賞も記録したが、大関を狙うにはやはり取りこぼしが多い。三役に定着しない分、金星は増えてあっという間に2ケタ。幕内4年目にして、高見山が10年以上かかって獲得した史上最多金星を更新した。4年3月は大いに優勝戦線を盛り上げて12勝。その勢いで関脇で10勝を挙げて大関が見えてきたが、やはり安定感がなかった。そして5年3月久島海の小手投げに右上腕を故障。手術したが、傷跡の残る復帰場所で曙から15個目の金星。「ノ」の字をを「乃」に改めて復調。7年に入ってようやくまとまり出し、三役で連続11勝。が、この大チャンスも逸した。次のピークはベテランの域に入った10年から11年。右足の大怪我を乗り越えて、11年1月11勝、3月小結で11勝。7月は武蔵丸から6年ぶり16個目の金星。そして9月、3敗で武蔵丸と並んで自身2度目の首位での千秋楽だったが、武双山に敗れ惜しくも初優勝は逃した。その後はさすがに下り坂、15年5月、幕内維持が厳しくなって引退した。その後師匠となった貴乃花と訣別し、無所属だった高田川へ移籍。部屋を継承、古巣二所一門に合流した。 重心が低く肩幅の広いどっしりとした体。腕力が強く腰の重さがあって、稽古量が豊富。やや長い相撲が多かった。押し相撲を本分とするが、上手を取って食いつく形が最も強く、強烈に引き付けての寄り、投げを得意とした。前に落ちにくいのも特長で、低い重心で引き技を誘発しては付け入り上位を苦しめた(晩年は引きによく落ちたが)。出し投げなどのテクニックもあったが、差す相撲ではないためワキが甘いのが玉にキズ、二本差されて強引な首投げを仕掛けることも良く見られた。差し身の良い琴錦には長年苦しめられた。 平成元年1月9日目 千代の富士戦 千代の富士は得意の右四つの形になったが、安芸ノ島はしぶとく差し手を絞る。千代、両前褌に持ち替えたが一枚廻しが伸び、安芸はなおも絞って頭も付けた。窮屈な千代、右足を踏み込んで強引な下手投げで打開を図るところ、足腰の良い安芸ノ島は踏ん張って足を掴み、左で上手投げを打ち返した。しぶとさを存分に発揮して53連勝横綱を初めて破った一番。以降、期待の若手は無類の大物食いへと進化した。
関脇 土佐ノ海 学生相撲でもその名を轟かせた強豪。上位力士を食い散らし、殊勲インタビューの常連だった。金星は史上4位の11個、三賞は殊勲7など13回。幕内80場所、うち三役に20場所在位。晩年十両に落ちても頑張り、38歳9ヶ月で史上最年長の再入幕記録も作った。 同学年の貴乃花、魁皇、大学中退した武双山らを追って平成6年幕下付出で入門。十両筆頭で14勝して新入幕は西前頭7枚目。その平成7年7月は二子山勢が上位に7人いた関係で、初日大関若乃花、2日目横綱貴乃花といきなり当てられた。こんな厳しい新入幕場所は後にも先にも例がない。それでも7勝と健闘すると、翌場所は貴ノ浪を倒して11勝で敢闘賞。前頭筆頭に躍進した九州では、ライバル関脇武双山との初対決を制すと、貴乃花を後ろに回って送り倒し、さらに曙の突き押しを堪えに堪えて逆転上手投げ。圧巻の2金星で殊勲・技能、三役昇進を決めた。8年は上位を倒しながらもやや停滞。9年は三役に定着、夏には新関脇で10勝した。10年は腰痛が出て平幕に低迷したが、初の休場明けとなった11月、琴錦と平幕二人のマッチレースを演じ、若乃花から金星を奪うなど猛追、14日目貴乃花に敗れて力尽くも自身最高の12勝。この活躍で勢いを取り戻し、以降4場所で6金星と荒稼ぎ。11年7月からは7場所連続三役在位。11年九州は初日から3大関を破って6連勝、武蔵丸との1敗対決も制し、上位戦を終えて9勝2敗と優勝争いを盛り上げた。しかし相変わらず取りこぼしが多く、大関取りと言える場所は作れなかった。しばらく平幕に落ちていたが、14年ごろから復調し三役常連に復帰。15年11月には武蔵丸に引導を渡して4年半ぶり11個目の金星、最後の殊勲賞を獲得。17年の関脇を最後に緩やかに下降。21年からは十両暮らしが続いたが、22年7月、賭博謹慎力士の空き枠で予想外の最年長返り入幕。これが最後の花道で、翌場所後引退した。 ぶちかまし、突き放してまたぶちかましという馬力相撲。入幕当初は体もスラっとした印象で、動き勝つ相撲も多かった。しかし2年ほどで体重も20キロ以上増え、最盛期は160キロ超え。足腰に対して上半身の大きさが目立つようになり、パワーは増したが突き押しか叩きという大味な相撲になった。唸り声を上げながらの立合いの威力は凄まじく、出島、武双山、千代大海にも互角以上に押し込み、その愚直なまでの猛攻は上位力士の脅威だった。右四つでも上手を取れば寄り、投げと力を発揮した。一方で、足腰は早くから故障を抱えて脆さが見えた。初めの頃はしぶとい印象だったが、太ってからは頭から突っ込むのを叩かれて前に落ちる場面が目立った。 関脇 栃乃洋 史上2位タイの金星12個をマークした大物食い。10年の初金星から20年の最後の金星まで10年以上に渡り上位を苦しめた。左下手からの投げが見事だった。 8年、拓大から幕下付出。同郷の出島とは長くライバル関係だった。9場所目で新入幕を果たすと、2場所目から連続で敢闘賞。初の上位対決も苦にせず12場所目で三役となる。6,7勝どまりが多く三役復帰まで3年を要したが、その間毎場所横綱大関を食う。10年1月、曙を下手捻りに破った一番を皮切りに、2年ほどの間に曙、若乃花から3つずつの金星を獲得したが、その6場所全て負け越しで殊勲賞には縁がなかった。13年初場所で三役復帰を果たすと、3大関を倒し技能賞。翌場所新関脇となると、初めて貴乃花を倒しようやく殊勲賞を獲得する。三役で勝ち越せたのはこの2場所に終わり、その後は平幕上位に在り、年に1回のペースで小結に復帰。次々横綱が引退していったが、苦手の武蔵丸から3つの金星。15年11月には、朝青龍と2日連続で金星で殊勲賞。自身が最も目立ったのは16年9月。4連覇中だった朝青龍に土をつけ、千秋楽まで魁皇を1差で追いかけるが、琴ノ若に投げられて唯一のチャンスは潰えた。この場所の殊勲賞が最後の三賞となり、翌年故障で十両陥落。これで終わりそうなものだが、徐々に復調して上位にも顔を出すようになると、20年7月には三度朝青龍から金星。30代後半になっても十両に落ちれば1場所で戻っていたが、24年1月十両で大きく負け越して38歳を前に引退した。 左を差すと力を発揮、半身になると腰が重く、土俵際での左下手投げ、または掬い投げが飛び出す。七尾市の大先輩・輪島を彷彿とさせる取り口だった。輪島のように腰を入れて打つのではなく、前褌を引かれて一見下手が殺されているように見えても投げられる器用さ、ヒジの柔らかさが芸術品だった。逆転勝ちが多く、警戒するところを反対の右突き落としというのも十八番。当然右からの攻めがもっと出れば、自分から攻めればという声は強く、一時期突き押しを磨いて朝青龍を一気に押し出したこともあったが、やはり最後まで基本形は左差しだった。 関脇 若の里 大関以上とも言われる実力を誇った名関脇。師匠隆の里譲りのポパイのような身体。力強い相撲で朝青龍ら上位力士を苦しめた。膝の故障で何度も番付を落としながら、38歳まで土俵を務めあげた。殊勲・敢闘各4回、技能2回。 黄金の昭和51年生世代。十両3場所で突破し平成10年5月に新入幕敢闘賞、すぐに上位に上がると11月には若乃花から金星獲得。ところが翌年膝に重傷を負って十両下位まで転落。連続優勝で復帰し、再入幕で11勝。翌場所新三役を果たすと、連続殊勲賞。上位キラーとして定着した。14年からの3年あまり連続して三役にあり、大関を窺った。その間、2度の連続二桁勝利があったがチャンスを活かせなかった。。横綱大関にも強く、度々優勝力士に土をつけている。カド番が続く当時の大関陣よりも安定した成績を残していた。2度目の大関取りでも負け越して連続三役がストップ。関脇に戻った17年9月、またも膝を故障して幕尻に。すぐに上位に戻ったが、再度故障して今度は十両下位にまで落ちた。以後下半身の衰えは隠せず、平幕上位で勝ち越すことはできなくなった。最晩年は十両でも頑張っていたが、幕下落ちした27年9月についに引退。ケガに泣きながらも同期の関取で一番長持ちした。 剛腕が持ち味、四つは左右どちらでも遜色なく上手を引き付ければ力強い相撲を発揮した。魁皇と似たタイプと見られがちだが、実は下手からの方が技が出て、上手投げより掬い投げを得意とした。時に両差しの攻めを見せることもあった。身体は硬く、立合いで腰が起きてしまうとあっけなく取りこぼしてしまうこともあり、幕内では11勝が最高。 関脇 安美錦 殊4敢2技6金8
軽量の業師から速攻型の三役・三賞常連力士へ。見事な変身を遂げて長く上位を苦しめた。再三の膝の古傷悪化、晩年にはアキレス腱断裂で転落するも見事再起し涙の敢闘賞。40歳まで史上1位タイの117場所関取にあった。
平成12年新入幕、15年には貴乃花から初金星を得て最後の相手となり、この年武蔵丸からも金星。その後膝の怪我もあり低迷したが、徐々に番付を上げて18年秋に3度目の技能賞を得て翌場所新三役となる。19年には朝青龍を破っての殊勲賞を2場所連続で獲得、新関脇の秋は初日から8連勝して二桁。大関候補の声もかかったが、成績的にはこれがピークで三役定着とはいかなかった。それでも度々上位を食ったり、大勝したりして殊勲賞、技能賞の常連だった。30代後半になっても平幕上位をキープしていたが、28年夏栃ノ心戦でアキレス腱を切って長期離脱、十両下位で苦しみ引退危機を迎えたが、よく踏ん張って29年九州で1年半ぶりに再入幕すると、千秋楽勝ち越しながら敢闘賞が与えられた。だが翌場所また膝を痛め、その後は十両暮らしが長くなり、令和元年名古屋で序盤膝を痛めて休場すると、場所中に復帰を断念して引退した。
右四つとしているが、前褌引いて食いつく形で流れに応じて展開する。体重が増えてからはのどわ押しで一気に出る力がついて開眼。叩きとのコンビネーションも相撲勘良く決まったが、最晩年は上段から両手でまともに叩くようになり、これしかないという感じだったがよく星を拾った。元来業師で体も柔らかく、珍手も繰り出しているが、当初最軽量だった体が150キロ近くなって相撲が変わった。
平成15年1月場所8日目 貴乃花戦 まだ目立つ存在ではなかった軽量の安美錦、進退をかけて異例の再出場をしてきた貴乃花に初めて挑んだ。引っ掛け、出し投げと、横へ横へと回る安美錦に、膝の回復不十分の横綱は対応できず、あっけなく寄り切られた。平成の大横綱に引導を渡し、一躍その名を上げた。
関脇 豊ノ島 殊3敢3技4金4
当時の体格基準未満で第二検査で合格した小兵ながら、卓越した差し身からの技能で上位を苦しめ、長く幕内上位で活躍した。
平成16年9月、2メートル超の琴欧州との同時に新入幕で話題に。定着に苦労したが、翌年十両で14連勝して3度目の入幕を果たしてから、勢いに乗った。19年1月は12勝で三賞をW受賞。上位初挑戦では、既に大関となっていた琴欧州を見事な投げで倒すなど活躍して新三役に。三役定着とはいかなかったが、秋には白鵬に初の金星を献上させるなど、上位キラーぶりを発揮。小結に復帰した20年名古屋では朝青龍に初めて勝って二けた勝利で関脇に昇進。21年は生命線の左差し手を痛めて不振、さらに22年は野球賭博謹慎で十両に転落。十両では14勝して2度目の優勝、そして再入幕の九州も好調を維持して1敗のまま終盤へ。優勝を争う2大関にも勝ち、対戦のなかった白鵬との決定戦に。惜しくも敗れたが、連続の14勝で三賞W受賞。その後三役から平幕上位で大物を食ったり大勝したりと存在感を発揮していたが、24年後半あたりからやや下降、腰、膝などに故障も抱えて、上位で勝ち越せなくなってきた。 しかし28年初場所は、休場明けながら2敗で優勝争いに残り、3横綱を破って驀進するライバル琴奨菊に土をつけた。最後は負傷して脱落も、殊勲賞を獲得した。翌場所関脇に復帰、2横綱を破ったが怪我の影響で3勝止まり。番付を下げていたが、さらに稽古中にアキレス腱断裂の悪夢。長期離脱を余儀なくされ、あっという間に幕下へ転落した。怪我さえ癒えればすぐに復活と思われたが回復は遅く、十両目前に来て2度の故障休場の不運もあって2年も幕下暮らしを余儀なくされた。それでも腐らず31年には幕内に復帰。最後は右のアキレス腱も痛めて再度の幕下落ち。1場所復帰に失敗し、遂に引退した
小兵ながら頭を下げず、驚異的な上体の反りで相手の攻めを受けつつ左を差し込む。大鵬のように腕をクロスさせて両差狙い。左が入ると、下手からの投げや肩透かしなど高い技能を発揮する。入幕当初得意にしていた内掛けなどは、年々太ってきたせいで腹がつっかえ急減した。
平成22年11月場所千秋楽 稀勢の里戦 13勝1敗で白鵬と並んで迎えた楽日の相手は、相性の悪い稀勢の里。しかも白鵬の63連勝をストップして10勝4敗と好調。大一番でも冷静だった豊ノ島、相四つに乗じて組み止めようとする相手をいなして廻しを与えず、ならばと突き押しで出てくるところ、後退しながら左差し。出足に任せて廻しを取れないまま出てくるところ、土俵際で得意の掬い投げ。ぐらついたところを押し倒した。
関脇栃煌山 殊2敢2技2金6
幕内77場所中25場所三役を務めた強豪。同学年の稀勢の里、豪栄道らと激しい鍔迫り合いを演じた。
高校相撲で競い合い、実績では上だった豪栄道を凌ぐスピード出世、丸2年で上がった19年3月の新入幕では敢闘賞獲得。その後上位定着には苦労したが、22年秋新関脇で11勝。その後も成績は安定しなかったが、24年夏は独走する大関稀勢の里を破って混戦に持ち込み、3敗を守って決定戦へ。平幕同士の決戦は旭天鵬の叩きに落ちて栄冠を逃した。同年秋は初めて白鵬に勝って初金星。25年からは三役に定着し、特に二桁の勝ち星も収めたが、肩の脱臼で転落する間にライバル豪栄道に大関取りを許した。関脇に戻った27年名古屋では全勝の両横綱に連日土をつけて9勝1敗で並んだが、結局10勝に終わった。この時の殊勲賞が最後の三賞となった。翌年以降膝などの状態が悪化して徐々に三役、上位から遠ざかる。それでも時折上位を苦しめ、横綱稀勢の里最後の相手となった。その金星ののち急速に番付を落として令和元年九州では初めて十両へ。1場所で復帰したが、再転落すると今度は土俵に上がらず潔く引退した。
二本入る巧みさは当初からあったが、前に出る力が目立つ力戦型として強みを発揮し、技の決まり手はほとんどなかった。徐々に緩急を使って叩きも武器になり、おっつけ、ハズで挟みつける押し相撲から、モロ差しの技術が光る技能派に。足腰が硬くとにかく前に落ちる脆さを指摘されていたが、後年は幾分頭を起こしてこうした技術で打開するようになった。
平成27年7月場所9・10日目 鶴竜、白鵬戦 立合い、当たり勝って右差しの栃煌山、左ハズで押し込むと、横綱鶴竜たまらず腰が浮いて後退、叩きも呼び込むばかりで電車道。翌日、白鵬の右差し許すが、左へ開いて突き落としつつ右で叩くと、横綱バッタリ。初勝利時と同様の引き技が決まった。猫だましや再三のとったりであしらわれてきた天敵も沈めた。翌日両差しに入りながら豪栄道の首投げにやられなければ、この場所一気に走ったかもしれない。大関へも繋がったかもしれないと悔やまれる。
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