|
部屋分析 部屋データへ | |||||||||
部屋一覧
二所一門 出羽一門 立浪一門
|
元幕内肥後ノ海が三保ヶ関部屋から独立して創設。学生相撲との強いパイプを生かして新興ながらも次々と有望力士を入門させ屈指の大所帯となったが、これからというときに暴力団に関係した師匠の不祥事で部屋閉鎖という厳しい処分を受けた。兄弟子格にあたる北の湖部屋に一時預けられていたが、その間も師匠は精力的に弟子の発掘、育成に務め、平成24年に再興が認められて再び独立。その後も大学相撲界からの入門者は絶えず、即戦力クラスが加入して層が厚い。 ■主な力士 (赤は現役。優は優勝、三は三賞、金は金星) 小結
常幸龍 ■四股名の特徴・その他 バラエティに富んでいるが、師匠の四股名から同郷の力士には「肥後」をつけたり、木瀬部屋から「瀬」をとったり。 師匠が好むという「コ」の字を持つ関取も2人。 縁のある3文字を組み合わせた現代的な四股名も多い。 ■歴史 引退、木瀬を襲名 学生相撲から幕内付出でデビューした肥後ノ海は、高校・大学と同窓で同部屋、のちに尾上部屋を興す濱ノ嶋とともにすぐに幕内で活躍。曙と貴乃花から金星も挙げたが、常に平幕にあって三役には届かなかった。14年限り引退、木村瀬平を襲名した。木村瀬平は通称「木瀬」、式守秀五郎は「式秀」、ともに行司を祖とする名跡であり、フルネームで継承するのが習わし。元は伊勢ケ浜部屋の桂川、清の盛と二代にわたって半世紀近く木瀬部屋を経営していた。小結青葉山が活躍した。12年に閉鎖し停年で空き株になっていたところを、一門外ながら取得した。15年には早くも内弟子7人を連れて独立。表立ったトラブルはなかったが、その後独立元の三保ヶ関部屋との関係は良好ではなかったようである。 大物・市原の入門 出身の日大から有望株をスカウトし、初の幕下10枚目格・市原(のち清瀬海)が入門して注目された。清瀬海は十両を1場所突破、実績に違わぬ大物ぶりを発揮したが、入幕直後にヒザに重傷を負い、その後十両で低迷した。しかしアマ相撲界で存在感を誇った市原の影響力は大きく、新興の部屋ながら即戦力力士が続々入門した。体が出来上がっている新弟子が多い大学相撲出身者の中でも巨漢ぞろいで、さらにグルジアから臥牙丸も入門。人数も一気に増加しており、稽古場が狭く見えた。 部屋閉鎖の憂き目に 22年、維持員席のチケットを暴力団に融通したとして、師匠が処分される。降格など個人の処分に留まらず、部屋の閉鎖という異例の厳罰を受けた。不祥事が続き、さらに暴力団絡みの事件については世間の厳しい目が光っている時勢であった。師匠と多数の力士は北の湖部屋に受け入れられることになった。濱ノ嶋の尾上部屋は、把瑠都を大関にして多数の関取が輩出、明暗が分かれた。北の湖所属期に、清瀬海は野球賭博事件で謹慎、さらに八百長事件では発覚メールの当事者であり、引退に追い込まれた。元師匠も監督責任を問われて処分。 復活 部屋付時代の木瀬、針のむしろだっただろうが、後進の指導意欲は衰えておらず、内弟子を抱えるような形で指導に努め、スカウトも継続している。北の湖が理事長職に復帰し多忙とあって、大所帯を支えていた。部屋付ながら、この時期に関取となった力士らの四股名も与えている。北太樹ら北の湖部屋の力士らと同部屋となり、刺激を受けたことで旧木瀬勢も鍛えられていく。伸び悩んでいた臥牙丸も三役まで出世した。そして24年、意外に早く木瀬部屋の再興は認められた。北の湖が理事長に復帰したのも大きかったが、預かり弟子全て連れて送り出す気前の良さだった。 関取続々 復活した木瀬部屋は、デビュー27連勝した常幸龍が初の三役力士になるなど、順調に関取を増やしていった。巨漢力士ばかりという印象だったが、小兵で反り技の名手の宇良が一世を風靡して話題性にも富んだ。ただ、若くして怪我に祟られたり、幕内や十両に上がって頭打ちになるケースが続き、一時は14人もの関取経験者を有す層の厚さは驚異的ながら、勢力としては地味という状況に甘んじていた。 平幕優勝 そんな中で、令和2年初場所に2年半ぶりに再入幕した33歳徳勝龍が、まさかの幕尻優勝。何とも意外な形で部屋に初めて賜杯がもたらされた。さらに序二段まで落ちていた宇良が見事復活し初三賞、上位定着。 ■現状・展望 大学相撲出身者を中心に供給は続き、当面安泰。さらにカザフスタン出身の金峰山が、部屋の歴史に新たな章を書き加えそうな大物感を漂わせている。 |