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二所一門 出羽一門 立浪一門
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昭和54年に引退した元大関魁傑が、旧・花籠部屋から内弟子を連れて独立。60年に花籠部屋が閉鎖した際には全力士が移籍し、本家を吸収する形となった。 早速大乃国が横綱となり、阿佐ヶ谷系の本流を継ぐにふさわしい活躍だったが、平成以降失速した。
■主な力士 (赤は現役。優は優勝、三は三賞、金は金星、★は60年に花籠部屋から合流した力士) 横綱 大乃国(優2) ■四股名の特徴・その他 師匠の四股名から「魁」がつく力士もいたが、魁輝の友綱の方が徹底しているため徐々に減り、後年は駿傑など「傑」を受け継ぐ力士が多くなっている。部屋の名前から「駒」をつける力士もいた。 大乃国は入門時所属した花籠部屋の師匠大ノ海から(当初は大ノ国)。 ■歴史 大器大ノ国らを連れて独立 日大を中退して入門した魁傑は、2度の優勝を果たすなど40年代後半から50年代前半にかけて活躍。大関から平幕に陥落しながら、平幕優勝をきっかけに復帰した苦労人。「休場は試合放棄」の名言を残した角界の紳士。日大卒の横綱輪島とともに花籠部屋最後の黄金時代を築いた。引退後は部屋付きとなっていたが、2年後の56年に独立。同年輪島が引退し花籠部屋を継承している。 本家花籠を吸収 独立は予定通りで、内弟子だった数名が移籍。そのうちの一人、大ノ国が急成長。60年秋には大関に昇進した。同年12月、花籠部屋は師匠廃業に伴い消滅し、その力士たちを受け入れることとなった。横綱若乃花らが輩出した阿佐ヶ谷系を束ねる大家だけに継承を期待する声もあったが、固辞したと言われる。のち小結の花乃湖らが加わり一躍勢力を伸ばした。 横綱大乃国誕生 大乃国は62年に全勝で初の賜杯をもたらす。これをきっかけに横綱昇進を果たした。63年には横綱として初の優勝を果たすが、師匠に並んだ2度目の賜杯が最後となってしまった。千代の富士の連勝を止める大殊勲はあったものの、平成元年には皆勤して負け越し、2年には4場所連続全休と、史上最重量横綱は調整に苦しんだ。当時の二子山理事長も一門の横綱の不振に悩んでいた。3年には復調を見せたが、若手の台頭の前に力尽きた。 後続が出ず低迷 師匠魁傑と水入り取り直しの死闘を戦ったのが大関旭国。ともに休場嫌いで有名だったが、師匠となってからも部屋創設からまもなく横綱を誕生させた点でもよく似ている。ただ、平成初期までは競っていたものの、旭国の大島が旭富士以降も安定して幕内力士を抱えたのに対し、放駒部屋は後続が出て来なかった。花籠から合流した力士たちも大乃国引退の頃には下降線で、花ノ国、駒不動を最後に関取も途絶えた。 ようやく幕内力士復活も 長い空白期間を挟み、17年に小兵の駒光・石出改め駿傑が遅咲きの新入幕。しかし長くは維持できず、20年に引退すると関取不在となった。花籠からの預り弟子の三杉磯、大乃国の芝田山が独立したが、どちらも関取はほとんど出ず苦戦している。 ■現状・展望 関取復活を目指して幕下には前田らが頑張っているが、あと一歩届かない。24年3月も若乃島が筆頭で負け越した。 師匠は25年1月場所を最後に停年となる。弟子で年寄になっているのは大乃国の芝田山、三杉磯の峰崎だが、どちらも部屋持ち。放駒が花籠を吸収したケース同様、独立した弟子が本家を継ぐのは意外にハードルが高い。結局芝田山部屋に合流することとなって、大島部屋同様横綱を出しながらも一代限りで消滅となってしまった。 |